生きてるだけで人を救ってしまう [Thoughts]
人は意図しなくても生きてるだけで結果的に人を傷つけてしまうことがある、というのは、大人ならばみんな知っている(知っていなければならない)真理だ。
でも、多くの大人が忘れがちなのは、それと同じくらいの確率で、生きてるだけで人を救ってしまうこともある、ということ。
人生の何もかもがうまく機能しなくなって、遠からず自分の何かが決定的にダメになるという気がひしひしとするようなときに、ある人の存在が救ってくれた、みたいなことが、これまでに何度かあったけど、その人たちがぼくのことを救おうとしていたかというと、そんなことはないわけで。
だから、自分が(結果的に)人に救われてきたように、自分が意図せず人を救ってきたことも、理論上あるはず。
ただし、そういうことが起きるにはたぶん条件があって、それはその人自身が自分自身のために一生懸命生きていることだ。別に何か立派なことをするわけじゃなく、必死に好きなことを追求していたり、全力で恋愛していたり、とかそういうこと。
そう考えると、なんだかすごく生きていけそうな気がするんだけど。
でも、多くの大人が忘れがちなのは、それと同じくらいの確率で、生きてるだけで人を救ってしまうこともある、ということ。
人生の何もかもがうまく機能しなくなって、遠からず自分の何かが決定的にダメになるという気がひしひしとするようなときに、ある人の存在が救ってくれた、みたいなことが、これまでに何度かあったけど、その人たちがぼくのことを救おうとしていたかというと、そんなことはないわけで。
だから、自分が(結果的に)人に救われてきたように、自分が意図せず人を救ってきたことも、理論上あるはず。
ただし、そういうことが起きるにはたぶん条件があって、それはその人自身が自分自身のために一生懸命生きていることだ。別に何か立派なことをするわけじゃなく、必死に好きなことを追求していたり、全力で恋愛していたり、とかそういうこと。
そう考えると、なんだかすごく生きていけそうな気がするんだけど。
内側の毒 [Thoughts]
すっと昔から、どこにいても常に自分はその外側にいるという感覚があって、それは今に至るまで変わっていない。
それをはっきり自覚するようになった最初は、日本人の子供としてアメリカの小学校に通っても、帰国子女として日本の小学校に通っても、いずれにしても自分は外側なんだと感じたときだと思うけど、よく考えてみればそれ以前にも、心の底から自分が集団の内側にいると感じたことなんか一度もなかった。
どうやって集団と折り合いをつけていくかが一貫して自分の課題だったけど、生きてきてひとつわかったことは、無理に内側に入ろうとするとろくな結果は生まないということだった。自分のためにも周囲のためにも。
だからこそ、逆説的だけど集団の中で生きるためには、意識的に外側にいつづける以外に、方法はなかった。
外側に立つといっても、集団と対立するのではなく、強いて内側に入ろうとしないということ。内側に入るためだけに何かをしないこと。集団の中の個人とは付き合っても、集団とは付き合わないこと。
そうすることで、自分は壊れずにすんできた、という感覚がある。
でもそうは言いながら、何の疑問もなく当然のように「内側」に居られる人をうらやましく思ったことが一度もなかったかといえばそれはぜんぜん嘘で、そんなふうに生きられたら楽だろうな、と思うこともあった。
でも今、職場の中で「内側の人」の代表のようにぼくが勝手に思っていた人が心身を壊して長期療養をしていて、それを見れば、当然だけど物事はそんなに単純じゃないことがわかる。
常に内側にいつづける(あるいはいつづけようとする)ということが、どれほど人を疲弊させるか。
集団の内側には毒があるんだね。だけど、人には絶対に居場所が必要だし、人はひとりでは生きていけない。うむ。
それをはっきり自覚するようになった最初は、日本人の子供としてアメリカの小学校に通っても、帰国子女として日本の小学校に通っても、いずれにしても自分は外側なんだと感じたときだと思うけど、よく考えてみればそれ以前にも、心の底から自分が集団の内側にいると感じたことなんか一度もなかった。
