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自分の中の無思考的マッチョ的絶対性 [Diary]

アメリカの公立小学校に通ったのは、日本でいう小学校1年生から5年生の間だった。

最初は英語ができないという理由で1年ダウングレードされてキンダーガーデン(幼稚園みたいなもの)から始まり、3年生から4年生にスキップして本来の学年に戻り、ジュニアハイスクールに入って数ヶ月で帰国。

で、その間面と向かって「ジャップ」と呼ばれたことが、記憶してるだけで数回。

もちろん子どもの頃のことで、相手も子どもだからその本来的な意味なんかわかってないのだが、だからこそ本質的とも言える(当たり前だけど子どもの言葉は周囲の大人の言葉の鏡)。

で、ここでの話は人種差別的発言を糾弾することではなく、Tomo.さんと話していて改めて自覚した、そのときの自分の反応の話。

「ジャップって言われたらどうするの?」
「絶対に許さない」

ジャップと言われて黙って見過ごすことは、絶対にあり得ない。そのような扱いを受けて黙って見過ごすようなやつは、決して仲間から認められないし、むしろ軽蔑される。力ずくで黙らせようが、逆に差別的な発言を返そうが(黒人の同級生に力ではかなわないから「もう一度言ってみろこのニガー野郎」と言い返した9歳児)、とにかく黙っていてはいけない。

その無条件かつ唯一絶対の結論は、妻にはなかなか理解しにくいものみたいだった。

確かに、そのマッチョな絶対性は、普段の自分の振るまいとはずいぶんかけ離れているし、相容れない。物理的に暴力を振るわれたわけでもないのに、そんな奴に対していちいち反応しても無益な争いを生むだけだ。

そもそも自分の中にそこまでの、敢えて言うなら無思考的・脊髄反射的・非寛容的な姿勢が(今になっても)残っているということを、あまり自覚していなかったことに自分で驚いた。

そして、5年の間に疑う余地のないこととして自分の中に染みついたその姿勢こそが、もしかしたら世界を覆っているもっとずっと巨大な問題の根っこに繋がってるのかもしれない、ということにも。
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