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結婚論序説・欲望編(みたいな) [Thoughts]

どんな人と結婚したいかとか、いつ頃結婚したいかとか、子どもはいつ頃何人ほしいかとか、若い頃そういうことを真剣に考えたとして、実際にその通りの結婚をしている人が何%くらいいるのか知らないけど、きっとそんなに多くはない。

そんな人は、自分の人生には現れないかもしれない。現れるとしても40を過ぎてからかもしれない。結婚しても子どもはできないかもしれない。全て理想通りことが運んだと思ったら、その人はある日死んでしまうかもしれない。それ以前に、計画しているうちに自分が死ぬかもしれない。

非常に青臭く聞こえることを承知で言うと、恋人や結婚相手は「つくる」ものではなく「できる」ものだ。

子どもも「つくる」ものではなく「できる」ものだ。できたら困る場面で「できない」ようにする必要はあるけど、それでも「できちゃう」ことはある。

未来は予測できない、という当たり前のこと(そしてそのことは、生きている期間が長くなるほど痛感する)。

予測できないことに対して戦略やプランを定め、その通りにコトを運ぼうとするということは(あるいはコトが運べると考えることは)、とても傲慢で暴力的なことだ。

でも、戦略とかプランとかいう表現で、その種の暴力を振るったり振るわれたりする機会はたぶん日に日に増え続けている。

それは今、ぼくらが病んでいる大きな原因のひとつだと思う。



何も計画しないとしたら、望まない状態を甘んじて受け入れなきゃならないのかというと、そんなことはない。

むしろ、人は生きているかぎり望みを叶えようとする義務がある(それが生きるということだから)。ただそれは「計画的に」「戦略的に」進められるものではないというだけだ。

自分が本当は何を望んでいてどっちの方にいきたいのか教えてくれる機能を、人間はちゃんと持っている。

それは欲望と呼ばれる。欲望が、今自分が本当はどうしたいのかを教えてくれる。

本来計画できないことをプランするべきではないのは、欲望に対して目が曇るからだ。プランや戦略というのはロジックであり、欲望はロジックとは無縁のものだから。

すごく単純な例でいえば、どんなに理想的な条件(スペック)を備えた相手が現れたとしても、その人に触れたり触れられたくないとしたら人生を共にすることなんてできない。

相手の立ち居振る舞い、声、匂い、言葉の選び方、食べ方、仕草、表情に違和感があったら、人生を共にすることなんてできない(そういうものがどれだけ重要かは、他人と暮らしたことがある人ならわかるはず)。

あるいはもっと言うと、本当にその人の身体と心の中に入る、あるいはその人を自分の身体と心の中に入れることを望まなければ、長い年月をいっしょに過ごすことなんかできない。

その基準を欲望という。自分の欲望に対して心を開いていれば、必要なときに必要な判断をすることができる。

なぜその人がいいのかどうしても言葉で説明できなくても、その人が絶対にいいのだとわかるという場合もある。

逆に全てが理想的のように思えても、「何か違う」「何かがしっくりこない」と感じることもあるかもしれない。

そこでロジカルな判断を優先すると、たぶんあまりいい結果にはならない。

だからこそ、全ての基準になる欲望が健全であることは重要なのだ。

ちなみに「欲望」という表現が生々しくて嫌だという人へ。欲望というのは、生きるためのエネルギーのことだよ。
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