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新年の目標は目標を立てないこと [Diary]

2010年最後の夜も、マック抱えて夫婦でスタバに入りびたり。そして今年最後の食事は吉野家(笑)。でも、たまに食べたら美味しかったです。ちなみに生卵ではなく半熟卵派。

そして、世の中の流れに逆らって(そればっか)今日だけは早く寝るのだ! でも、Ustream中継中のマゼールの「第九」みちゃうかもなあ(昼間の「英雄」はすごく良かった)。

で、今年最後のブログ更新は、絶賛翻訳進行中!のレオ・バボータ「フォーカス」の、今日訳した部分(未公開)から引用。

目標を設定することの最大の問題は、決して満足できないということだ。目標を設定するとは、つまりこういうことだ。「もしこの目標を達成したら(あるいは目標をすべて達成したら)私は幸せになれる。私は今幸せではない。なぜならまだ目標を達成していないからだ」。大きな声で語られることはないが、これが目標というものの本当の意味なのだ。問題は、もし目標を達成しても、私たちは幸せにはなれないということだ。私たちは新たな目標を設定し、新しい何かに向けて邁進するのだ。

多くの人が新しい何かに向けて邁進するのは良いことだと言うが、それはつまり私たちは常に邁進し続けるということであり、残念ながら決して満足できないということなのだ。それは不幸なことだと私は思う――私たちは、今手にしているもので満足することを学ぶべきなのだ。

計画はしない。なぜなら計画は幻想だからだ。1年後あるいは半年後に何が起こるかなどわからない。出来事をコントロールしようと試みることはできるが、そんなことをしてもうまくいかない。常に何かが起こり、それは良いこともあるし悪いこともあるが、いずれにしても計画は崩壊する。私は流れに乗り、計画を乱す出来事についてではなく、今何をするべきかを考えることを学んできた。数ヶ月前に計画したことではなく、計画するなど思いもよらなかった機会を捉えられるようになった。これまで知らなかったようなジャンルの仕事に取り組めるようになった。今、ベストな選択をすることができるようになった。
レオ・バボータ「フォーカス」より

良いお年を。

突っ込みばかり上手になってさ。 [Diary]

この間、無印良品で不良品のドライヤーを交換したとき、カウンターで対応してくれた人は、歳末の長蛇の列ができている中で、不良品の交換を要求されて、嫌な顔も困った顔もせず、不快な思いもさせず、待たせもせず、卑屈にもならず、手早く必要な手続きをして、在庫確認をして、代替品を手渡してくれて、とても好感が持てた。

上の一つでも欠けたら、おそらく(ぼくも含めて)多くの人はその対応に不満を感じるだろうし、場合によってはクレームだって言うかもしれないけど、考えてみるとこれって、とんでもなく難しいことだ。

不良品の交換にきちんと対応するのは当たり前のことだけど、ちょっとでも仕事をしている人なら、この当たり前のことがどれくらい難しいか、想像がつくはず。

難しいことをやり遂げた人間は、賞賛されるべきだと思います。だから賞賛します。すごいぜ横浜そごう無印良品。

「何ができてないか」ばかり指摘されることが、人のエネルギーも、世の中のエネルギーを奪ってると思う。みんな突っ込みばかり上手になってさ。

集団のかすがい [Thoughts]

リーダーシップってすごく重要なものだとみんなが思ってるじゃないですか。昔から集団面接のときに誰がその場をリードするか牽制し合ったりして。職場の評価項目の中にも〈リーダーシップ〉の項目があったりして。

だけどもちろん、世の中にはリーダーシップのある人とない人がいる。それは先天的資質みたいなもので、これほど訓練で身につかないものもない。

そして、人は苦手なことを無理にすると、悲惨なことになるし、人に迷惑をかける(当然予想がつくと思うけど、ぼくはもちろん「ない人」。ふっ)。

でも、今みたいにリーダーシップが絶対的に必要だということになると、それを身に付けなければ、と思う人だっているかもしれない。そのことで苦しんでいる人や自分を責めてる人がいたりするかもしれない。セミナー受けたりしてる人もいるかもしれない。

