2011年のコンテクストからみたアウトライナー [アウトライナー]
Scripting Newsで、デイヴ・ワイナーが久しぶりにアウトライナーについて語っている(もう、それだけで嬉しくなっちゃう)。
「なぜアウトラインが役に立つか」というタイトルから読者が期待する内容からは、たぶんかけ離れている。むしろワイナー自身が文中で触れているように「2011年のコンテクストからみたアウトライナー」というタイトルの方が適切だと思うけれど。
「2011年のコンテクストからみたアウトライナー」は、一本のアウトラインの中で複数のサイトの構成とコンテンツを同時に管理するツールとして登場する。それが、ワイナー自身が自作のアウトライナー(OPML Editor=Frontier)で今やろうとしていることだ。
Scripting Newsを初めとして、文字通り何十ものサイトを管理しているワイナーのような人間にとっては、これができれば負担がずっと軽くなるだけでなく、軽減した負担の分のエネルギーを創ることに向けられるという意味で二重の意味がある。
もともと「構造と内容を同時に編集する」ことができるのがアウトライナーの最大の特徴で、そのこと自体は自体は新しいことではない。ただし、その対象はかつては論文やレポートなどの構造的な文書だった。そこに、より今日的な意義を与えるとすれば、複数のサイト=自分のネットプレゼンス全体の管理、ということになるのはたぶん必然。
※
開発者でもあるワイナーとは比較にならないけど、自分自身の今のアウトライナーの使い方(そして感じている意義)と比べてみるとすごく興味深い。
「他人が書いている内容にキャッチアップするのは大変な作業だが、自分自身が創り出したものを管理することはさらに困難だ」とワイナーが書いているのはまさにその通りで、自分の思いつきや考えたことほど、とっちらかってわけがわからなくなってしまうものはない。結果としてそれらは思いついたり考えたりしたという記憶だけを残して消えていってしまう。そして日々の現実だけが残る。
で、ぼくにはそれが耐えられない。
今やりかかっていたり、考えたりしていることの全体が、一本のアウトラインの中に入っていることの意味は、想像以上に大きい。
本来なら、頭に浮かんだきり消えていくしかなかった思いつきが全体の中に位置づけられて、他のものごととの関連の中で見られるから。
それは、例えばEvernoteの中にため込んだ内容を検索して引っ張り出すこととは全く違う。そこには全体の中の位置づけという視点が抜けている。
位置づけられているからこそ、断片的な思いつきに生命が吹き込まれて、成長して形になっていくことがある。あるいは、どこにも位置づけられず「役に立たない」ということが判明する。いずれにしても、記憶だけを残して消えてしまうことはない。
Evernoteは素晴らしいと思いつつ、そして便利に使ってはいつつ、入れ込むことまではできないのはそこに理由がある(Evernoteが最近になってノート同士のリンク機能を追加したのは、そのあたりをカバーする意図だと思う)。
※
ワイナーの文章の全文訳はRenji Talkの方にのせたので、興味のある方はどうぞ。
→「なぜアウトラインは役に立つか」
「なぜアウトラインが役に立つか」というタイトルから読者が期待する内容からは、たぶんかけ離れている。むしろワイナー自身が文中で触れているように「2011年のコンテクストからみたアウトライナー」というタイトルの方が適切だと思うけれど。
「2011年のコンテクストからみたアウトライナー」は、一本のアウトラインの中で複数のサイトの構成とコンテンツを同時に管理するツールとして登場する。それが、ワイナー自身が自作のアウトライナー(OPML Editor=Frontier)で今やろうとしていることだ。
他人が書いている内容にキャッチアップするのは大変な作業だが、自分自身が創り出したものを管理することはさらに困難だ。
だから、それらを整理し、わかりやすく、簡単に見つけられるようにしたい。それからブログに投稿した記事に何か間違いを発見したら、あるいは注釈や写真を追加したいと思ったら、できるかぎり簡単に元のテキスト発見し、修正し、保存したい。
私にとってアウトラインが、急激にそのための方法になりつつある。
(中略)
つまり、素早く検索し、移動し、簡単に再構成できる単一のドキュメントの中でサイトの集合を管理することだ。
Scripting Newsを初めとして、文字通り何十ものサイトを管理しているワイナーのような人間にとっては、これができれば負担がずっと軽くなるだけでなく、軽減した負担の分のエネルギーを創ることに向けられるという意味で二重の意味がある。
もともと「構造と内容を同時に編集する」ことができるのがアウトライナーの最大の特徴で、そのこと自体は自体は新しいことではない。ただし、その対象はかつては論文やレポートなどの構造的な文書だった。そこに、より今日的な意義を与えるとすれば、複数のサイト=自分のネットプレゼンス全体の管理、ということになるのはたぶん必然。
※
開発者でもあるワイナーとは比較にならないけど、自分自身の今のアウトライナーの使い方(そして感じている意義)と比べてみるとすごく興味深い。
「他人が書いている内容にキャッチアップするのは大変な作業だが、自分自身が創り出したものを管理することはさらに困難だ」とワイナーが書いているのはまさにその通りで、自分の思いつきや考えたことほど、とっちらかってわけがわからなくなってしまうものはない。結果としてそれらは思いついたり考えたりしたという記憶だけを残して消えていってしまう。そして日々の現実だけが残る。
で、ぼくにはそれが耐えられない。
今やりかかっていたり、考えたりしていることの全体が、一本のアウトラインの中に入っていることの意味は、想像以上に大きい。
本来なら、頭に浮かんだきり消えていくしかなかった思いつきが全体の中に位置づけられて、他のものごととの関連の中で見られるから。
それは、例えばEvernoteの中にため込んだ内容を検索して引っ張り出すこととは全く違う。そこには全体の中の位置づけという視点が抜けている。
位置づけられているからこそ、断片的な思いつきに生命が吹き込まれて、成長して形になっていくことがある。あるいは、どこにも位置づけられず「役に立たない」ということが判明する。いずれにしても、記憶だけを残して消えてしまうことはない。
Evernoteは素晴らしいと思いつつ、そして便利に使ってはいつつ、入れ込むことまではできないのはそこに理由がある(Evernoteが最近になってノート同士のリンク機能を追加したのは、そのあたりをカバーする意図だと思う)。
※
ワイナーの文章の全文訳はRenji Talkの方にのせたので、興味のある方はどうぞ。
→「なぜアウトラインは役に立つか」
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