ザディコキックスに(ほぼ)会いそこねた [Diary]
今年も六角橋商店街の「ヤミ市」の季節がやってきました。
「ヤミ市」が始まったらザディコキックスにまた会えると思って去年の秋から楽しみにしてたんたけど(去年の最後のヤミ市ではじめて見て、すっかり好きになってしまった)、今年最初の開催日だった4月17日は用事があって行かれず。次の5月15日は絶対行こうと思ってました(ヤミ市は第三土曜日に開催されます)。
でも当日になって、六角橋商店街までわざわざ出かけて、出てなかったらやだな、とふと思って。
事前にライブスケジュールを調べてみたら、ザディコキックスのホームページにも、どこにも出演予定が書いてない。「そうか、今日は出ないか」と納得しました。ま、毎回出るって決まってるわけじゃないしね。
とにかく15日は完全休養日って決めてたんで、午後は延々と音楽を聴きつづけ(幸せ)、夕方二人で出かけて鴨せいろとお茶漬けを食べ(幸せ)、それから「いつものところ」まで歩いてカールスバーグを飲んで(幸せ)。
で、結局近くまで来ちゃったから一応念のためと思って、ぷらぷらと六角橋商店街まで歩いてみたら、聞き覚えのある音楽が聞こえてくる。あれれと思って行ってみると、しっかりと彼らは演奏していました。
かろうじて、最後の曲の後半半分くらい楽しめた。
なまじ下調べなんかするからいけない、というパターンですね。
何も考えずにノコノコやってきて、もし出てなかったら「なんだー」って言ってビールでも飲んで帰る、というくらいのアバウトさが、本来健全なんだと改めて思いました。
ザディコという音楽にもその方があってるしな。六月は何も考えずに行きます。
「ヤミ市」が始まったらザディコキックスにまた会えると思って去年の秋から楽しみにしてたんたけど(去年の最後のヤミ市ではじめて見て、すっかり好きになってしまった)、今年最初の開催日だった4月17日は用事があって行かれず。次の5月15日は絶対行こうと思ってました(ヤミ市は第三土曜日に開催されます)。
でも当日になって、六角橋商店街までわざわざ出かけて、出てなかったらやだな、とふと思って。
事前にライブスケジュールを調べてみたら、ザディコキックスのホームページにも、どこにも出演予定が書いてない。「そうか、今日は出ないか」と納得しました。ま、毎回出るって決まってるわけじゃないしね。
とにかく15日は完全休養日って決めてたんで、午後は延々と音楽を聴きつづけ(幸せ)、夕方二人で出かけて鴨せいろとお茶漬けを食べ(幸せ)、それから「いつものところ」まで歩いてカールスバーグを飲んで(幸せ)。
で、結局近くまで来ちゃったから一応念のためと思って、ぷらぷらと六角橋商店街まで歩いてみたら、聞き覚えのある音楽が聞こえてくる。あれれと思って行ってみると、しっかりと彼らは演奏していました。
かろうじて、最後の曲の後半半分くらい楽しめた。
なまじ下調べなんかするからいけない、というパターンですね。
何も考えずにノコノコやってきて、もし出てなかったら「なんだー」って言ってビールでも飲んで帰る、というくらいのアバウトさが、本来健全なんだと改めて思いました。
ザディコという音楽にもその方があってるしな。六月は何も考えずに行きます。
時間について考えることが多くて [Diary]
今日の東京は、暑くもなく寒くもなく、晴れていて、空気は乾燥しすぎず、湿度高すぎずという、年に数回あるかないかの気持ちのいい午後(ちょっと風が強かったけど)。
クライアントに打ち合わせに向かう途中、同僚と「あと何回こんなに気持ちのいい日に出会えるかな」という話をする。
「生きてる間にあと20回もあるかな?」
「いくら何でももっとあるんじゃないですか?(笑)」
でも、年に数回だけそんな日があるとして、たまたまその日の午後に外を歩いていられるとは限らない。平日だったらオフィスの中で、外の天気も知らずに仕事している可能性のほうが高い。今日みたいにたまたま仕事で移動するか、休みの日に当たるか。
できればその日は仕事もなくて、後先急ぐこともなく、心に気にかかることもなく歩いていたいと思ったときに、やっぱりそんな機会って、実は20回もないのかもしれないと思う。
だとしたら、今日はすごく大事な日なんじゃないかな(仕事中だけど)。
◆