でね、リーダーシップって、そんな単純なものなんだろうか、と思うわけです。

個人的には、本来リーダーの資質じゃないんだけど、そしていわゆるリーダーシップを発揮したりはしてないんだけど、自分のできることを自分のできるようにしていて、そこになんとなく人がついてきている、という人に興味がある。

いわゆる「リーダーシップ」なんかなくても、人がついてくる人って、ちゃんといるんだよ。そして、そういう人の共通点て、一見人がついてきているようには見えないこと。

いや、人がついてくるという表現が適切じゃないかもしれない。なんだろうな、集団のかすがいみたいな人。特に表だって人を引っ張ったりはしないし先頭に立って走ったりはしないし、場合によっては弱さもダメさも見せるんだけど、その人がいないと、その集団自体が変質してしまうような人。

そういう人を何人か知っているし、やたらとリーダーシップを発揮する人より、自分にはなんだかそういう人が信用できる。

今年もリトルドラマーボーイ [Diary]

賑やかなクリスマスって、あんまり性に合わない。前にも書いたかもしれないけど、クリスマスは寂しい感じが好きです。

ぼくにとってのクリスマスの思い出は、子どもの頃、家族で夜の住宅街を車で走りながら、いろんな家の窓から見えるクリスマスツリーを外から眺めたこと。思い出すだけでなんだか涙が出そうな感じです。

そして、そういう楽しいけど寂しいクリスマスにいちばん似合うクリスマスソングが「リトルドラマーボーイ」。「リトルドラマーボーイ」は、訳詞を二年前に載せてから、今でも12月になるとこのブログの検索ワード第一位です。
→冬のスタバとリトル・ドラマー・ボーイ

これがハリー・シメオン合唱団のオリジナルバージョン!



冬のどどんが団の「そうそう」隊がボレロのリズムを叩く後ろで、合唱隊が「リトルドラマーボーイ」を歌う夢を見ました。なかなか、素敵でした。

太鼓の冬 [Diary]

各方面から心配された?「冬のどどんが団」第15回コンサートが、無事終了。

太鼓というのは、原始的な楽器なだけに叩く人によって驚くほど音が違う。「まるで人そのものが音になってるような」って前にも書いたけど、今日、メンバーの方自身がMCで同じことを言っていた(やっぱり、そうなんだよね)。

そして何回も見ていると気づくのは、同じ人でもそのときによって音が違うということ。

良い違いも悪い違いも、それがその人の生きている今を表していると思うとなんだかぐっときてしまうわけです。

さらに、一度の演奏の中で音が変わっていく人というのもいる。霧が晴れるようにクリアになってくることもあれば、最初飛び出したのに、だんだん曇っていってしまうこともある。

そういう音の違いや変化が、愛しかったりセクシーだったり微笑ましかったり苦しかったりする。

そしてこれまたいつも書くことだけど、そんな千差万別な違いや変化やブレが、束になって一つの音になると、不思議なうねりみたいなものが生まれる。

その上に、曲によって不思議な、曲によってかわいい振り付けと、腹の底から出す声と、企画倒れと手作り感とみんなの人生と団長の生き様がパッケージ化されているのが、冬のどどんが団。

こんな和太鼓グループは、絶対に他にはない。

冬のどどんが団コンサート告知 [Diary]

このブログを読んでくださっている方ならみんな知っている(?)、和太鼓グループ「冬のどどんが団」のコンサートが、12月23日(祝)にあります。

大きい会場でのコンサートはずいぶん久しぶりなんで楽しみ。場所は神奈川県大和市の「大和市保健福祉センター」。お近くの方、ぜひ足を運んでみてください。

なのに打頭(リーダー)は、どう考えてもまともに練習できるとは思えない忙しさで世界とか日本とかを飛び回っています。ぼくは知っています。

きっと、練習できてないんです。だけど、明後日です。どうなるんでしょうか。

でも、たとえどうなっても、見て損はしないはずです。そう感じさせるところが、彼らのすごいところです。

見てもらえれば、ぼくがなぜこんなに彼らにひかれるのか、わかります。

■2010冬のどどんが団和太鼓コンサートvol.14■
「トンネル抜けて・・・!それからどスた」
日時:2010年12月23日(木・祝)
開場:午後4時44分
開演:午後5時05分
終了:午後7時37分(予定)
会場:大和市保健福祉センター1Fホール


