ぜんぶ頭に入れるから [Thoughts]
書こうとする文章が一定以上に長くなると、全体像を頭の中で組み立てることはできなくなる。
以前、倉下忠憲さんにインタビューさせてもらったときには、2000字くらいなら頭の中で組み立てられるけれど、4000字を超えると厳しくなってきて万単位になったら難しい、とおっしゃっていた。
ぼく自身は、400字を超えると心許なく、1000文字を超えるとまず無理。これはかなり短い方だと思うけど。
長さ自体よりも、要素間の関係が急速に複雑さを増すことが問題だ。
文字数が増えれば要素が増え、要素が増えれば要素間の関係が複雑になり、その一貫性・統一性を頭の中に保持しておくことは不可能になる。
どの地点に「頭の中で考えられる」限界があるかは人によるけれど、どこかに限界があることだけは間違いない。モーツァルトみたいな人は別として。
対策としては、「とりあえず書く」しかない。とりあえず書くことを格好良く表現した言葉が「下書き」や「ドラフト」だ。
とりあえず書いてみて、はじめて何をどう書けばいいのがわかる。より正確にいうと、何をどう書けばいいのか考える素材を手に入れることができる。
カードや付箋やアウトライナーは、素材を操作しやすくするツール、とも言える。
■
文章と同じで、やるべきことがあまりに複雑になると、頭の中は処理できなくなる。要素が増えれば要素間の関係が複雑になり、その一貫性・統一性を頭の中に保持しておくことは不可能になる。
■
ずっと昔勤めていた会社の上司は「書かない」人だった。
ぜんぶ頭に入れるからいい、という。
唯一の例外は能率手帳に書きとめるアポイントで、それすらも「頭に入ってるから書かなくてもいいんだけどね」と言う。
自分のやるべきことぐらい、ぜんぶ頭に入れられるようじゃなきゃダメだ、というのが口癖だった。
仕事をする上で、頭に入れておくべきことというのは、もちろんあると思う。でもね。
最初はとても驚いたのだが、後に上司と同世代で、同じようなことを言う人に何人か会って、もっと驚いた。
一般化はできないけれど、もしかすると「ぜんぶ頭に入れる」ことに価値を見出す(もっとはっきり言えば能力の指標とする)考え方が、かつてあったのかもしれない。
もちろん、上司はぼくより頭がいい。でも、今の時代の仕事の、量と速度と要素間の関係の複雑さからすれば、当然限界はある。
限界点が多少高いか低いかの違いだ。
■
作業Aをやるためには作業Bができていることが必要で、作業BをやるためにはC社の承認が必要で、でもC社は作業Aの完成を待って判断するつもりで、あらら無限ループだ。そしてC社からは、なぜAがまだできていないんだとクレームが入っている。
相互に依存しあう物ごとが同時に動いていて、しかも時系列的な依存関係と立場上の依存関係が一致していない。状況は見た目よりもずっとずっと複雑だ。
だから、大判のポストイットに要素を書き出して、並べ替えて、どうすればいいか考える(残念ながら、その会社でアウトライナーを使うことは不可能だった)。
まず手順を。
そしてC社への説明を。
失敗したときのリカバー策を。
作業の計画ができる。
なんとか間に合うだろうぎりぎりのスケジュール。
上司に報告する。
スケジュールひとつ決めるのにいつまでかかってるんだと言いながら、上司はスケジュールに目を通す。そして「ここは3日じゃなくて2日でいこう」と言う。
それをすると、万一作業Bで問題が生じたときにリカバーできなくなって、より致命的な事態になる可能性がある、とぼくは言う。
「あ、そうかもな」と上司は言う。
■
上司は「ぜんぶ頭に入って」いたのだろうか。
わからない。
わからないけど、ひとつ言えるのは、これは90年代半ばの話であり、その量も速度も複雑さも「今」から見れば古き良き時代のそれだったということだ。
そして、どんなに頭が良くても、量と速度と要素間の関係の複雑さに対しては、当然限界はあるということだ。
■
「複雑なものを複雑なまま理解するのではなく、複雑なことをクリアに」(通りすがりの男)
「クリアとは単純という意味ではない」(通りすがりの男の弟)
以前、倉下忠憲さんにインタビューさせてもらったときには、2000字くらいなら頭の中で組み立てられるけれど、4000字を超えると厳しくなってきて万単位になったら難しい、とおっしゃっていた。
ぼく自身は、400字を超えると心許なく、1000文字を超えるとまず無理。これはかなり短い方だと思うけど。
