そこにわずかでも意思があるかぎり [アウトライナー]
この記事の前にあたる記事:
アウトライナーフリーク的タスク管理論・序説
「他人の要求に自分の時間を乗っ取られるような感覚」について。
一生懸命タスクリストを作ってみても、実行するタスクが自分の基準に基づいていなければ、時間は他人の優先順位に従ってすべて消えてしまう。これは真実です。
いくらプライオリティや重要度を設定してみたところで、その基準が自分になければ同じことです。
レオ・バボータさんのいうように、「(タスクリストを一生懸命作っても)あなたはどこにも行けない」のです。この感覚は、気持ちのいいものではありません。というか、とてもいやーな感じです。
■
現代の生活の中で、降りかかってくるタスクをすべてこなすのは不可能です。だから何を残すかということが重要になる。その基準は自分になければならない。そうしなければ、私たちは幸せにはなれない。
でもそれは、簡単なことではありません。それどうやってタスクの選択に反映すればいいのか。そもそも「自分の基準」って何なのか。
レオさんのように「いちばんエキサイティングなことをひとつだけ」選べれば理想ですが、それができない場合(普通できないでしょう)、どうしたらいいのでしょうか。
タスクのアウトラインを延々と作りながら、ふとヒントになるのではと思ったのは、一日が自分の思うように進まなくても、比較的満足できる日とそうでない日があるということです。
■
何年か前のことです。
その日は翌週に提出予定のレポートの作業を進めるつもりでした。午後はたまたまアポイントもなかったので、時間をその作業のために空けてありました。
朝からレポートのことが頭にあったので、いろいろとアイデアが浮かび、電車の中で、そして朝食を食べに入ったカフェでメモを作ったり仮アウトラインを書き出したりしていました。午後はそれを元にレポートのドラフトを書くつもりでした。
しかし職場に着くと、先に出社していた同僚がばたばたと走り回っています。聞けば、朝一番で大きなトラブルの連絡が入ったとのこと。
結局その日はトラブル対応に深夜まで忙殺されて終わりました。空けておいた午後の時間も、もちろん飛びました。
それでも、この日「他人の要求に自分の時間を乗っ取られるような感覚」はさほどなかったし、ストレスもありませんでした(いや、少しはありましたが、さほどではありませんでした)。
むしろ、予想のつかない現実と自分の意思をそれなりに両立できた日、という感覚でした。
それは、朝の電車とカフェで、レポートの作業を(少しではありますが)進めていたことと無関係ではありません。
「今日はレポートの作業を進める」というイメージ、つまり自分の「意思」は、今日という一日の中に既に反映されていたのです。
■
重要なのは、「今日はレポートを進める」というイメージがなかったら、たぶん電車でもカフェでも何か他のことをしていた(あるいは寝ていた)だろうということです。
そしてその日は、降りかかってくるタスクに押し流されるだけの一日になっていたかもしれません。
今日という日のイメージをあらかじめ持っていたことで、その日のタスクの選択にわずかながら「意思」がこもったわけです。
一日が終わった後の気分に違いをもたらしたのは、そのわずかな違いです。そう、そこにわずかでも意思があるかぎり。
■
もちろん、これはたまたまうまくいった例にすぎません。でも、ここには確かにヒントがあります。必要なのは「イメージ=意思を持つこと」、そして「意思を一日に反映する」ことです。
でも多分、「今日は絶対にレポートを進める」「そのために早く出てカフェで下書きをしよう」などと決めてあったとしたら、おそらくうまくいかなかったでしょう。そこまで決めてしまうと、それ自体がタスクになってしまうし、できなかったときストレスになります。
現実は思い通りにはならない。それが大前提です。その上で、自分の意思との折り合いをつけること。それが、今日的なタスクリストの出発点ではないでしょうか。
イメージに現実を、タスクリストに意思を。アウトライン・プロセッシングを通じて、その方法を考えてみます。
「ライフ・アウトライン(仮)」より
この記事の続きに当たる記事:
イメージに現実を、タスクリストに意思を
アウトライナーフリーク的タスク管理論・序説
「他人の要求に自分の時間を乗っ取られるような感覚」について。
一生懸命タスクリストを作ってみても、実行するタスクが自分の基準に基づいていなければ、時間は他人の優先順位に従ってすべて消えてしまう。これは真実です。
