文章書きはプログラマーの想像力に縛られている [アウトライナー]
日本の文章書きがコンピュータに出会ったのは、80年代にワープロ専用機が普及してからだった(ここでいう「文章書き」は、職業的な物書きだけでなく、日常的に文章を書く一般ユーザーのことね)。
だけど長い間、ワープロは「清書機」とみなされてきた。多くの人が意義を見出したのは、漢字仮名交じり文をキーボードで打てるということ、そして自分の書いた文章が美しい「活字」として印刷されること。当時のワープロのレビューとかは、まずは印字品質(そして飾り文字や罫線の種類)、そして漢字変換の性能を取り上げていた。
編集機能が思考プロセスに大きな影響を与えることに気づくユーザーもいたけど、開発メーカーも含めて、本質的には原稿用紙時代の発想から抜けられなかったし、この時代のワープロが文章書きのプロセスに劇的な飛躍をもたらすことはなかった。
文書容量の少なさが最大のネックだったけど、そもそも文章を編集することが、頭の中身も編集しているのだという発想自体が希薄だった。編集は文字や行単位で行うことが基本で、長文を再構成することは簡単ではなかった。「一太郎」などのパソコンワープロが普及しても、状況は似たようなものだった。
KJ法や情報カードを使った作業をコンピュータで再現しようとした試みもあったけど、紙の世界でもともとやっていたことをコンピュータの中でやろうとしても、「紙の方が柔軟でいいよね」ということにしかならなかった。
■
おそらく、物書きの世界に飛躍をもたらしたのは、プログラミングツールの発見だった。
プログラミングのための道具は、文章書きの役にも立つ。正確にいうと、コードを書くためにテキストを操作・編集するツール。
コードを書く作業というのは相互依存関係にある複雑なテキストファイルを大量に編集する作業だから、その効率が開発の生産性に直結する。そのために作られたツールが文章作成に役に立つのは当然のことだ。
80年代末から90年代初めくらいの時期。MS-DOSの世界(まだWindows以前の時代)の文章書きユーザーは、プログラミング用エディタ(MifesやらVZ Editorやら)とUNIX由来のテキスト処理ツール(grepやらsedやら)を「発見」した。
当時は入門者向けの書籍に、VZをハブにして各種ツールをバッチファイルでつなぎ合わせてテキスト処理するテクニックが載っていたりした。こうした処理は、原稿用紙のメタファーで思考しているうちは、思いつかないようなことだった。
一方マックの世界で、物書きはThinkTank、MOREといったアウトライナーを「発見」した。デイブ・ワイナ―が最初のアウトライナーを作ったきっかけは、フォールディング機能つきのLISP用エディタを目にしたことだった。その意味では、アウトライナーの紀元だってプログラミング用ツールなのだ。
文章の表示レベルを自由に変え、マクロ的な視点とミクロ的な視点を自由に行き来するというのもまた、原稿用紙や情報カードのメタファーからは思いつかなかったことだし、それまでは不可能だった思考プロセスの飛躍をもたらした。
■
で、その後。
Windows95以来、コンピューターを使う人は劇的に増えたけど、MS-DOSのテキスト処理ツールやアウトライナーのように、物書きのプロセスに飛躍をもたらしてくれる何かがあったかどうか。
確かにWEBが登場し、Googleが登場し、クラウドが登場し、Evernoteが登場し、Wi-Fiが普及し、スマホとタブレットを持つようになった。文章を書いて、保存して、活用して、公開して、共有するための環境は劇的に進歩した。
でも、文章書き(という行為)そのもののための道具がどのくらい進歩したかというと、実はそんなでもない、気がする。
Googleドキュメントは便利だけど、純粋に「書く」機能としてはデスクトップアプリを模倣してるだけで、何か新しいことができるようになったわけではない。Evernoteだって、ノートエディタはごく普通のリッチテキストエディタだ。その部分だけ取り出せば、90年代初めからほとんど変わっていない。
■
たとえば、EvernoteやSpotlight検索を使えば、保存した文書を見つけ出すことは簡単にできる。
でも、個人的には「今年自分が書いた全ての文章の中から〈猫〉という言葉を含む段落だけ抜き出して、それぞれの段落の1行目を見出しにしたアウトラインを作ってくれる」くらい、当たり前のようにやってくれていいと思う(これはつまり、自分が今年「猫」について何を考えてきたかをひと目で俯瞰することだ)。
