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私たちは消費者ではない [レオ・バボータ関連]

原文:we are not consumers
この記事は、Leo Babautaさんがブログ「mnmlist」でUncopyrighted(コピーライトなし)として公開されている記事の日本語訳です。原文同様、この日本語訳もUncopyrighted(コピーライトなし)とします。

無駄なものを買わないよう努力している人の間にさえ、自分たちのことを「消費者」と呼ぶ傾向がある。企業は消費者を満足させる必要がある/私たち消費者は何にお金を払うかによって意志を示す必要がある/消費者を守るための番人が必要だ/景気後退が続く間、消費者は購買行動を控えている。等々。

もういい加減にしよう。私たちは消費者ではない。
私たちは人だ。

このような企業用語で括られることを自ら許すとき、私たちは大量消費主義に屈することになる。私たちは、ものを買うことを前提に議論が進められることを許してきた。オーガニック製品を買うべきか、国産品を買うべきか? 消費者を保護するにはどうすればいいか? 消費者に権利はあるか? お金を最も有効に使うにはどの商品を買えばいいか? 賢い消費者になるにはどうすればいいか? 倫理的・自覚的な購買選択によって社会の変化に影響を与えるにはどうすればいいか?

しかし、そもそも買うべきなのかどうかという質問はどうだろう? その質問は窓から放り捨てられることになる。なぜなら、用語の中でそう決められてしまっているからだ——私たちはconsumer(消費する者)なのだと。もちろん私たちはものを買う。問題はどのように、いくらで、どこで、誰から、どのくらい買うかということだ。

自らを消費者だと考えることを止めて、「人」と呼ぶようになるとき、私たちは改めてその質問を問い直すことになる。そもそも、ものを買う必要があるのか? ものを買わずに生きることは可能なのか?

そのことについては「society, reimagined(社会を再考する)」という記事の中で、少しだけ書いた。自ら食べるものは自ら作ることができること、必要なものは全て作ったり交換したり分けあったりできること。それは可能だ——もちろん可能だ! 人間(消費者ではない)は何十万年もの間、そして文明社会が訪れてからも少なくとも一万年の間、そうしてきたのだ。もちろん部族社会での話だが、もっと大きな社会でもそうしてきた。企業の基本単位=消費者を基礎としない社会では。

トライバリズム(部族制)への回帰を提唱しているわけではない。議論の前提を変える必要があると言っているのだ。私たちは自らを消費者と呼ぶことを止めなければならない。そして今とは違うやり方が可能になるよう、心をオープンにしなければならない。
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Readableなブログとアウトライン [アウトライナー]

デイヴ・ワイナーのScripting Newsに、サブテキストの機能が追加されました。段落の頭に表示された小さな「+」マークをクリックすると、その下に隠蔽されたサブテキストが展開・表示されるようになっています。

これがその機能が実装されたページ

Scripting Newsでは、以前からトップページに表示される記事を折りたたんでタイトルのみを表示することができましたが、同じことを通常の段落でできるようにしたわけです(ちなみにこの機能は今のところトップページには実装されてなくて、個別の記事ページでしか動きません)。

もちろん、クリックによってテキストの隠蔽・再表示をすること自体はめずらしいものではありませんが、画期的なのは、執筆に使うアウトライナー上での階層構造と、画面上でのメインテキスト・サブテキストの関係が連動しているところ。

ワイナーはOPML Editorという自前のアウトライナーを使って執筆しています。OPML Editorでは、もともとアウトラインがそのままウェブページとしてレンダリングされます。たとえばアウトラインの第一階層がタイトル、第二階層が記事タイトル、第三階層が本文というように。ここからさらに、第四階層のテキストをブログ上で折りたたみできるサブテキストとして表示されるようにしたのが、今回のバージョンアップです。

