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意味は欲望についてくる [Thoughts]

この間ふと思いついて今の時点で訳したレオ・バボータのブログ記事を数えてみたら、「Zen Habits」「mnmlist」合わせて合計65記事になっていた。

加えて「フォーカス」「〈楽〉に生きるための簡潔なガイド」という2冊の電子書籍。

結構な量だと思う。

2010年の春頃、たまたま目にして気に入った短めの記事(たしか「歩くよろこび」)を訳してこのブログで公開したのが最初だったと思うけど、そのときはまさかこれほどの量を訳すことになるとは思わなかった。



公開されている中から好きなものを選んで勝手に訳して勝手に公開する。

もちろんこんなことができるのは、レオが「アンコピーライト」、つまり「何をしても構わない」との条件で公開してくれているからだ。これは大変ありがたいことだし得難いことなので、お礼の意味もかねて翻訳も「アンコピーライト」で公開させてもらっている。

とはいえ初期の頃のものをたまに見直すと、直したいという強い衝動に駆られるので、つまり初期のものはたぶん下手くそなので、誰かの役に立ってくれればいいと思う反面、こんなのでスイマセンという気持ちもある。

でも、直したいと思うということはおそらく上達しているのだろうと思う。そう思いたい(実際に直せることは滅多にないのだけど)。



去年の年末に訳した「孤独の恐怖」は難物で、使われてる英語はすごく単純だと思うんだけど、そのせいかいくらやっても自然な日本語にならない。

年内の公開は断念して元旦の午前中までかかってようやく公開したけど、年明け後しばらくたってもまだ胃が痛かった。

何でこんなことをしてるんだろうとつくづく思うけど、こういうのって理由とか意味を考えた瞬間にできなくなるような性質のもので、深く考えないのが鉄則なのだ。

そう、世の中には意味を考えてしまったらできなくなることがある。あるいは意味を考えないからこそできることがある。そして、そこにこそ本質的な何かがあったりする。



子どもの頃「理由を説明してみろ」という父の口癖に対していつも返答に窮したものだけど(そして結果的に嘘の説明をしてしまったものだけど)、今なら答えられる。

理由なんかない。

でもほんとうはちゃんとわかっている。休日の朝、起きてコーヒーをいれたらあとは特に無理しなくても強制されなくてもごく自然にマックに向かって作業を始められるということは、それが自分のごく自然な「欲望」と結びついているからだ。



レオ・バボータの「ノーゴール」の話とか、「優先順位をつけない方が正解な場合もある」とかの話をすると、目標に向けてがんばることは悪いことなのかという人がいる。

ここでいう目標は「意味」と言い換えてもいい。

もちろん目標を立てる(=意味を設定する)ことは悪いことなんかではなくて、自分が何をしたいのか、どこを目指すのか、はっきりとしたビジョンがあるのなら、そのために目標を立ててがんばることはとても良いことだ、と思う。そしてぼくの中には、それをきちんとしてこなかったというコンプレックスがいまだにある。

でも一方で、いろんな目標を何回も立てては挫折を繰り返す人が世の中にはたくさんいる(おそらくその方が多数派だろう。「三日坊主」という言葉があるくらいだから)。

原因はいろいろあるだろうけど、もしそれが目標と欲望が本当には一致してないことだとしたら(胸に手を当ててみればわかるよ)、無理に目標を立てることが害になってる可能性が高い。

特に、日々の中で興味を引かれたり心奪われたりした何かを、「目標」に直結しないからと後回しにしているなら。あるいは罪悪感を感じながら、心奪われる何かにこっそり手を出したりしているなら。

そんなときはむしろ抑制せず欲望にそのまま従う方がいい、と思う。ただし欲望に耳を澄ませて、その瞬間にやりたいこと、それがわからなければ(欲望がわからないことなんか、日常茶飯事だ)気持ちのいい何か、気持ちが高まる何かに従う方がいい。

意味がないように思えても、「結果的に」意味はついてくる。少なくとも欲望と結びつかない目標を掲げているよりは、その可能性は高い。



もし「2014年までに65件のブログ記事と2冊の電子書籍を翻訳する」ということを、2010年時点のぼくが目標として掲げたとしたら、とてもじゃないけどできなかったと思う。

それを「結果的に」させてしまう力が欲望だ。
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