一般ユーザーにそこまでのニーズはない、というのは誤解だ。
ブログのエントリやFacebookやメールまで含めれば、普通の人でもかなりの量の文章を書いてるし、文章を大量に書く人は、実はけっこう高度なテキスト処理のニーズを持っている。まして、仕事に関わる場合、あるトピックについて自分が書いたことを一気に引き出して加工したいなんていうことはいくらでもある。でも、一般の文章書きユーザーが手にしている環境では、簡単にはできない。
それができないのは、(ぼく自身も含めて)技術に疎いユーザーが、コンピューターで何ができるか本当には分かっていないこと。そして、分かっていたとしても自分の思うとおりのプログラムを自分では書けないからだ。
その意味では、文章書きはいまだにプログラマーの想像力に縛られてる、と言ってもいいかもしれない。「こんな高度なテキスト処理機能は必要ないだろう」という方向と、「必要だったらもっと高度なツールの使い方を覚えろよ」という二つの方向で。
今は、本物のテキスト処理ができるツールは、大多数の文章書きユーザーにはハードルが高すぎる。それに、本当は「テキストファイル」を編集するための機能と、「文章」を編集するための機能は微妙に違う。
■
今の段階で、プログラマー的想像力と物書き系想像力のバランスがいちばんいい具合に取れているのは、プロセス型アウトライナーだと思う。それは、この種のソフトの元祖であるデイブ・ワイナーが、優れたプログラマーであり、優れた物書きでもあるということと、たぶん無関係ではない。
でも、本当はもっとはるかに高度な機能が、文章書きに解放されていてもいいはずだと思う。今のコンピュータなら実現できるはずの、本当の文章書きのためのツールは、たぶんまだ存在しない。
※
ちなみに、Scrivenerは文章書きの発想で作られてるし、もっと先に行こうという志を感じるんだけど…。
だけど長い間、ワープロは「清書機」とみなされてきた。多くの人が意義を見出したのは、漢字仮名交じり文をキーボードで打てるということ、そして自分の書いた文章が美しい「活字」として印刷されること。当時のワープロのレビューとかは、まずは印字品質(そして飾り文字や罫線の種類)、そして漢字変換の性能を取り上げていた。
編集機能が思考プロセスに大きな影響を与えることに気づくユーザーもいたけど、開発メーカーも含めて、本質的には原稿用紙時代の発想から抜けられなかったし、この時代のワープロが文章書きのプロセスに劇的な飛躍をもたらすことはなかった。
文書容量の少なさが最大のネックだったけど、そもそも文章を編集することが、頭の中身も編集しているのだという発想自体が希薄だった。編集は文字や行単位で行うことが基本で、長文を再構成することは簡単ではなかった。「一太郎」などのパソコンワープロが普及しても、状況は似たようなものだった。
KJ法や情報カードを使った作業をコンピュータで再現しようとした試みもあったけど、紙の世界でもともとやっていたことをコンピュータの中でやろうとしても、「紙の方が柔軟でいいよね」ということにしかならなかった。
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おそらく、物書きの世界に飛躍をもたらしたのは、プログラミングツールの発見だった。
プログラミングのための道具は、文章書きの役にも立つ。正確にいうと、コードを書くためにテキストを操作・編集するツール。
コードを書く作業というのは相互依存関係にある複雑なテキストファイルを大量に編集する作業だから、その効率が開発の生産性に直結する。そのために作られたツールが文章作成に役に立つのは当然のことだ。
80年代末から90年代初めくらいの時期。MS-DOSの世界(まだWindows以前の時代)の文章書きユーザーは、プログラミング用エディタ(MifesやらVZ Editorやら)とUNIX由来のテキスト処理ツール(grepやらsedやら)を「発見」した。
当時は入門者向けの書籍に、VZをハブにして各種ツールをバッチファイルでつなぎ合わせてテキスト処理するテクニックが載っていたりした。こうした処理は、原稿用紙のメタファーで思考しているうちは、思いつかないようなことだった。