上のページを執筆しているOPML Editorの画面。

ワイナーは ブログをよりReadableなものにする試みの一環としてこの機能を実装したと書いています。

Readableとは「読みやすい」ということだけど、ワイナーはそれを単にデザインやタイポグラフィの問題として捉えるのではなく、コンピューター上のテキストがどのように表示されるべきか、どうしたら読者が情報を楽に俯瞰し、同時に必要なディテールに降りていくことができるかを読み込むことができるか、というレベルで考えています。

情報の俯瞰とディテールの行き来というのは、まさにアウトライナーの話です。

アウトライナーは、書くツールとしてだけでなく、読むツールとしても優れてします。前者でさえ多くの人に理解されているとは言えないけれど、後者について意識している人はさらに少ないような気がします。

ワイナーはReadableなブログに向けた試みとして、読むツールとしてのアウトライナーのエッセンスをブログに取り込んだわけです。

トップページやRSSリーダーで読むと、段落頭の「+」マークが表示されない(だから、その下にサブテキストが隠れているかどうかわからない)など、まだ未完成な部分は多々あるけれど。

ちなみに、右側のサイドバーも、折りたたみ・展開するようになりました。

背中で語る [Diary]

そして耳を傾ける。
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(笑)が大切なこともある [Diary]

大学の同級生が亡くなった。

もう十年以上も会ってないのだけど、奥さんとも仲が良かったこともあり(大学時代、彼らが付き合い始めたことをいちばん最初に聞かされたのはぼくなのだ)、彼女のことも気になったので、迷ったあげくに午後休みをとって行くことにする。

「私事」で同僚に迷惑をかけてまで行くことにはしたのだけど、そして実際に近くまで行ったのだけど、別の友人にこの間の事情を聞いて(それは書かない)、いろいろいろいろ考えて、結局今日は会わないことにした。そのかわり電話で彼女と少しだけ話す。

ひさしぶり。
ひさしぶり。
ていうのも変だね。
そうだね。
だいじょうぶ?
だいじょうぶだよ。
行こうと思ったんだけど。
うん。
とりあえず行かないから。
うん。
何かできることがあったら言って。
ありがと。
ないかもしれないけど。
ないね(笑)。
でも行こうと思って会社休んだから(笑)。
ありがと(笑)。

みたいな、短くて思いのほか明るい会話。

ときには、型どおりの言葉よりも(笑)が大切なことがある。そして(笑)を共有できることが大切なこともある。と、思いたい。

また、明日からがんばって生きよう。時間を無駄にしないように。
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人そのものが音になってるような [Diary]

和太鼓グループ「森のももんが団(仮名)」のライブ。
いつも仮名で書いてますが、実名は下の手作り感あふれるセットリスト(笑)を参照。
img011.jpg
彼らのライブを見ていていつも思うことだけど(そしてその度に書いてることだけど)、生演奏というのは、本当にその人自身がむき出しになるものなんだなあ、と。どんな楽器でもそうだけど、打楽器、特に太鼓は特別そうだと思う。

Tomo.さんも言っていたけど、ぼくらは音楽だけじゃなくて、たぶん「人」が好きで、だから「人」そのものを見せてくれる、「人」そのものが音になってるような彼らの演奏が、好きなんです。

グループとしては、見るたびに人の出入りがあって(今回は特に新しい人たちが何人もいたし、ものすごく若い人もいたし)、それに合わせて雰囲気は変わるけど、そのむき出し感だけは変わらない。

職場の同僚・Z子の本調子も久しぶりに見せてもらいました。

※※

そして、これほどストレートに他人との壁をぶち破るような手段を自分は持ってるだろうか? ともいつも思います。そのぐらい強い言葉を作ってみたい。
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心が動いたときの言葉 [Diary]

ミュージシャン吉原リエさんのブログより。

ヨーロッパで演奏したとき、演奏終了後、いろんな人が感想を伝えてに来てくれたのだけど、ただただ好きですとか、すごおく楽しかったとか、ラブリーとか、ビューティフルとか、マーベラスとか、ああ僕もポエムを書きたくなったとか、こんな音楽を聴けて僕はラッキーだとか、顔をほころばせながら、とにかく心が動いたんだと言ってくれる人が多くてびっくりしました。