この前の日曜日に実家に行ったときに、久しぶりに裏庭に出てみる。考えてみればこんな風に庭に出るのは、家を出て以来15年ぶりのことかもしれない。
知っていた大きな木は切られてなくなっていて、知っていた小さな木はもはや小さな木ではなくて、奥に分け入ってみると、知っていたよりもずっとラフで深い。
今の庭は嫌いじゃないけど、こんなに時間がたって物事が変わっていくプロセスを、ぼくは目にしなかったんだな、と思う。
小山みたいになっている庭のてっぺんから家を見下ろしながら、あと何回この風景を見られるかな、と思う。想像も実感もしたことがないけど、おそらくそんなにたくさんではない。
最近、時間について考えることが多いのは、たぶん年齢のせいばかりではなくて、いろんな場面で、そんなことに時間を使っていいの? と思うことが多いから。
ラフでディープな実家の裏庭。
ディープな庭から見たディープな実家。
クライアントに打ち合わせに向かう途中、同僚と「あと何回こんなに気持ちのいい日に出会えるかな」という話をする。
「生きてる間にあと20回もあるかな?」
「いくら何でももっとあるんじゃないですか?(笑)」
でも、年に数回だけそんな日があるとして、たまたまその日の午後に外を歩いていられるとは限らない。平日だったらオフィスの中で、外の天気も知らずに仕事している可能性のほうが高い。今日みたいにたまたま仕事で移動するか、休みの日に当たるか。
できればその日は仕事もなくて、後先急ぐこともなく、心に気にかかることもなく歩いていたいと思ったときに、やっぱりそんな機会って、実は20回もないのかもしれないと思う。
だとしたら、今日はすごく大事な日なんじゃないかな(仕事中だけど)。
◆
この前の日曜日に実家に行ったときに、久しぶりに裏庭に出てみる。考えてみればこんな風に庭に出るのは、家を出て以来15年ぶりのことかもしれない。
知っていた大きな木は切られてなくなっていて、知っていた小さな木はもはや小さな木ではなくて、奥に分け入ってみると、知っていたよりもずっとラフで深い。
今の庭は嫌いじゃないけど、こんなに時間がたって物事が変わっていくプロセスを、ぼくは目にしなかったんだな、と思う。
小山みたいになっている庭のてっぺんから家を見下ろしながら、あと何回この風景を見られるかな、と思う。想像も実感もしたことがないけど、おそらくそんなにたくさんではない。
最近、時間について考えることが多いのは、たぶん年齢のせいばかりではなくて、いろんな場面で、そんなことに時間を使っていいの? と思うことが多いから。
ラフでディープな実家の裏庭。
ディープな庭から見たディープな実家。
枯渇しない希望としての書庫 [Diary]
久しぶりに図書館に行って、お気に入りの書架を順番に左から右に眺めていったけど、昔からよく借りたり眺めていた本はほとんど書架に出ていないし、今書架にある本にもひかれるものがなかった。
書庫の中にはまだ見たことのない本がたくさんあって、その中にはもし手に取れば一生愛読書になるような本だってあるかもしれないのだけど、書庫には入れないし、そもそも著者名もタイトルも知らなければ検索しようがないから、壁のすぐ向こうの書庫にそんな本が待っていたとしても、生きている間に出会うチャンスはないかもしれない。
そんなことを考えてたら、一瞬なんだか絶望的な気持ちになったんだけど。
でもよく考えてみれば、それは「この本に出会ってよかった」と思うような本に出会う可能性が枯渇することは一生ないということで、それは絶望とは反対のことなのだ。
同じことは本以外のあらゆることに当てはまる。
出会いさえすれば一生聴き続けることになる曲とか、一生離れられなくなる土地とか、一生付き合い続けることになる人とか、そんなものが存在していても、生きている間に出会うチャンスはないかもしれない。
つまりそれは、一生の間、常に何かしらの希望が残っているということだ。
書庫の中にはまだ見たことのない本がたくさんあって、その中にはもし手に取れば一生愛読書になるような本だってあるかもしれないのだけど、書庫には入れないし、そもそも著者名もタイトルも知らなければ検索しようがないから、壁のすぐ向こうの書庫にそんな本が待っていたとしても、生きている間に出会うチャンスはないかもしれない。