一方マックの世界で、物書きはThinkTank、MOREといったアウトライナーを「発見」した。デイブ・ワイナ―が最初のアウトライナーを作ったきっかけは、フォールディング機能つきのLISP用エディタを目にしたことだった。その意味では、アウトライナーの紀元だってプログラミング用ツールなのだ。
文章の表示レベルを自由に変え、マクロ的な視点とミクロ的な視点を自由に行き来するというのもまた、原稿用紙や情報カードのメタファーからは思いつかなかったことだし、それまでは不可能だった思考プロセスの飛躍をもたらした。
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で、その後。
Windows95以来、コンピューターを使う人は劇的に増えたけど、MS-DOSのテキスト処理ツールやアウトライナーのように、物書きのプロセスに飛躍をもたらしてくれる何かがあったかどうか。
確かにWEBが登場し、Googleが登場し、クラウドが登場し、Evernoteが登場し、Wi-Fiが普及し、スマホとタブレットを持つようになった。文章を書いて、保存して、活用して、公開して、共有するための環境は劇的に進歩した。
でも、文章書き(という行為)そのもののための道具がどのくらい進歩したかというと、実はそんなでもない、気がする。
Googleドキュメントは便利だけど、純粋に「書く」機能としてはデスクトップアプリを模倣してるだけで、何か新しいことができるようになったわけではない。Evernoteだって、ノートエディタはごく普通のリッチテキストエディタだ。その部分だけ取り出せば、90年代初めからほとんど変わっていない。
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たとえば、EvernoteやSpotlight検索を使えば、保存した文書を見つけ出すことは簡単にできる。
でも、個人的には「今年自分が書いた全ての文章の中から〈猫〉という言葉を含む段落だけ抜き出して、それぞれの段落の1行目を見出しにしたアウトラインを作ってくれる」くらい、当たり前のようにやってくれていいと思う(これはつまり、自分が今年「猫」について何を考えてきたかをひと目で俯瞰することだ)。
一般ユーザーにそこまでのニーズはない、というのは誤解だ。
ブログのエントリやFacebookやメールまで含めれば、普通の人でもかなりの量の文章を書いてるし、文章を大量に書く人は、実はけっこう高度なテキスト処理のニーズを持っている。まして、仕事に関わる場合、あるトピックについて自分が書いたことを一気に引き出して加工したいなんていうことはいくらでもある。でも、一般の文章書きユーザーが手にしている環境では、簡単にはできない。
それができないのは、(ぼく自身も含めて)技術に疎いユーザーが、コンピューターで何ができるか本当には分かっていないこと。そして、分かっていたとしても自分の思うとおりのプログラムを自分では書けないからだ。
その意味では、文章書きはいまだにプログラマーの想像力に縛られてる、と言ってもいいかもしれない。「こんな高度なテキスト処理機能は必要ないだろう」という方向と、「必要だったらもっと高度なツールの使い方を覚えろよ」という二つの方向で。
今は、本物のテキスト処理ができるツールは、大多数の文章書きユーザーにはハードルが高すぎる。それに、本当は「テキストファイル」を編集するための機能と、「文章」を編集するための機能は微妙に違う。
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今の段階で、プログラマー的想像力と物書き系想像力のバランスがいちばんいい具合に取れているのは、プロセス型アウトライナーだと思う。それは、この種のソフトの元祖であるデイブ・ワイナーが、優れたプログラマーであり、優れた物書きでもあるということと、たぶん無関係ではない。
でも、本当はもっとはるかに高度な機能が、文章書きに解放されていてもいいはずだと思う。今のコンピュータなら実現できるはずの、本当の文章書きのためのツールは、たぶんまだ存在しない。
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ちなみに、Scrivenerは文章書きの発想で作られてるし、もっと先に行こうという志を感じるんだけど…。
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