日本だと、トイピアノを差してあの楽器は何ですか? とか、どこで買うのですか? とか、オオニシのギターのループはどうやっているのですか?とか、何のエフェクターを使っているのかとか。もちろん良かったという言葉も頂くけれど、それより先に質問なんです。

吉原リエさんの演奏をはじめて見たのは、ニール・カサールとのバンドで鎌倉のCafe Goateeで演奏したときだったけど、後に買ったニールのアルバムに、吉原さんのアコーディオンとコーラスが入ってないのが寂しくてしょうがないくらい、人も演奏も素敵でした。

がつがつしてなくて、まして急いでなんかぜんぜんいないのに、着々とやりたいことを実現していくところが、とても尊敬してしまう。たぶんぼくと同世代くらいなんだけどね(ちなみに、わりにご近所さんでもあります)。

音楽を聴いて本当に心が動いたら、良かったとか楽しかったとか素敵だったとかまた聴きたいとか、そんな言葉しか出てこないし、心が動かなかったら何も言うことはない。いろんなことを言ったとしても、それは言葉を変えて同じことを言ってるだけ。ぼくはそう思います。

もちろん、それは音楽に限らず小説でも映画でも同じなんだけど。

そんなわけで、明日はぼくの心をなぜか強く揺り動かし続ける(笑)和太鼓グループ「森のももんが団(仮名)」のライブ。興味のある方は、森のももんが団(仮名)のホームページを参照。
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個人の欲望を形にするための回路 [Diary]

秋元康氏が、かつておニャン子クラブで、今はAKB48で成功したのは、そこに秋元康氏自身の欲望が反映されているから(仮説)。

つんく氏が、モーニング娘。/ハロプロで成功したのも、そこにつんく氏自身の欲望が反映されているから(仮説)。

ジャニーさんがジャニーズ事務所という、他のどんなものにも似ていない、独自ジャンルの帝国を築き上げることができたのは、そこにジャニーさん自身の欲望が反映されているから(仮説)。

とすると、芸能界というのはもちろん冷徹なビジネスの世界だと思うけど、一見ビジネスの論理の対極にありそうに思える「個人の欲望」(もっと言ってしまえば性的な欲望)も同じくらい重要なんじゃないかという気がする。

アイドルの存在意義が、不特定多数の(性的)欲望を吸い上げて、(性的じゃないっぽく)解放させることだとすると、プロデュースする側自身の同種の欲望をベースにすることは、そのための回路を作り上げる最も有効な方法なのかも。

もしかしたらそこではマーケティングなんかお呼びじゃなく、論理が必要になるのは、むしろ個人の欲望を、どろどろなナマの状態じゃなく、商品として提供できるような洗練された見た目に変換するプロセスなのかもしれない(いや、それこそがマーケティングなのか?)。

なんていう話を、この間同僚としてたんだけど(AKBって、どうしてあんな大変な思いをしなきゃならないんですかねー、というところから始まったんだと思うけど)。

でも考えてみたら、何もアイドルに限った話じゃなく、人を強くひきつける仕事というのは、全て作り手個人の欲望を形にしたものが、受け手の欲望と結びつく結果なのかもしれない。欲望というのは、つまり生命力だから。

芸術作品はもちろんそうだろうけど、たとえば、スティーブ・ジョブズという男自身の美意識(=欲望)が、かつてのマックやNeXT Computerと、また今のiPhoneやiPadと切り離せないみたいに。

とすると、今いろんなところで欠けているのは、個人の欲望をストレートに形にするための回路なのかも。そして、自分が今必要として、なんとか作ろうとしているものは、まさにその回路なんじゃないかと。

なんていうことを考えていたら寝られなくなった。



ところで、ジャニーさんだけなんでジャニー「さん」なのかしら。
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