そんなことを考えてたら、一瞬なんだか絶望的な気持ちになったんだけど。
でもよく考えてみれば、それは「この本に出会ってよかった」と思うような本に出会う可能性が枯渇することは一生ないということで、それは絶望とは反対のことなのだ。
同じことは本以外のあらゆることに当てはまる。
出会いさえすれば一生聴き続けることになる曲とか、一生離れられなくなる土地とか、一生付き合い続けることになる人とか、そんなものが存在していても、生きている間に出会うチャンスはないかもしれない。
つまりそれは、一生の間、常に何かしらの希望が残っているということだ。
ミックス感 [Diary]
昨日、久しぶりに行った図書館で、「宝は非実用情報の中にある」で触れた、初期の「マッキントッシュ・バイブル(第3版)」を書庫から出してもらう。
初期マッキントッシュ・バイブル(第4版くらいまで)の特徴は、複数の執筆者の見解が必ずしも統一されていないことです。
通常の、いわゆる「マニュアル本」の世界では考えられないことだと思うけど、著者Aがあるソフトについて絶賛した部分の後に、著者Bが割り込むような形で「いや、俺はそうは思わない」みたいなコメントがついていたりする。つまり本としての見解をあえて統一してません。
でも、面白いから気にせず読んでいるうちに、全体としてのマックの(当時の)世界観が浮かび上がってきます。その感じが何ともいえず好きでした(実用的には、欄外に「これはひどい!」とか「これはいい!」とか「極意」などのアイコンがついていて、その部分の傾向がわかるような工夫がしてあったりもします)。
ヒッピー的な匂いも漂うこの雰囲気は、たぶん意図的なもので、初期の編者のアーサー・ネイマンは、後に編集者・ライターとして各種の「左翼的な」政治書の出版に関わっています(マッキントッシュ・バイブルをはじめとするコンピューター書を売ったお金で、と書いている)。
政治思想はともかくとして、「マッキントッシュ・バイブル」を改めて眺めていると、このミックス感に自分が強い影響を受けていることに気づきます。
※
そこからすると「ハッピーなアウトサイダーになる方法(みたいなもの)」を別ブログに分離したのは、あんまりいい考えじゃなかったな、ということにも気づくわけですが。
初期マッキントッシュ・バイブル(第4版くらいまで)の特徴は、複数の執筆者の見解が必ずしも統一されていないことです。
通常の、いわゆる「マニュアル本」の世界では考えられないことだと思うけど、著者Aがあるソフトについて絶賛した部分の後に、著者Bが割り込むような形で「いや、俺はそうは思わない」みたいなコメントがついていたりする。つまり本としての見解をあえて統一してません。
でも、面白いから気にせず読んでいるうちに、全体としてのマックの(当時の)世界観が浮かび上がってきます。その感じが何ともいえず好きでした(実用的には、欄外に「これはひどい!」とか「これはいい!」とか「極意」などのアイコンがついていて、その部分の傾向がわかるような工夫がしてあったりもします)。
ヒッピー的な匂いも漂うこの雰囲気は、たぶん意図的なもので、初期の編者のアーサー・ネイマンは、後に編集者・ライターとして各種の「左翼的な」政治書の出版に関わっています(マッキントッシュ・バイブルをはじめとするコンピューター書を売ったお金で、と書いている)。
政治思想はともかくとして、「マッキントッシュ・バイブル」を改めて眺めていると、このミックス感に自分が強い影響を受けていることに気づきます。
※
そこからすると「ハッピーなアウトサイダーになる方法(みたいなもの)」を別ブログに分離したのは、あんまりいい考えじゃなかったな、ということにも気づくわけですが。
To Doリストを捨てろ [レオ・バボータ関連]
原文:Leo Babauta "Kill Your To-Do List" from Zen Habits
これを読んでいるほとんどの人は、To-Doアプリか、さもなければテキストファイルか紙に書き出したTo-Doリストを持っているだろう。それはプロジェクトやタスクだけでなく、仕事やプライベート以外の、半ダースばかりの異なるコンテクスト別に書き出されているかもしれない。