どうやって集団と折り合いをつけていくかが一貫して自分の課題だったけど、生きてきてひとつわかったことは、無理に内側に入ろうとするとろくな結果は生まないということだった。自分のためにも周囲のためにも。
だからこそ、逆説的だけど集団の中で生きるためには、意識的に外側にいつづける以外に、方法はなかった。
外側に立つといっても、集団と対立するのではなく、強いて内側に入ろうとしないということ。内側に入るためだけに何かをしないこと。集団の中の個人とは付き合っても、集団とは付き合わないこと。
そうすることで、自分は壊れずにすんできた、という感覚がある。
でもそうは言いながら、何の疑問もなく当然のように「内側」に居られる人をうらやましく思ったことが一度もなかったかといえばそれはぜんぜん嘘で、そんなふうに生きられたら楽だろうな、と思うこともあった。
でも今、職場の中で「内側の人」の代表のようにぼくが勝手に思っていた人が心身を壊して長期療養をしていて、それを見れば、当然だけど物事はそんなに単純じゃないことがわかる。
常に内側にいつづける(あるいはいつづけようとする)ということが、どれほど人を疲弊させるか。
集団の内側には毒があるんだね。だけど、人には絶対に居場所が必要だし、人はひとりでは生きていけない。うむ。
OPALの隠れた美点 [アウトライナー]
あまり意識されてないことが多いけど、「文章(テキスト)を書く」ことと、「文書(ドキュメント)を作る」ことは、同じことではない。
コンテンツとしての文章や写真やグラフィックを読みやすく、あるいは美しく、統一感を持ってフォーマットした完成品が文書(ドキュメント)なら、文章(テキスト)とは、そこに組み込まれるコンテンツとしての文章(意味を持った文字の連なり)のことだ。
そのどちらの作成を意図するかで、アウトライナー選びも変わる。
例えば、きちんとフォーマットされた文書(ドキュメント)を作成するのであれば、WordやPagesのようなアウトライン機能を組み込んだワープロを使うか、TAOやOmni Outlinerのようにアウトライン階層と書式を連動させる機能を持ったアウトライナーが適しているかもしれない。
でも、純粋に文章(テキスト)を書くためのアウトライナーとしては、はるかにシンプルなOPALの方が優れているところが多い。たとえば、プレーンテキストとの相性が抜群にいいこと。
アウトラインから通常の文章の形式に仕上げる場合について考えてみる。
通常、アウトライナーで作ったアウトラインをプレーンなテキストに貼り付けると、そのアウトラインの階層は段落前のタブに(あるいは別のアウトライン記号に)変換される。例えば二階層目の項目は頭にタブが2つ、三階層目は3つという具合。でも、これテキストを文章として扱う場合には、かえって邪魔になることが多い。
例えばブログの記事をアウトライナーで書いたとして、最終的に投稿画面に貼り付けるときに、タブ記号をぜんぶ削除しなければならない。
OPALの場合、これを避けるためのオプションが最初から用意されている。
少しわかりにくいけれど、[環境設定]→[一般]を開いて「クリップボードやエキスポートに箇条書き記号」と「クリップボードやエキスポートにタブ」をオフする。これで、アウトラインをコピーして、テキストエディタにペーストするとき、完全にべた書きのテキストとしてペーストされる。また、ファイルをテキストファイルとしてエキスポートするときも同様。
逆に、べた書きのテキストを簡単にアウトラインに変換することもできる。テキストをコピーして、OPALの画面を開き、[編集]→[テキストをトピックとしてペースト]を選択する。すると、テキストは一段落(改行記号まで)=一トピックの形で、アウトラインに組み込まれる。
これは、一度完成品に近い状態まで書き上げた文章を、もう一度アウトライナーの中で再構成するときにとても便利だ。
ぼくがOPALを好きなのは、シンプルで透明度が高く、よけいなことを考えなくて済むだけでなく、こういう一見機能比較やスペックには現れないところに心遣いが行き届いているからだ。
コンテンツとしての文章や写真やグラフィックを読みやすく、あるいは美しく、統一感を持ってフォーマットした完成品が文書(ドキュメント)なら、文章(テキスト)とは、そこに組み込まれるコンテンツとしての文章(意味を持った文字の連なり)のことだ。
