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近くの声、遠くの声 [Thoughts]

携帯電話もPHSもインターネットもパソコン通信もない頃、毎晩テレホンカードかコインを何枚か持って公衆電話に通っていた。家には固定電話(という言い方もなかったけど)が一台しかなくて、その一台は両親の寝ている部屋に置かれていたから、彼女の声を聞くには電話ボックスまで出かけるしかなかった。

札幌とかソウルとかコペンハーゲンとかと比べれば、たいして寒くないはずの横浜の冬でも、電話ボックスで一時間も二時間も受話器を握っていると、カイロ代わりの缶コーヒーが温かいのは最初の10分くらいで、しまいには手の感覚が全くなくなって、声が震えて話ができなくなることもある。

それでもテレホンカードの残りが少なくなって、あと2分で切れると思うと、新しい話題を始めるのもなんだし、でも2分は沈黙するには長すぎて、なんだかぎこちなくなってるうちに会話の途中で唐突に電話が切れて、とぼとぼ家に帰るときの気分は、今でも覚えてるけど、すごくさみしい。

長時間電話を占拠するので、電話待ちの人がいたら話の途中でいったん切って電話を譲って、またかけ直すこともある。それでも電話を待って並んでいた男とケンカになった(41年間生きてきて、これまでのところ最後のどつき合いのケンカは、電話待ち男とだった)。

単に「彼女の声を聞く」ことが、昔は今よりも難しくて貴重なことだった。でもその分、声を思い出したり、思い浮かべたり、想像したりする時間がたくさんあったし、それってけっこう大事なことなんじゃないかと思う。

当時いちばん頻繁に使っていた実家の近所の電話ボックスは今でもまだ残っていて、
最近は滅多に使う人もいないみたいだけど、この間通りかかったら、おそらく南米系と思われる人が(おそらく)母国の家族に電話をしているのを見かけた。

分厚いコートを着込んでマフラーをしてテレホンカードを何枚も並べている。受話器の向こうにはたぶん奥さんか子供か両親か、とにかく家族がいて、顔は楽しそうで、でも心なしか受話器を握る手に力がこもっているようにも見える。

それをみていて、まず電話ボックスがずっとなくならないといいなと思い、
いや、それよりも好きなときに携帯で話せるようになればいいのに、と思い直し、
いやそもそも、国際電話なんかかける必要なくなるといいな、とまた思い直す。

そこにあるのは、声を思い出したり思い浮かべたり想像したりすることが貴重であることとは、また別の世界だ。
タグ:恋愛 時間
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