いくらプライオリティや重要度を設定してみたところで、その基準が自分になければ同じことです。
レオ・バボータさんのいうように、「(タスクリストを一生懸命作っても)あなたはどこにも行けない」のです。この感覚は、気持ちのいいものではありません。というか、とてもいやーな感じです。
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現代の生活の中で、降りかかってくるタスクをすべてこなすのは不可能です。だから何を残すかということが重要になる。その基準は自分になければならない。そうしなければ、私たちは幸せにはなれない。
でもそれは、簡単なことではありません。それどうやってタスクの選択に反映すればいいのか。そもそも「自分の基準」って何なのか。
レオさんのように「いちばんエキサイティングなことをひとつだけ」選べれば理想ですが、それができない場合(普通できないでしょう)、どうしたらいいのでしょうか。
タスクのアウトラインを延々と作りながら、ふとヒントになるのではと思ったのは、一日が自分の思うように進まなくても、比較的満足できる日とそうでない日があるということです。
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何年か前のことです。
その日は翌週に提出予定のレポートの作業を進めるつもりでした。午後はたまたまアポイントもなかったので、時間をその作業のために空けてありました。
朝からレポートのことが頭にあったので、いろいろとアイデアが浮かび、電車の中で、そして朝食を食べに入ったカフェでメモを作ったり仮アウトラインを書き出したりしていました。午後はそれを元にレポートのドラフトを書くつもりでした。
しかし職場に着くと、先に出社していた同僚がばたばたと走り回っています。聞けば、朝一番で大きなトラブルの連絡が入ったとのこと。
結局その日はトラブル対応に深夜まで忙殺されて終わりました。空けておいた午後の時間も、もちろん飛びました。
それでも、この日「他人の要求に自分の時間を乗っ取られるような感覚」はさほどなかったし、ストレスもありませんでした(いや、少しはありましたが、さほどではありませんでした)。
むしろ、予想のつかない現実と自分の意思をそれなりに両立できた日、という感覚でした。
それは、朝の電車とカフェで、レポートの作業を(少しではありますが)進めていたことと無関係ではありません。
「今日はレポートの作業を進める」というイメージ、つまり自分の「意思」は、今日という一日の中に既に反映されていたのです。
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重要なのは、「今日はレポートを進める」というイメージがなかったら、たぶん電車でもカフェでも何か他のことをしていた(あるいは寝ていた)だろうということです。
そしてその日は、降りかかってくるタスクに押し流されるだけの一日になっていたかもしれません。
今日という日のイメージをあらかじめ持っていたことで、その日のタスクの選択にわずかながら「意思」がこもったわけです。
一日が終わった後の気分に違いをもたらしたのは、そのわずかな違いです。そう、そこにわずかでも意思があるかぎり。
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もちろん、これはたまたまうまくいった例にすぎません。でも、ここには確かにヒントがあります。必要なのは「イメージ=意思を持つこと」、そして「意思を一日に反映する」ことです。
でも多分、「今日は絶対にレポートを進める」「そのために早く出てカフェで下書きをしよう」などと決めてあったとしたら、おそらくうまくいかなかったでしょう。そこまで決めてしまうと、それ自体がタスクになってしまうし、できなかったときストレスになります。
現実は思い通りにはならない。それが大前提です。その上で、自分の意思との折り合いをつけること。それが、今日的なタスクリストの出発点ではないでしょうか。
イメージに現実を、タスクリストに意思を。アウトライン・プロセッシングを通じて、その方法を考えてみます。
「ライフ・アウトライン(仮)」より
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イメージに現実を、タスクリストに意思を
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