一方To-Doリストを作っていない人は、おそらくTo-Doリストを作らなくては、と思っているだろう。なぜなら押し寄せる波に圧倒され、押しつぶされそうだからだ。
そこで私は提案したい。To-Doリストを捨てよう。
To-Doリストはあなたの時間を食いつぶし、モチベーションを消失させる。To-Doリストを作っている人の多くは、コンスタントにメンテナンスをしている。でなければリストはほこりをかぶって錆びつき、使い物にならなくなり、リストの管理に失敗した者は罪悪感にさいなまれ続ける。逆にリストを使い続けられる人は、多くの時間を——何か大切なことをする時間を——そのメンテナンスに割くことになる。
そして、肝心のリストはといえば、長大で、全て完了することは永遠になく、それどころか書き出されたタスクの半分は達成されることがない。完了した項目にチェックマークをつけることは気分のいいものだが、永遠にチェックされない項目がずっと残っている気分は最悪だ。こんな全てが、精神的エネルギーの無駄遣いだ。なぜなら、そうしてもあなたはどこにも行けないからだ。
唯一重要なことは、実際に何かを行うことだ。では、どうすればいいのだろう?
「一つのこと」システム
これは、私が実行している方法だ。To-Doリストから自由になる用意のある全てに人に強く勧めたい。
リストに書き出したその他の項目について気にする必要はない。なぜなら、リストには「一つのこと」しか書かれていないからだ。何かを終了するたびにチェックする必要もない。なぜならそもそもリストがないからだ。まだ終わっていないことについて、気に病む必要もない。なぜなら、私は自分が達成したいただ一つのことを、今やっているからだ——もしそれが私のやりたいことでないのなら、それは私にとっての「一つのこと」ではない。
もし、早い時間に「一つのこと」をやり終えたら、残りの時間は休みにしてしまってもいいし(これは私のお気に入りの戦略だ)、次の「一つのこと」に取りかかってもいい。
でも…でも…
では、やらなきゃならないその他のことはどうすればいい? 忘れてしまわないだろうか?
もしそうしたいならば、やるべきことの候補リストを作ろう。あるいは、どうしてもやらなければならないルーチンワークのリストを作ろう。私だったら、ルーチンリストからも、できるだけ多く削り落とすことを考えるだろう。こうしたワークは、あなたが本当にやりたいことを妨害する障害物になりがちだからだ。もしリストを作るならば、実行し、チェックマークをつけるべきTo-Doリストとは見なさないようにしよう。単なる備忘録として扱い、ただ必要に応じて書き足していき、一日一回くらい目を通す以外の手間をかけないようにしよう。
こんなリストでさえ本当は必要ないが、それなしでは不安に感じてしまう人にだけお勧めする。どうしても忘れたくないことがあったら、カレンダーにリマインダーを記入しよう。もし可能ならそうせずに済ませることをお勧めしたいが、もし毎月の支払いがあるなら、私もカレンダーにリマインダーを書き込むだろう。そんなに複雑なことでもない。
重要なことならば、本当に成し遂げたいことが自然にわかってくるはずだ。もしあなたが物書きであるなら、普通、何を書きたいかわかるはずだ。もしあなたがデザイナーなら、どんな仕事が自分をエキサイトさせるか、想像がつくだろう。リストなど必要ない。必要なのは、リストのことなど忘れて、ただ取りかかることだ。
To-Doリストを捨てよう。そして、「やらなければならない」ことも忘れよう。必要なのは、今この瞬間にあなたが情熱を持てる「一つのこと」だけだ。
※
Leo Babautaの著作"The Power of LESS"は「減らす技術 The Power of LESS」として日本語訳されています。
この記事は、Leo Babautaさんがブログ「Zen Habits」でUncopyrighted(コピーライトなし)として公開されている記事の日本語訳です。原文同様、この日本語訳もUncopyrighted(コピーライトなし)とします。
これを読んでいるほとんどの人は、To-Doアプリか、さもなければテキストファイルか紙に書き出したTo-Doリストを持っているだろう。それはプロジェクトやタスクだけでなく、仕事やプライベート以外の、半ダースばかりの異なるコンテクスト別に書き出されているかもしれない。