※関連:
冬のどどんが団ホームページ
Tak.による「冬のどどんが団非公式ファンクラブ」

そう考えると一生は意外に短い [Diary]

一生のうちに、あと何回紅葉が見られるだろう。
一生のうちに、あと何回心の底から楽しいと思えるだろう。
一生のうちに、あと何回素敵なセックスができるだろう。
一生のうちに、あと何回鳥肌が立つような音楽に出会えるだろう。
一生のうちに、あと何人この人に出会って良かったと思う人に出会えるだろう。
一生のうちに、あと何匹遊ぶ猫に出会えるだろう。
一生のうちに、あと何回外国に行けるだろう。
一生のうちに、あと何回心から納得できる仕事ができるだろう。
一生のうちに、あと何回暑くもなく寒くもない晴れた日に外を歩けるだろう。
一生のうちに、あと何回心を奪われて眠れなくなるような道具に出会えるだろう。
一生のうちに、あと何回愛読書に出会えるだろう。
一生のうちに、あと何回生きてて良かったと思えるだろう。

じゃあ、あそんどく?
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理性に打ち勝つ [Thoughts]

朝10時からのクライアントでの打ち合わせ資料に、前日深夜になってもまったく手をつけられてないとして、そういうときには、当日始発に乗れば6時に職場に着けるし、それで3時間の作業時間を確保できる。誰からも話しかけられず、電話もかかってこない時間が3時間あれば、なんとか形にできる。

そういうぎりぎりの日が、以前は年に数回だったけど、今年に入ってから月に数回、そして秋以降週に数回発生するようになった。

5時発の始発電車に乗るためには、4時すぎに起床する。そういう状況では、前日の帰宅時間もだいたい深夜だから、睡眠時間はだいたい一時間半、長くて二時間。

ちょっと前、そういう日が連続した何日目かの朝、まだ暗い中坂道を走って下って、始発電車になんとか間に合って、改札の前で足を止めたとき、何かの影みたいなものが、右後ろからゆっくりと近づいてくるのをはっきりと感じる。

それが何なのか直感的にわかったので、振り向かずに立ち止まって目を閉じる。無意識に「ごめんなさい」とつぶやく。何に謝ってるのかわからないけど、何かに対して。

その影みたいなものは頭の右後ろのあたり、すぐそばを通って、やがて消えていった。

夏に一度警告されてるはずなのに、生活は何も変わっていないどころか、ひどくなる一方だ。

寝不足も疲れもストレスも当たり前のようにそこにあるし、それが体を壊すことと紙一重であることは常に感じているけど、ここまではっきり現実的な恐怖を感じたのは、それがやってくる可能性を現実のものとして感じたのは、初めてのことだった。

そんなわけで「スケジュールと仕事の状況を考えれば、どう考えても週末に仕事をするべきだ」と告げる理性の声を無視して、週末は二日とも休む(勝った!)。

現代では、昔とは逆に「理性にどうやって打ち勝つか」というのが実は重要なのかもしれないな。

作文の補助線 [Thoughts]

ちょっと長めの文章を書くとき、ああでもないこうでもないと悩むのではなくて、書こうとすることに直接関係ないことまで含めて、頭に浮かんだことを全部書いてしまってそのうちに勢いで何かいいものが出てくることを期待する、というのが実はいちばん楽だ。