そのどちらの作成を意図するかで、アウトライナー選びも変わる。
例えば、きちんとフォーマットされた文書(ドキュメント)を作成するのであれば、WordやPagesのようなアウトライン機能を組み込んだワープロを使うか、TAOやOmni Outlinerのようにアウトライン階層と書式を連動させる機能を持ったアウトライナーが適しているかもしれない。
でも、純粋に文章(テキスト)を書くためのアウトライナーとしては、はるかにシンプルなOPALの方が優れているところが多い。たとえば、プレーンテキストとの相性が抜群にいいこと。
アウトラインから通常の文章の形式に仕上げる場合について考えてみる。
通常、アウトライナーで作ったアウトラインをプレーンなテキストに貼り付けると、そのアウトラインの階層は段落前のタブに(あるいは別のアウトライン記号に)変換される。例えば二階層目の項目は頭にタブが2つ、三階層目は3つという具合。でも、これテキストを文章として扱う場合には、かえって邪魔になることが多い。
例えばブログの記事をアウトライナーで書いたとして、最終的に投稿画面に貼り付けるときに、タブ記号をぜんぶ削除しなければならない。
OPALの場合、これを避けるためのオプションが最初から用意されている。
少しわかりにくいけれど、[環境設定]→[一般]を開いて「クリップボードやエキスポートに箇条書き記号」と「クリップボードやエキスポートにタブ」をオフする。これで、アウトラインをコピーして、テキストエディタにペーストするとき、完全にべた書きのテキストとしてペーストされる。また、ファイルをテキストファイルとしてエキスポートするときも同様。
逆に、べた書きのテキストを簡単にアウトラインに変換することもできる。テキストをコピーして、OPALの画面を開き、[編集]→[テキストをトピックとしてペースト]を選択する。すると、テキストは一段落(改行記号まで)=一トピックの形で、アウトラインに組み込まれる。
これは、一度完成品に近い状態まで書き上げた文章を、もう一度アウトライナーの中で再構成するときにとても便利だ。
ぼくがOPALを好きなのは、シンプルで透明度が高く、よけいなことを考えなくて済むだけでなく、こういう一見機能比較やスペックには現れないところに心遣いが行き届いているからだ。
就活で身に付けたことは忘れて [Diary]
先週の金曜日の話。あまりにも余裕がなくて、いっしょに仕事をしている今年配属されたばかりの新人の女の子に少しばかりきついものの言い方をしてしまって、それがけっこう気になっている。
客観的にみれば、彼女は普通の新入社員のレベルをはるかに超えて優秀で、これ以上を求めるのはいくらなんでも酷だ。
新入社員に対して誰も手加減しないのが職場の特徴で、それはいいところでもあるけれど、それは新人を育てるという観点からそうなってるわけではなく、単に人手が必要だという実用的な観点からそうなってるので、一歩間違えると入ってきた人を潰してしまいかねない。
少し前までなら、新入社員に対する正しいアドバイスは「社会人としての自覚を持って」とか「先輩について、先輩のアドバイスに従って」とか「ホウレンソウをしっかりして」とかだったかもしれない。
それは今でも間違いじゃないだろうけど、今の就活を勝ち抜いて会社に入ってくる人は、そのくらい放っておいてもやる。少なくともうちの職場に入ってくる子たちはそうだ。
むしろ彼らに必要なのは「個人としての自覚を持って」「個人として必要なことを主張する」ことのような気がする。
ひと言でいうと「ちゃんと仕事をしながら、自分の身は自分で守る」ということだ。就活で身に付けたことは忘れて。
今の就活をみていると、いかに相手の聞きたい言葉を口にするか、の訓練をしているようにしか見えない。そんな訓練をしてたら、社会というところは「相手の聞きたくない言葉を口にしてはいけないところ」みたいに思っても不思議じゃない。
そして、その訓練を積んできた子たちは、限界に近くなっていても、傍目にまだ大丈夫そうに見えちゃうのだ。それは、とても危険なことだ。
とはいえ、自分自身にだってそれは簡単なことじゃないし、ベテランも含めて多くが身体を壊したり心を病んだりしてる中で、そんなことが新入社員に簡単にできるはずがないんだけど。