一方To-Doリストを作っていない人は、おそらくTo-Doリストを作らなくては、と思っているだろう。なぜなら押し寄せる波に圧倒され、押しつぶされそうだからだ。
そこで私は提案したい。To-Doリストを捨てよう。
To-Doリストはあなたの時間を食いつぶし、モチベーションを消失させる。To-Doリストを作っている人の多くは、コンスタントにメンテナンスをしている。でなければリストはほこりをかぶって錆びつき、使い物にならなくなり、リストの管理に失敗した者は罪悪感にさいなまれ続ける。逆にリストを使い続けられる人は、多くの時間を——何か大切なことをする時間を——そのメンテナンスに割くことになる。
そして、肝心のリストはといえば、長大で、全て完了することは永遠になく、それどころか書き出されたタスクの半分は達成されることがない。完了した項目にチェックマークをつけることは気分のいいものだが、永遠にチェックされない項目がずっと残っている気分は最悪だ。こんな全てが、精神的エネルギーの無駄遣いだ。なぜなら、そうしてもあなたはどこにも行けないからだ。
唯一重要なことは、実際に何かを行うことだ。では、どうすればいいのだろう?
「一つのこと」システム
これは、私が実行している方法だ。To-Doリストから自由になる用意のある全てに人に強く勧めたい。
- 朝起きる。そして、自分がエキサイトできる「一つのこと」を決める。
- 決めたら、そこに集中する。他のことは全て脇におき、注意をそらすものを取り除き、今この瞬間に没入する。
リストに書き出したその他の項目について気にする必要はない。なぜなら、リストには「一つのこと」しか書かれていないからだ。何かを終了するたびにチェックする必要もない。なぜならそもそもリストがないからだ。まだ終わっていないことについて、気に病む必要もない。なぜなら、私は自分が達成したいただ一つのことを、今やっているからだ——もしそれが私のやりたいことでないのなら、それは私にとっての「一つのこと」ではない。
もし、早い時間に「一つのこと」をやり終えたら、残りの時間は休みにしてしまってもいいし(これは私のお気に入りの戦略だ)、次の「一つのこと」に取りかかってもいい。
でも…でも…
では、やらなきゃならないその他のことはどうすればいい? 忘れてしまわないだろうか?
もしそうしたいならば、やるべきことの候補リストを作ろう。あるいは、どうしてもやらなければならないルーチンワークのリストを作ろう。私だったら、ルーチンリストからも、できるだけ多く削り落とすことを考えるだろう。こうしたワークは、あなたが本当にやりたいことを妨害する障害物になりがちだからだ。もしリストを作るならば、実行し、チェックマークをつけるべきTo-Doリストとは見なさないようにしよう。単なる備忘録として扱い、ただ必要に応じて書き足していき、一日一回くらい目を通す以外の手間をかけないようにしよう。
こんなリストでさえ本当は必要ないが、それなしでは不安に感じてしまう人にだけお勧めする。どうしても忘れたくないことがあったら、カレンダーにリマインダーを記入しよう。もし可能ならそうせずに済ませることをお勧めしたいが、もし毎月の支払いがあるなら、私もカレンダーにリマインダーを書き込むだろう。そんなに複雑なことでもない。
重要なことならば、本当に成し遂げたいことが自然にわかってくるはずだ。もしあなたが物書きであるなら、普通、何を書きたいかわかるはずだ。もしあなたがデザイナーなら、どんな仕事が自分をエキサイトさせるか、想像がつくだろう。リストなど必要ない。必要なのは、リストのことなど忘れて、ただ取りかかることだ。
To-Doリストを捨てよう。そして、「やらなければならない」ことも忘れよう。必要なのは、今この瞬間にあなたが情熱を持てる「一つのこと」だけだ。
※
Leo Babautaの著作"The Power of LESS"は「減らす技術 The Power of LESS」として日本語訳されています。
宝は非実用情報の中にある [Diary]
連休中、ふだんできないRenji Talkのアウトライナー関連コンテンツの更新とブラッシュアップを集中的にやっていました。
