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断片が収束して密度を上げていく [アウトライナー]

レオの「フォーカス」の訳のために、Scrivenerというソフトを使ってます。

Scrivenerは長文を書くための統合環境(プログラマーにとってのIDEみたいなものですね)みたいなソフトで、長文を時間をかけて書いていくようなときに、パートごとに分かれた細かいファイルが大量にあって、しかも個々にバージョン管理したい、なんてときに便利です。

これで「フォーカス」の作業はずいぶん楽になりました。

で、年末から年始にかけてずっと「フォーカス」をやってたんで、切り替えるのが面倒なこともあって、ブログの方もScrivenerのエディタで書いてたわけです。

そうしたらTomo.さんに「最近書くものの密度が薄くなってる」と言われた。実際その通りで、読んでくださってる方にはそんなにわからないかもしれないけど、自分の中では違いははっきりしています。

そしてそれは明らかにアウトライナー(OPAL)を使ってないからなのです。

Scrivenerにも「アウトライナー」と称する機能があるけど、ぼくの思う本物のアウトライナーの機能ではありません。Scrivenerの基本的な発想は、大量のテキストファイルをプロジェクトとして統合して扱うというもので、ファイルより細かい単位で文章を操作することは考えていません(ファイルはいくら細かくてもいい)。

だから、特にブログのような短文は、プレーンなテキストファイルに書いていくのと感覚的には同じなのです。

で、フォーカスが一段落した先週くらいから、また久しぶりにOPALに戻ってみたら、違いは歴然でした。

OPALを使っていると、細かい断片が収束して密度を上げていくのがはっきりわかります。ロジカルでない文章にもアウトライナーが威力を発揮する理由は、アウトラインを組み立てるというよりも、この断片を収束させていく特性にあるのかもしれない。

これはアウトライナーフリークとしては、考える価値のある問題です。



でも、アウトライナーの機能以外では、Scrivenerは本当によくできてます。計画的に長文を書く人にはお勧めです。Scrivenerについては、いずれきちんと紹介するかもしれません。

信頼2.0 [Thoughts]

ここのところ、信頼と信用の違いについてよく考える。信用できる人はたくさんいるけど、信頼できる人はそんなにいないな、と思ったことから。

辞書的な違いとは別に、自分の中で勝手に決めた基準。

「信用」とはその人の言うことが確実であると信じられるということ。たとえばその人が何か約束してくれたらきっと約束通りにしてくれるだろう(少なくともその方向で努力してくれるだろう)という前提でいられるということ。

「信頼」というのはもっとずっと大きなもの。言葉にするのは難しいけど、ぼくが思う信頼というのは、その人の言葉と心が一致していると感じられること。その人の言っていること・やっていることは、その人が実際に考えていることだという感覚。もっとはっきり言うと、その人が自分に向けた言葉は、実際に自分に向けられたものだという感覚。

世の中には、人と言葉を交わしていながら、その言葉は実際には相手以外の別の人間の目を意識しているという場合が多々ある。

いちばん単純な例。

あなたを含む5人の集団がいる。そこに外国人がやってきて道をたずねる。あなたは道を説明する。そのちょっと緊張した場を和ませようとしてあなたは何かギャグを言う。そのギャグが、仲間内5人にしか通じないものだった場合、ぼくはあなたを信用はするかもしれないけと、信頼はしない。

あなたは外国人に道を説明しながら、今現在道を説明している外国人(=集団の外)ではなく、集団の内側だけを意識している。外国人に向けて話をしながら、あなたの言葉は別の人間の目を意識して発せられている。

これはすごく限定された例に見えるかもしれないけど、世の中の集団の中で発せられる言葉の多くが、実は見た目上の相手ではなく、自分の属する集団に対するプレゼンテーションに過ぎない。特に相手が集団の外の人間であった場合はそうだ。

じゃあ、自分はどうなのかって?

