表現したいことがあるときに使う大人のための道具 [アウトライナー]
アウトライナーに対する情熱がどこから来たか、その原型をずーっとたどっていくと、おそらくデボラさんのカードに行き着く。デボラさんとカードの話は、以前に書いたことがある。
知的生産と能率の風景
デボラさんのカードの使い方は、パーツを組み合わせて文章の骨子と流れを組み立てていくもので、文字通り「アウトライン」のレベルだったと思う。
それが学校の事務室という、面白くもなんともなさそうな場所に見事に調和して存在していたあの風景が、ぼくとっての「アメリカ」の、そして「知性」の原風景だ。
そしてぼくにとっては「構造が手に触れられる」ということがとても重要だった。それは組み立てて、操作していくことができるものだという感覚が。
なぜかそのとき「自分にも文章が書ける」と勝手に確信して開けた視界は、日本語学校の作文の時間に原稿用紙を前に硬直してしまったときの絶望的な感じと対になっている。
■
その後、ことあるごとにデボラさんのオフィスを訪れては、デスクに散らばったインデックスカード(青いのと黄色いのと赤いのがあった)を眺めていた。いくら見ていても飽きなかった。
文章を書くために使うのは青いカードだった。黄色はメモ用紙代わり、赤の用途は最後までわからなかった(きっと大事な場面で使うに違いない)。
以前に見たときはカードを並べてそのままタイプを打っていたけど、もっと長い文章を書くときなどには黄色いメモパッド(リーガルパッドというのだと後で知った)にカードの内容をいったんペンで書き写してからタイプを打っていることにも気づいた(あれはアウトラインだったのかパラグラフの下書きだったのか)。
あるとき、ぼくがオフィスのカウンターに貼り付いて仕事の様子(というよりもカードを操作する様子)を食い入るように眺めているのに気づいたデボラさんは、黄色いカードを何枚かくれた。
そして「何か表現したいことがあるようね?(I guess you have something to say, huh?)」と言ってにっこり笑った。
そうか、これは「something to say(言いたいこと、伝えたいこと、表現したいこと)」があるときに使う大人のための道具なのだ、と思った。
大人ではなかったのでぼくにはそれを使う用事がなかったし、どう使っていいのかもわからなかった。ただ、このカードを使えるようになれば「something to say」を自由に手の中で操作して思いどおりに書くことができるんだ、という感覚だけが強い憧れとして残った。
知的生産と能率の風景
デボラさんのカードの使い方は、パーツを組み合わせて文章の骨子と流れを組み立てていくもので、文字通り「アウトライン」のレベルだったと思う。
それが学校の事務室という、面白くもなんともなさそうな場所に見事に調和して存在していたあの風景が、ぼくとっての「アメリカ」の、そして「知性」の原風景だ。
そしてぼくにとっては「構造が手に触れられる」ということがとても重要だった。それは組み立てて、操作していくことができるものだという感覚が。
なぜかそのとき「自分にも文章が書ける」と勝手に確信して開けた視界は、日本語学校の作文の時間に原稿用紙を前に硬直してしまったときの絶望的な感じと対になっている。
■
その後、ことあるごとにデボラさんのオフィスを訪れては、デスクに散らばったインデックスカード(青いのと黄色いのと赤いのがあった)を眺めていた。いくら見ていても飽きなかった。
文章を書くために使うのは青いカードだった。黄色はメモ用紙代わり、赤の用途は最後までわからなかった(きっと大事な場面で使うに違いない)。
以前に見たときはカードを並べてそのままタイプを打っていたけど、もっと長い文章を書くときなどには黄色いメモパッド(リーガルパッドというのだと後で知った)にカードの内容をいったんペンで書き写してからタイプを打っていることにも気づいた(あれはアウトラインだったのかパラグラフの下書きだったのか)。
あるとき、ぼくがオフィスのカウンターに貼り付いて仕事の様子(というよりもカードを操作する様子)を食い入るように眺めているのに気づいたデボラさんは、黄色いカードを何枚かくれた。
そして「何か表現したいことがあるようね?(I guess you have something to say, huh?)」と言ってにっこり笑った。
そうか、これは「something to say(言いたいこと、伝えたいこと、表現したいこと)」があるときに使う大人のための道具なのだ、と思った。
大人ではなかったのでぼくにはそれを使う用事がなかったし、どう使っていいのかもわからなかった。ただ、このカードを使えるようになれば「something to say」を自由に手の中で操作して思いどおりに書くことができるんだ、という感覚だけが強い憧れとして残った。
リーガル・パッドのリーガルとは、経線のあり方よりもはるかに、物事のとらえかた、ものの考えかた、論理の展開のさせかたなどを、意味する。自分の論理を強めたり補完したりする可能性のあるものは、ひとつ残らず書き出して列挙し、それらを作戦的にいろんな方向から観察し、取捨選択しつつ修正をほどこし、論理の筋道を作り、それに沿って論理を組み上げていく。リーガル・マインドの基本はこれであり、これはアメリカ社会のあらゆる細部にまで、徹底して浸透している。自分の頭の中にあるもの、資料のなかにあるもの、あるいは他の人たちから手に入れるものなど、使えそうなものはすべて書きとめておき、机の上に広げて何度も観察しては、論理の筋道を探すための基礎材料となるもの、それがびっしりと手書きされた何枚ものリーガル・パッドの紙なのだ。
インデックス・カードが断片を書きとめておくものなら、そのいくつかを使って組み立てたひとつのパラグラフを書くのが、ジュニア・リーガル・パッドの一ページではないか。そしてそのワン・パラグラフを推敲していくためのスペースが、リーガル・パッドという大きなスペースだ。
——片岡義男『文房具を買いに』
コメント 0