それで気がついたのは、自分でいちいち「非実用的な情報ですが」みたいな断り書きをつけているケースが多いということ。断り書きというと聞こえはいいけど、ま、言い訳ですね。たぶん、何カ所もあると思います(記念に残しておきます。とりあえずは)。
でも、そんな言い訳をしながらも、本当にパワーのある情報というのは、非実用情報と切り離せないのだということを経験的に知っているし、むしろ本当に実用的な情報というのは、本来非実用的なものの中に埋もれているものだということも知っています。
実用情報だけを取り出したものしか求められなくなっているし、手に入らなくなっている。そのことが、いろんなことをつまらなくしていると思います。必要なのは、非実用情報を排除することではなく、非実用情報まで含めて読ませてしまう面白さなのです。
たとえば、パソコンのマニュアル本で、分厚い「なんとかバイブル」と題された本はすっかり定番ですが、その元祖と思われる初期の「マッキントッシュ・バイブル」(アーサー・ネイマン(Arthur Naiman)が編集に関わっていた時代の)は、読み物としても本当に面白いものでした。
読み物として面白いということは、努力しなくても読めるし、実際に何度も繰り返して読むということです。そうしているうちに、その中にちりばめられている実用情報が、自然に自分の中に浸透してきます。
もともとはマックを使う上での実用書として購入した(いや、最初は図書館で借りたんだった)この本は、ぼくの最大の愛読書のひとつになり、一時期はお気に入りのページをほとんど暗記していたくらいです。
あるいは、Renji Talkに日本語訳を載せている、昔のデイヴ・ワイナーの、それこそレアなアウトライナー関連の文書たち。
「そんなもの、いったいどうやって見つけたの?」という人がいるけれど、それは「最初から全部読んだから」です。そして、そんなことができるのは、ワイナーの文章がやっぱり読み物として面白いからです。
読んでいるうちに、(本来求めている)アウトライナー関連の情報だけではない、ある意味ナルシスティックな自己言及も含めた一見雑多な情報が、実はワイナーの仕事と直接間接に結びつき、深みを与えていることもわかってきます(そして、同時にこっちの理解にも深みを与えてくれます)。
こういうやり方は、一見効率が良くないようだけど、「実用的な情報が効率よく書かれているけどつまんなくて読めないような本」と、結果的にどっちがより多くの「実用情報」を吸収できるか。それはたぶん明らかです。
宝は、非実用情報の中にあるんです。
P.S.(1)
最悪なのは、実用情報だけが、非効率的に提供されるという状態だと思います。具体的に例を挙げることはしないけどさ。
P.S.(2)
これも今気づいたことですが、自分の「雑多な内容がいっしょに突っ込まれた読み物が好き」という傾向は、もしかすると「マッキントッシュ・バイブル」から来てるのかもしれません。
それで気がついたのは、自分でいちいち「非実用的な情報ですが」みたいな断り書きをつけているケースが多いということ。断り書きというと聞こえはいいけど、ま、言い訳ですね。たぶん、何カ所もあると思います(記念に残しておきます。とりあえずは)。
でも、そんな言い訳をしながらも、本当にパワーのある情報というのは、非実用情報と切り離せないのだということを経験的に知っているし、むしろ本当に実用的な情報というのは、本来非実用的なものの中に埋もれているものだということも知っています。
実用情報だけを取り出したものしか求められなくなっているし、手に入らなくなっている。そのことが、いろんなことをつまらなくしていると思います。必要なのは、非実用情報を排除することではなく、非実用情報まで含めて読ませてしまう面白さなのです。
たとえば、パソコンのマニュアル本で、分厚い「なんとかバイブル」と題された本はすっかり定番ですが、その元祖と思われる初期の「マッキントッシュ・バイブル」(アーサー・ネイマン(Arthur Naiman)が編集に関わっていた時代の)は、読み物としても本当に面白いものでした。
読み物として面白いということは、努力しなくても読めるし、実際に何度も繰り返して読むということです。そうしているうちに、その中にちりばめられている実用情報が、自然に自分の中に浸透してきます。
