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キノシタさん [Diary]

道ばたの猫を見ていたら、キノシタさんのことを思い出した。キノシタさんは、これまで知り合った人の中でいちばん猫に似ている人だ。より正確に言うと、野良猫に似ている人。本人はそれほど猫は好きではないようだったけど。



キノシタさんは、20代の頃に勤めていた小さな会社に出入りしていたフリーランスの人だ。

ぼくがその会社の社員だったときには、社員と外注先のフリーの人という関係。後にぼく自身がフリーになった後には、同じ仕事に関わるフリーランス仲間という間柄。当時、40代後半くらいだったと思う。



キノシタさんは、今フリーランスという言葉からイメージされがちな人とはずいぶん違う。

基本的にぎりぎり食べていくための仕事しかしない(というかお金がなくなったときだけ働く)。逆にお金が入ってくるとしばらく音信不通になってしまうので、入金した後に手直しや確認事項が発生するととても困った。



当然ながら、キノシタさんは貧乏だった。

いつ会っても同じ服を着ていた。冬は白いシャツに茶色いジャンパーにジーンズ、夏は白いシャツにジーンズ(シャツはたぶん同じもの)。鞄は持たず、いつも二つ折りにした紙袋を小脇に抱えていた。

ひとり暮らしで、基本的に一日一食しか食べない。事務所に来る日は、会社のそばで買ったお弁当。来ない日に何を食べてるのかは知らない。足りない分のカロリーは、主にアルコールから摂取していた。

お金が入ってきたらまず酒と煙草を買い、それから生存のために必要なもろもろの費用(最低限の食費、光熱費、家賃とか)を支払い、それ以外のお金のほぼ全てを本とパソコンに使う。



キノシタさんはいつも分厚い本を読んでいた。事務所に来ているときも、仕事の合間に打合せスペースで本を広げていた。もちろん、仕事の時間よりも合間の時間の方が長い。例の紙袋の中には常に何冊か予備の本が入っていた。

社長がからかうように「いつも何の本読んでるの?」と聞くと、「フランスものですよ」とだけ言った。



キノシタさんは、本と同じくらいパソコンが好きだった。

キノシタさんはパソコンが苦手な社長に頼まれて、パソコン及びソフトの選定と購入、そして設定を一手に引き受けていた。

キノシタさんが選んだパソコンは妙に大きくて、妙に白くて、妙に安くて、妙にハイスペックで、妙にマニアックなエディタが入っていた。起動すると妙な常駐ソフトがロードされたけど、その目的はキノシタさん以外誰にもわからなかった。

当時その会社で必要なソフトといえばOASYS-Win(ワープロ専用機OASYSの機能を再現したワープロソフト)くらいしかなかったのだけど。

キノシタさんがいないときにパソコンの調子が悪くなるとみんなとても困ったけど、そもそもキノシタさんは年の半分以上はいなかった。



キノシタさんは、おそらくぼくが今まで出会った人の中ではいちばんタイピングが速かった。しかもタイプしている間は呼吸をしなかったので、キノシタさんが事務所で仕事をしていると、

だだだだだだだっ・だだだだっ・だだだだだだだだっ・(沈思)・だだだっ・(ふーっ)(すーっ)だだだだだっ・だだだっ・(黙考)・(黙考)・っだだだだだだだだだだだっ・(ふぅぅぅ)

みたいな感じなので、なんだかとても息が苦しくなった。



キノシタさんは個人主義者、かつ原則に忠実な人だった。

ヘビースモーカーであると同時にノンスモーカーの権利にひどく敏感で、ノンスモーカーの前では絶対に煙草に火を付けなかった。これは当時のスモーカー(しかもこの年齢の)にしては希有な例だった。



キノシタさんは激しい人だった。

岡山からの出張帰りの新幹線で、キノシタさんはひとり離れた席に座って本を読んでいた(ちらっと覗いたらバタイユだった)。

禁煙車だったので、キノシタさんは15分に一回くらい、煙草を吸いに席を立った。当時の新幹線はまだ禁煙車の方が少なかったけれど、そのときのメンバーはキノシタさん以外は全員ノンスモーカーだったのだ。

新大阪から乗り込んできた会社員二人組がキノシタさんの前の席に座り、そのうちの一人(上司の方)が煙草に火を付けた。部下の方が「○○さん、禁煙車ですよ」と注意したが、上司は「かまやしねえよ」と言って煙を吐き出した。

次の瞬間、キノシタさんは彼らの椅子を後ろから思いっきり蹴とばして「吸ってんじゃねえよ」と怒鳴った。普段のキノシタさんの、ぼそぼそした聞き取りにくい声からは想像もつかないような恐ろしい声だった。

威勢のよかった上司の方は一瞬あっけに取られた後、「すいません」と小さな声で謝ってすぐに火を消し、そのまま東京に着くまで一言もしゃべらなかった。

キノシタさんは何事もなかったようにバタイユを読み続けた。



キノシタさんは、基本的に「アルコール以外の液体は飲まない」人だったけど、ある時期からスポーツドリンクとか「桃の天然水」とか、そういうものをやたらとたくさん飲むようになった。のどが渇くんだよね、と言って。

朝、1リットルとか1.5リットルのペットボトルを買ってきて、昼までに飲み干してしまう。貧乏なキノシタさんにとっては、その出費はばかにならないはずだった。いや、それ以上にその意味するところは、キノシタさんにもわかっていたはずだった。

あるとき、小銭の持ち合わせのない(というかたぶんお金の持ち合わせのない)キノシタさんに、「桃の天然水」の1.5リットル入りを2本おごったことがある。

「悪いね、今度返すから」
「いいですよそんなの」みたいな会話をした。

それがキノシタさんに会った最後だった。



キノシタさんは、GoogleもEvernoteも知らない。



キノシタさんは、アパートの部屋で一人で亡くなっていたところを、数週間後に心配して訪ねてきた妹に発見された。

他の仕事が忙しくなって数ヶ月ぶりに事務所を訪れたとき、社長が教えてくれた。

「そういえば、あいつ死んだよ」というとてもシンプルな言葉で。



キノシタさんは野良猫みたいな人だった。人と付き合わないことはないけれど、一定以上の距離に近づくことは絶対にない。群れることはないし、飼われることもない。最後まで誇り高く、孤独。

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