ノートを処分すること [Diary]
年末に、もう必要なくなった仕事用のノートを大量に処分した。過去十年分。同僚の中には目を丸くしてる人もいたけど(「自分なら賞状や記念品は捨ててもそれだけは捨てない」)。
「それ貴重品ですよね、見せてください!」と言ってくれた子がいたけど、見せたら三十秒くらい固まったあと一言「すごいですね」と言われた。
■
自分のためのノートに書かれた文字は、他人にはまず解読不可能だ。その上ページのど真ん中にナナメに3行しか書いてなかったりする。
ぼくの中の「人に読める字」を書く能力は、申請書類の記入と年賀状くらいでしか発揮されない(それだって読みやすいとはとても言えない)。
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それでもノートを見て「字がきたない」とか「もったいない」とか叱られないので、大人になるというのはとてもよいことだ。
■
子どもの頃「ノートの上手な使い方」というものを教えられることがよくあった。いわゆる「できる子のノートはこうなっている」みたいな。
片側を必ず開けて書くとか、色の使い分けだとか、そこで紹介される「できる子」のノートは確かにぼくのノートとは違っていた。
でもそういうノートを真似してみても(真似しろと言われた)、無理に決まった場所に決まった書き方をしようとすると、借りてきたような自分じゃないような言葉しか書けなくなる。文字まで小さくなる。そして後から見返してもまず役には立たない。
何かしら意味があったのは、場所や形のことなんか考えもせず傍若無人に書きなぐったノート。そして「写経」のように本を書き写したノートだ。
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それでも、どんなにきれいにノートが書ける子よりもノートという存在自体は好きだったと思う。
特に気に入っていたのは3リング式のバインダーだけど、学校では「きちんとした」ノートじゃないとダメだと言われた。バインダーならちゃんと使えるような気がしていたんだけど。
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今では自分がどんなノートを使ってどんなふうに書くか好きなように決められるので、大人になるというのはとてもよいことだ。
■
アウトライナーフリークではあるけれど、基本的には紙とペンからは離れられない人間なのだと思う。
バッグの中には目的のないノートが入っている。
仕事をしてるときもブログを書いてるときも翻訳をしているときも、行き詰まったときに目的のないノートにぐしゃぐしゃと何か書くことで、ブレイクスルーできることがけっこうある。
自分にとってノートとは、フィジカルに手先を動かすことで頭を動かすための道具なのだ、たぶん。
それは書いたときには確かに意味があったけど、取っておいて何か価値が増すものでもない。たぶん。
「それ貴重品ですよね、見せてください!」と言ってくれた子がいたけど、見せたら三十秒くらい固まったあと一言「すごいですね」と言われた。
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自分のためのノートに書かれた文字は、他人にはまず解読不可能だ。その上ページのど真ん中にナナメに3行しか書いてなかったりする。
ぼくの中の「人に読める字」を書く能力は、申請書類の記入と年賀状くらいでしか発揮されない(それだって読みやすいとはとても言えない)。
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それでもノートを見て「字がきたない」とか「もったいない」とか叱られないので、大人になるというのはとてもよいことだ。
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子どもの頃「ノートの上手な使い方」というものを教えられることがよくあった。いわゆる「できる子のノートはこうなっている」みたいな。
片側を必ず開けて書くとか、色の使い分けだとか、そこで紹介される「できる子」のノートは確かにぼくのノートとは違っていた。
でもそういうノートを真似してみても(真似しろと言われた)、無理に決まった場所に決まった書き方をしようとすると、借りてきたような自分じゃないような言葉しか書けなくなる。文字まで小さくなる。そして後から見返してもまず役には立たない。
何かしら意味があったのは、場所や形のことなんか考えもせず傍若無人に書きなぐったノート。そして「写経」のように本を書き写したノートだ。
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それでも、どんなにきれいにノートが書ける子よりもノートという存在自体は好きだったと思う。
特に気に入っていたのは3リング式のバインダーだけど、学校では「きちんとした」ノートじゃないとダメだと言われた。バインダーならちゃんと使えるような気がしていたんだけど。
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今では自分がどんなノートを使ってどんなふうに書くか好きなように決められるので、大人になるというのはとてもよいことだ。
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アウトライナーフリークではあるけれど、基本的には紙とペンからは離れられない人間なのだと思う。
バッグの中には目的のないノートが入っている。
仕事をしてるときもブログを書いてるときも翻訳をしているときも、行き詰まったときに目的のないノートにぐしゃぐしゃと何か書くことで、ブレイクスルーできることがけっこうある。
自分にとってノートとは、フィジカルに手先を動かすことで頭を動かすための道具なのだ、たぶん。
それは書いたときには確かに意味があったけど、取っておいて何か価値が増すものでもない。たぶん。
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