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変化と継続、集団と個人、トップダウンとボトムアップ [Diary]

変化する中で何かを続けることとか、集団とひとりの関係とか、そんなことをここのところずっと考えている。一日中頭から離れないというわけでもないけど、頭の右隅あたりに常にある感じ。

たぶん、ひさしぶりに「冬のどどんが団」のコンサートを観たから。いつものことだけど、彼らを見るとほんとにいろんなことを考える。



冬のどどんが団は、南町田を拠点とする和太鼓グループ(古くからこのブログを読んでいただいてる方はきっと知ってる)。

はじめて冬のどどんが団を見たのは確か2008年のこと(七年も前だ)。

そのときは職場の同僚Z子が属しているというだけの理由で(正直さほど期待せず)観にいった。しかし結果として当日悪かった体調もふさぎがちだった気分も吹き飛んだ上に二週間くらいどどんがロス状態になるくらい、「人生の中の無駄ではない一日」だった。

初めて見たときのオープニングは今でも忘れない。「トンネル抜けて」という曲は、メンバーひとりひとりのソロで構成された曲だ。冒頭、会社にいる姿しか知らなかったZ子のソロにいきなりやられた。文化祭的手作り感と音とのギャップ。そして次々出てくるメンバーの雑多感。なんだこの集団はと思った(笑)。

冬のどどんが団の演奏は、いわゆる「和太鼓」のイメージとはずいぶん違う。たまたま和太鼓という楽器を使って演奏される何か別のもの、のような印象を受ける。

曲はほとんどが団長・ほしのあきらさんのオリジナル。組曲形式の壮大な曲からかわいらしい曲、そして曲本体よりネタの方が長い(?)曲まで多数。それを、上は還暦(当時)の団長から下は中学生まで幅広いメンバーが演奏する。

いちばんやられてしまったのは、そのあらゆる意味で(いや良い意味で)雑多なメンバーが醸し出す音の不思議な揺れというかうねりみたいなものだった。いまだにこれをうまく言葉にすることができないのだけど。

彼らはプロではない。日々の生活の合間の時間を使って演奏活動をするアマチュアだ。決して演奏的に完璧というわけじゃないし、もっと上手い演奏はあるだろう。でもその不思議なうねりは、他のどこでも耳にした(目にした)ことがないものだった。

それ以来、コンサートやライブには可能な限り足を運ぶことに決めている。



たぶん、雑多なものが組み合わさってひとつになってるものに弱いのだ。

ちなみにこのブログを始めるきっかけのひとつが、そのときのコンサートのレビューを書くことだったのは公然のヒミツ。



この何年か、演奏活動の回数自体は減っていた。ライブハウスへの出演や招待されての細かい演奏はあったけど、正式なコンサートは五年ぶりとのこと。ずいぶん久しぶりなのだ(ぼく自身、彼らの演奏を聴くのは二年ぶりくらい。そもそもコンサートのタイトルが「お久しぶりね」だ)。

最初に見た2008年からは、もちろんいろんなことが変わっている(七年もたったんだからそりゃ変わる)。

同僚だったZ子もぼく自身も、既に当時の職場を離れている。その変化をもたらした時間は、もちろんメンバー全員に流れている。

当時二十人以上いたメンバーは、今では十人ちょっと。時間が経ったんだから当たり前だ。

時間がたてば人生は前に進むし、前に進んだ先と、続けることが相容れないことだってある。受験とかサークルとかデートとか社会人とか結婚とか残業とか家族とか出産とか体力とか。

当たり前のようにそこにあって普遍的だと思ってたものが、実は一時的なものにすぎないということとか。与えられた時間に全てを納めることはできないということが次第に明らかになってきたりとか。

さらに、太鼓を巡る環境も、年々厳しさを増している。「音」の問題で、練習場所を確保することもままならないということ。

そういう変化の中で、みんながそれぞれの現実を抱えながら、集団であり続けること、その中でそれぞれの役割を果たし続けること。時間を割いて練習し、とびきりの笑顔で叩いたり揺れたり跳ねたりすること。

それは、けっこう大変なことだ。

そして、そのことを時間の経過の中で(現実的にリアルに)実感しているメンバーと、きっとこれから(今よりリアルに)実感するメンバーがいっしょにいる。もちろんそれは善し悪しではなく、単にそういう違いがあるというだけ。

その違いの中で、ひとつのものを作り、表現する。そのこと自体にいろんなことを思う。



今回は、少し大人の冬のどどんが団。

今までのコンサートが3時間・3部構成だったのを1時間半の2部構成に圧縮。そしてお約束のネタがほとんど入らない(いやちょっとは入ったけど)。そのかわり、演奏の完成度はすごく高かったと思う。

以前と比べるとメンバーの女性比率が高く、パワーという面では確かに落ちるけど(それでも目の前で聴けばけっこうお腹に響く)、一曲一曲が丁寧に仕上げられてる感じ。

たぶん、今の状況の中でできることをいちばんよい形でやろうという気持ちがあったのだと思う。

「もう一度原点に戻ってつくし野でシンプルな手作りコンサートをやろうと。だって今年の10月で二十一年ですからね。」(「団長あいさつ」より)



たぶん、そういう状況の変化に対応してのことだろうと思うけど、今回のコンサートの前にオリジナル曲の整理が行われた、とのこと(と、MCで発表された)。

五十曲以上あった曲を、常に演奏する定番曲に絞り込むための団員投票を行った。その結果、長年演奏されてきた曲の何曲かが定番曲から外れた。

外れた曲のひとつ「がさなたむたむ」は、大好きな曲だった。自分にとっては冬のどどんが団を勝手に象徴する曲。ゆるーく始まって一気にフォーカスする感じも、楽しさも(変な曲だけど)。

でも、これも変化の流れだよね。と、少し感傷的になっていたら、アンコールで演奏された別の曲の途中にその「がさなたむたむ」の一部が突然挿入された。

泣かせるじゃん。



今思うのは、自分は偶然に冬のどどんが団の(ある意味での)ピークの時期を体験してしまったのだということだ。

でも、その当時からこの(良い意味で)バラバラな集団が、おそろしいくらい微妙なバランスで成り立っていることは感じていた。あまりにも微妙ではかない危うい感じで、見るたびに今度が最後かもしれないくらい思っていた(ごめんなさい)。

だから毎回「また会えた」と思う。

「他人と「今」を共有できる瞬間があるということに最大限の感謝をすることしかできませんもの。その感謝を形にして表さなければいけない、それが「今を共有」することを持続させる唯一の方法です。どこまで出来るか出来ないか。」(「団長あいさつ」より)



昔から、個人的にいちばん苦手なものもいちばん憧れるものもいちばん縁がないものも集団。冬のどどんが団を見ていると、いつもそのことを思い出す。

たぶん、自分の中の集団との関わりを求める部分が刺激されるのだ。簡単にいえばちょっとうらやましく(くやしく)なったりする。

でも同時に思うのは「個人」ということだ。ひとりきりの、個人。

団長や打頭が号令をかけたってそれだけで何かを作ることはできない。誰かひとりががんばっても、誰かひとりの意思があっても、集団は成り立たない。いや成り立つかもしれないけど、素敵な何かを生み出すことはできない。ひとりひとりのあり方が、全体に無視できない影響を与える。

集団を維持する中で、ひとりひとりもまた変わっていく。一度コンサートを終えれば、全員が少しずつ別の人になっている、はずだ。そしてそのひとりひとりがまた全体に影響を与える。

トップダウンとボトムアップの繰り返しで生まれるもの。

まるで、何かみたいだ。

冬のどどんが団

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