ところで、二年前にもぼくはその年の新人のことをやっぱり同じように心配していて、このブログにも何度か書いたことがある。その二年前の新人の女の子は見事に壁を乗り越えて、今ではぼくは彼女によく叱られている(笑)。
だから、たぶん大丈夫、のような気もするんだけど。
客観的にみれば、彼女は普通の新入社員のレベルをはるかに超えて優秀で、これ以上を求めるのはいくらなんでも酷だ。
新入社員に対して誰も手加減しないのが職場の特徴で、それはいいところでもあるけれど、それは新人を育てるという観点からそうなってるわけではなく、単に人手が必要だという実用的な観点からそうなってるので、一歩間違えると入ってきた人を潰してしまいかねない。
少し前までなら、新入社員に対する正しいアドバイスは「社会人としての自覚を持って」とか「先輩について、先輩のアドバイスに従って」とか「ホウレンソウをしっかりして」とかだったかもしれない。
それは今でも間違いじゃないだろうけど、今の就活を勝ち抜いて会社に入ってくる人は、そのくらい放っておいてもやる。少なくともうちの職場に入ってくる子たちはそうだ。
むしろ彼らに必要なのは「個人としての自覚を持って」「個人として必要なことを主張する」ことのような気がする。
ひと言でいうと「ちゃんと仕事をしながら、自分の身は自分で守る」ということだ。就活で身に付けたことは忘れて。
今の就活をみていると、いかに相手の聞きたい言葉を口にするか、の訓練をしているようにしか見えない。そんな訓練をしてたら、社会というところは「相手の聞きたくない言葉を口にしてはいけないところ」みたいに思っても不思議じゃない。
そして、その訓練を積んできた子たちは、限界に近くなっていても、傍目にまだ大丈夫そうに見えちゃうのだ。それは、とても危険なことだ。
とはいえ、自分自身にだってそれは簡単なことじゃないし、ベテランも含めて多くが身体を壊したり心を病んだりしてる中で、そんなことが新入社員に簡単にできるはずがないんだけど。
ところで、二年前にもぼくはその年の新人のことをやっぱり同じように心配していて、このブログにも何度か書いたことがある。その二年前の新人の女の子は見事に壁を乗り越えて、今ではぼくは彼女によく叱られている(笑)。
だから、たぶん大丈夫、のような気もするんだけど。
書くためのアウトライナー(仮題) [アウトライナー]
Renji Talkのアウトライナー関連コンテンツは、おそらく日本でも有数といっていい(?)充実度だと思うけど、マニアックな部分を削って、もうちょっと読みやすい、アウトライナーを使うための(特に文章を書くための)実用情報がまとまったものを作ろうと思っています。
特定のソフトにとらわれない、アウトライナーで書くための基礎知識と応用知識みたいなもの。仮題は「書くためのアウトライナー」にしました(笑)。
どんな形態にするかはまだ決めてないけど、現在作成中のβ版の仮アウトラインはこんな感じです。
それにしても、Renji Talkは大学からのアクセスが多いんだけど、論文やレポート書きの役に立ったりしてるんだろうか? それとも、それ自体が論文やレポートのネタになってるのかな?
特定のソフトにとらわれない、アウトライナーで書くための基礎知識と応用知識みたいなもの。仮題は「書くためのアウトライナー」にしました(笑)。
どんな形態にするかはまだ決めてないけど、現在作成中のβ版の仮アウトラインはこんな感じです。
書くためのアウトライナー アウトラインとは何か アウトライナーとは何か アウトライニングの基礎 トップダウン ボトムアップ トップダウンとボトムアップの組み合わせ アウトライナーで書く 短文を書く 長文を書く 短文の組み合わせ 決められたアウトラインに従って書く ゼロから書き起こす 再構成する 資料を読む 資料をアウトライン化する アウトラインを組み替えて内容を読み解く ネタと資料を管理する ひとつの長大なアウトラインに入れる アウトライナーを選ぶ
それにしても、Renji Talkは大学からのアクセスが多いんだけど、論文やレポート書きの役に立ったりしてるんだろうか? それとも、それ自体が論文やレポートのネタになってるのかな?