もともとはマックを使う上での実用書として購入した(いや、最初は図書館で借りたんだった)この本は、ぼくの最大の愛読書のひとつになり、一時期はお気に入りのページをほとんど暗記していたくらいです。
あるいは、Renji Talkに日本語訳を載せている、昔のデイヴ・ワイナーの、それこそレアなアウトライナー関連の文書たち。
「そんなもの、いったいどうやって見つけたの?」という人がいるけれど、それは「最初から全部読んだから」です。そして、そんなことができるのは、ワイナーの文章がやっぱり読み物として面白いからです。
読んでいるうちに、(本来求めている)アウトライナー関連の情報だけではない、ある意味ナルシスティックな自己言及も含めた一見雑多な情報が、実はワイナーの仕事と直接間接に結びつき、深みを与えていることもわかってきます(そして、同時にこっちの理解にも深みを与えてくれます)。
こういうやり方は、一見効率が良くないようだけど、「実用的な情報が効率よく書かれているけどつまんなくて読めないような本」と、結果的にどっちがより多くの「実用情報」を吸収できるか。それはたぶん明らかです。
宝は、非実用情報の中にあるんです。
P.S.(1)
最悪なのは、実用情報だけが、非効率的に提供されるという状態だと思います。具体的に例を挙げることはしないけどさ。
P.S.(2)
これも今気づいたことですが、自分の「雑多な内容がいっしょに突っ込まれた読み物が好き」という傾向は、もしかすると「マッキントッシュ・バイブル」から来てるのかもしれません。
心に疲れを入れてはいけない [Diary]
「疲れを心に入れてはいけない」というのは確か村上春樹がどこかで書いたことだったと思う。具体的な定義もないし根拠もないけれど、感覚として「疲れが心に入る」というのはよくわかる。
一度心の芯の部分に疲れが入ることを許してしまうと、簡単には回復できなくなる。だからそれを許してはいけない。二十代のときに一度大変な目にあっているからそのことはよくわかっている。
4月のどこかの時点で、疲れが心に入りかかっていると感じた。専門的なことはわからないけれど、経験的にそれはいろんな形を取って現れる。
たとえば、「最近笑ったところを見たことがない」とTomo.さんに言われたとか。そんな自覚はまったくないけれど、たぶん笑っていないのだ。
たとえば、「何を謝ってるんですか?」と複数の同僚から言われたとか。ということは、知らないうちに謝っているのだ、たぶん。何について謝ってるのかは、自分でもわからない。
職場でも、職場以外でも、心の芯に疲れが入ることを許してしまった人を何人も知っている。彼らのうち何人かは、まだ復活できていない。
多くの場合、それは本人の責任ではない。でも、そう主張してみたところで、どうにかなるわけではないから、自分の心は自分で守るしかない。
そのために必要なのは、たぶん、休むことではなく、心以外の部分を動かすことと、自分の意志で何かをすることだ。
もう一度言うけれど、心に疲れが入ることを許してはいけない。
一度心の芯の部分に疲れが入ることを許してしまうと、簡単には回復できなくなる。だからそれを許してはいけない。二十代のときに一度大変な目にあっているからそのことはよくわかっている。
4月のどこかの時点で、疲れが心に入りかかっていると感じた。専門的なことはわからないけれど、経験的にそれはいろんな形を取って現れる。
たとえば、「最近笑ったところを見たことがない」とTomo.さんに言われたとか。そんな自覚はまったくないけれど、たぶん笑っていないのだ。
たとえば、「何を謝ってるんですか?」と複数の同僚から言われたとか。ということは、知らないうちに謝っているのだ、たぶん。何について謝ってるのかは、自分でもわからない。
職場でも、職場以外でも、心の芯に疲れが入ることを許してしまった人を何人も知っている。彼らのうち何人かは、まだ復活できていない。
多くの場合、それは本人の責任ではない。でも、そう主張してみたところで、どうにかなるわけではないから、自分の心は自分で守るしかない。
そのために必要なのは、たぶん、休むことではなく、心以外の部分を動かすことと、自分の意志で何かをすることだ。
もう一度言うけれど、心に疲れが入ることを許してはいけない。