長さ自体よりも、要素間の関係が急速に複雑さを増すことが問題だ。
文字数が増えれば要素が増え、要素が増えれば要素間の関係が複雑になり、その一貫性・統一性を頭の中に保持しておくことは不可能になる。
どの地点に「頭の中で考えられる」限界があるかは人によるけれど、どこかに限界があることだけは間違いない。モーツァルトみたいな人は別として。
対策としては、「とりあえず書く」しかない。とりあえず書くことを格好良く表現した言葉が「下書き」や「ドラフト」だ。
とりあえず書いてみて、はじめて何をどう書けばいいのがわかる。より正確にいうと、何をどう書けばいいのか考える素材を手に入れることができる。
カードや付箋やアウトライナーは、素材を操作しやすくするツール、とも言える。
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文章と同じで、やるべきことがあまりに複雑になると、頭の中は処理できなくなる。要素が増えれば要素間の関係が複雑になり、その一貫性・統一性を頭の中に保持しておくことは不可能になる。
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ずっと昔勤めていた会社の上司は「書かない」人だった。
ぜんぶ頭に入れるからいい、という。
唯一の例外は能率手帳に書きとめるアポイントで、それすらも「頭に入ってるから書かなくてもいいんだけどね」と言う。
自分のやるべきことぐらい、ぜんぶ頭に入れられるようじゃなきゃダメだ、というのが口癖だった。
仕事をする上で、頭に入れておくべきことというのは、もちろんあると思う。でもね。
最初はとても驚いたのだが、後に上司と同世代で、同じようなことを言う人に何人か会って、もっと驚いた。
一般化はできないけれど、もしかすると「ぜんぶ頭に入れる」ことに価値を見出す(もっとはっきり言えば能力の指標とする)考え方が、かつてあったのかもしれない。
もちろん、上司はぼくより頭がいい。でも、今の時代の仕事の、量と速度と要素間の関係の複雑さからすれば、当然限界はある。
限界点が多少高いか低いかの違いだ。
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作業Aをやるためには作業Bができていることが必要で、作業BをやるためにはC社の承認が必要で、でもC社は作業Aの完成を待って判断するつもりで、あらら無限ループだ。そしてC社からは、なぜAがまだできていないんだとクレームが入っている。
相互に依存しあう物ごとが同時に動いていて、しかも時系列的な依存関係と立場上の依存関係が一致していない。状況は見た目よりもずっとずっと複雑だ。
だから、大判のポストイットに要素を書き出して、並べ替えて、どうすればいいか考える(残念ながら、その会社でアウトライナーを使うことは不可能だった)。
まず手順を。
そしてC社への説明を。
失敗したときのリカバー策を。
作業の計画ができる。
なんとか間に合うだろうぎりぎりのスケジュール。
上司に報告する。
スケジュールひとつ決めるのにいつまでかかってるんだと言いながら、上司はスケジュールに目を通す。そして「ここは3日じゃなくて2日でいこう」と言う。
それをすると、万一作業Bで問題が生じたときにリカバーできなくなって、より致命的な事態になる可能性がある、とぼくは言う。
「あ、そうかもな」と上司は言う。
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上司は「ぜんぶ頭に入って」いたのだろうか。
わからない。
わからないけど、ひとつ言えるのは、これは90年代半ばの話であり、その量も速度も複雑さも「今」から見れば古き良き時代のそれだったということだ。
そして、どんなに頭が良くても、量と速度と要素間の関係の複雑さに対しては、当然限界はあるということだ。
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「複雑なものを複雑なまま理解するのではなく、複雑なことをクリアに」(通りすがりの男)
「クリアとは単純という意味ではない」(通りすがりの男の弟)
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