簡易幸福論(序説) [Thoughts]
- 「幸せにしてくれそうな人」を見つけようとするよりも、「すでに幸せな人」を見つける方が、きっと幸せになれるよ。
- 自分自身がすでに幸せでないと「すでに幸せな人」を見つけることは難しい。
- 幸せであることと「幸せオーラを出す」こととはぜんぜん違う。
- それはきっと「健全な欲望や願望に基づいて素直に行動する人」のことだ。
- あれ、なんでこんなことを考えてるんだろう。
鴨の力、本の力 [Diary]
今日から五連休、のはずなんだけど、仕事が片付かず断念。明日の半日で終了させる予定。
本当は今日やりたかったけど、昨日確かにしたはずの打ち合わせの内容をまったく記憶していない(というか、打ち合わせをした記憶もない)という、なんか末期的な症状を呈していたので、今日一日休むことにした。
夜、鴨せいろを食べて、鴨の力で少し元気になる。どんなにストレスがたまってもどれだけ暑くても食欲が落ちないのが、数少ないとりえ(たぶん)なんです。
その勢いで本屋に行って、本の力でもう少し元気になる。
本当は今日やりたかったけど、昨日確かにしたはずの打ち合わせの内容をまったく記憶していない(というか、打ち合わせをした記憶もない)という、なんか末期的な症状を呈していたので、今日一日休むことにした。
夜、鴨せいろを食べて、鴨の力で少し元気になる。どんなにストレスがたまってもどれだけ暑くても食欲が落ちないのが、数少ないとりえ(たぶん)なんです。
その勢いで本屋に行って、本の力でもう少し元気になる。
夏休みのイメージ [Diary]
日曜日に古本屋で買ったジュール・ヴェルヌの「海底二万海里」。なぜか五年に一度くらい、無性に読みたくなって、買ってしまう。別にこだわりはないんだけど、今回買ったのは角川文庫の花輪莞爾訳(五年後にまた別のを買っちゃうんだろうな)。
どういうわけか「海底二万海里」が読みたくなるのは夏が多い。暑い暑い夏の日に、家から少し離れた冷房の効いた喫茶店(この場合、スタバではないんだな)に入ってアイスコーヒーを飲みながらこういうのを延々読み続ける、というのが、個人的夏休みのイメージ。
残念ながら今は行き帰りの電車の中で読んでるけど。
ちなみに、もうひとつ五年に一度くらい無性に読みたくなって買ってしまう、やっぱり夏休みにぴったりの本に、佐藤さとるの「だれも知らない小さな国」があります。あれ、児童文学ばっかりだ(「海底二万海里」は違うか)。
どういうわけか「海底二万海里」が読みたくなるのは夏が多い。暑い暑い夏の日に、家から少し離れた冷房の効いた喫茶店(この場合、スタバではないんだな)に入ってアイスコーヒーを飲みながらこういうのを延々読み続ける、というのが、個人的夏休みのイメージ。
残念ながら今は行き帰りの電車の中で読んでるけど。
ちなみに、もうひとつ五年に一度くらい無性に読みたくなって買ってしまう、やっぱり夏休みにぴったりの本に、佐藤さとるの「だれも知らない小さな国」があります。あれ、児童文学ばっかりだ(「海底二万海里」は違うか)。
正論について [Thoughts]
- 正論のように聞こえることを、ストレートに口にするということは、実はすごく難しい。
- 単なるタテマエに聞こえるか、インチキくさく聞こえるか、バカみたいに聞こえるかだから。
- でも忘れてる人が多いようだけど、正論は多くの場合正しくてパワフルだ。
- そして、言葉にした正論は、時に正論と真逆のように聞こえたりする不思議。