書いたことの大半は消してしまうとしても、消してしまった部分は最後に残った内容の「補助線」のような役割を果たしている。

これは昔、木村泉著「ワープロ作文技術」という本で、書き下ろしのテクニックのひとつとして紹介していた話。

ワープロは、どんなことを打ち込んでも平気である。腹の立つこと、明らかに自分の偏見なのだが、どうしても口に出してみたくてたまらないことなど、そのまま打ってしまってもワープロが爆発することはない。もちろん人に見られては困るが、あとで編集して消しておくことさえ怠らなければ、物議をかもす原因になることはあり得ない。
そこで、当たり触ることをかまわず打ち込んでしまって、そうすることによって文章書きに勢いをつける、という手がある。打つだけ打ってあとで読みなおしてみると、たいていの場合気が納まっていて不当なことは不当に見えてくる。だからそういう暴言のたぐいは消す。実際、消したくなる。あとには筋道の通った、しかし迫力のある文章が残る。
このやり方は、幾何の証明で補助線を引く、というのとよく似ている。

この本、今はユーズドでしか手に入らないけど、名著です。「ワープロ」という響きには時代を感じるけど、内容は今読んでも充分に通用する。

この本が出た1993年当時と違って、パソコンを使うことを疑う人は誰もいないけど、パソコンで文章を書くときの考え方って、実は今でもあんまり理解されていない。

この補助線の話にしても、似たようなことを無意識にはやってるかもしれないけど、意識してやればすごく効果的だし、アウトラインの正しい使い方もそう。

逆に見た目はキーボードを打っていても、頭の中身は手書きのままのケースって、けっこうたくさんある。

「ワードより文字が自由に配置できるから」という理由でエクセルをワープロ代わりに使うなんていうのはその最たるものだし、長くて複雑な報告書をパワポで作ってしまうなんていうのもそう。

そういうことで殺されてしまっているものがどれだけ大きいか。その社会的損失って、計り知れない。


ところで、前回の「仕事の補助線」の話もそうだけど、補助線=「後から消すことを前提に、無駄なことを意識的にする」ことで楽になったりうまくできるようになることって、他にもあるような気がする。

仕事の補助線 [Diary]

社内の古い人(そしてエライ人)が、かつて第一線で働いていた頃の話。

「アイデアはオフィスにいるときに出てくるとは限らない。アイデアがほしいとき、私は外を歩き回ることにしていた。歩き回っていると、いろんなアイデアが浮かぶ。途中で喫茶店に入って考えをまとめ、オフィスに戻ってから企画書なり提案書なり報告書なりを書く。」

それは、全面的に正しくて、まさに家で仕事をしていたときの自分がよくやっていたことだ。

スタバで仕事をして、煮詰まると外を歩き、またスタバに入って仕事をする(初期の頃は主にドトールで、後半はスタバになった)。今でも本業以外、というか会社の仕事以外に何かをするときには、自然にそうやっている。

で、その古い人自身の推奨する方法が現実には実践不可能で、逆に何時から何時まで何の仕事をしていたのか管理する、なんていう正反対なことが行われているのだけど、それはまた別の話。



「頭のすみの方でぼんやり仕事のことを考えつつ(これ重要)している仕事以外のこと」というのが、たぶんこの種の仕事のためにはすごく重要なんだと思う。

今日明日の仕事に直接関連すること(午後のプレゼンの資料を[必死に]朝つくるとか、明日提出する報告書を[必死に]今日作る、とか)ばっかりしてると、絶対に煮詰まるし消耗する。それでも無理に続けていると、自分の中身がだんだんとやせ細っていく。

「仕事のことをぼんやり考えながらしている仕事以外のこと」って、たぶん幾何の証明問題で「補助線」を引くみたいなことかもしれない。

証明ができてしまえば補助線は消されてしまうけど、それがあるのとないのとでは大きな違いが出る。

そういうものの必要性って、こういう仕事をしてきた人なら絶対に感覚としてわかってるはずなんだけどな。



そしてもう一つ、補助線を引き終わったら、今度は一切の会話も電話も遮断して集中できる、というのも大事。それもまた、喫茶店やカフェなんだよね。