自分ももちろん、「内側に向けたプレゼンテーション」から自由ではない。きっと、そうしてしまっている瞬間はある。たぶん、それは人間の本能だから。でも、そこから自由になりたいと心から思うし、自由になろうとしている。

ちなみに、信用している人がもし嘘をついた場合、ぼくはその人を信用しなくなるだろう。でも、信頼してる人が嘘をついたとしても、腹は立てるかもしれないけど、きっと信頼はし続けるだろうと思う。

そういう感じ。
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あなたの謎 [Thoughts]

あなたは自分自身について、長年抱えている謎がある。

なぜ簡単にできるはずの(そしてできると感じる)ことができないのか?
なぜ、人にはできないようなことができるのに、誰にでも簡単にできることができないのか?
なぜ人と同じように振る舞うことができないのか?

いまさら理解してどうなるというものでもないけど、できることなら知りたい。知って、それが何なのか、どういうことなのか納得したいと思っている。



昔から、授業の内容や教師の言っている内容が理解できないことがあった。わからないならわからないと言えばいいのだが、問題は「わかった」と思ったことの理解が実は全く違っていたということが度々あることだった。

大人の読むような難しい専門書を読んでいるにも関わらず、試験問題や先生の言葉の文意が理解できないことがしばしばあった。子どもの頃のことに限らず、そのことは大人になってもあなたを悩ませ続けている。

たとえばあなたは運転免許を取るときに学科試験で落ちて、一度免許を取り損ねている。そのときも、質問の意図がよく理解できなかった。

しかし、そのことを周囲に話すと、不思議なことに「どうしてわからないの?」と言われるのだ。



親も教師もどうしたらあなたに「やる気」を出させることができるのかに腐心しているようだった。

あなたは自分が劣等生であることを自覚はしていたけれど、信じることはできなかった。自分が勉強嫌いであるとは、あなたにはどうしても思えなかった。

昔から図書館が大好きだったし、小学生の頃から、興味のある内容の本であれば、大人向けの専門書だって読んでいた。

それでも授業の内容を理解することができなかった。教科書を読んでも参考書を読んでもまったく頭に入らなかった。

教師や親は集中力に問題がある、もっと集中しろという。

しかし、あなたにとって10分以上机の前に座っていることは不可能だった。理由はわからないけど、ただ座っていることができなかった。そこに座って勉強をしたいと願っても、座っていることができなかった。

あなたは自分が集中したときの状態を知っていた。自分にスイッチが入ったとき、どこまで深く入っていくことができるか知っていた。あるいは、自分がどれほどしつこくて粘り強いか、知っていた。

でも、それは外の世界の人にとっては存在しないのと同じだった。



結局、あなたは違う方法を開発する必要があった。人と同じアプローチでできないことには、違うアプローチが必要だった。

あるとき、好きな音楽を聴きながらなら机の前に座っていられることに気づいた。座っていられるだけでなくて、いくらでも参考書を開いていられた。

読んで理解できないことは、書けば理解できるということにも気がついた。音楽を聴きながら、教科書や参考書に書いていることを一字一句鉛筆で書き写すと、面白いように頭に残った。

やたらと時間はかかるけど、あなたにとって興味のないことを頭に刻み込む方法は、それ以外にはなかった。



「集中できるように」彼らがあなたから音楽を取り上げようとしたとき、彼らはあなたの「暴力性」に驚いた。



同じ頃、あなたは集団の中で人と同じように振る舞うことができないという傾向に対応したプレゼンテーション能力を身につけていった。

「自分はそういう人間なんだ」と強く意識し、人と違う面を敢えて強調するようにした。人と同じように振る舞えないのではなく、振る舞わないのだと認識し、そのように行動した。

人と違っていることを楽しみ、敢えて周囲から浮くように行動し、浮くことを楽しむようにした。同時にそのことを強くアピールした。そしてだんだんと(少なくとも表面上は)本当にそのようなタイプの人間に変化していった。

あなた自身も、周囲の人も、それがあなたの個性であると認識するようになった。

そのロールモデルになったのが「三年奇面組」だった。中学生から高校生にかけてのある時期にあなたを救ったのは、間違いなく「三年奇面組」だった。



あなたにとってのその問題の切実さを理解していた人は、あなたの身内も含めてほとんど誰もいない。

大人になるにつれて、あなたはより洗練されたプレゼンテーション能力を身に付け、敢えて奇異な行動を取るようなことはなくなった。

そしてこの問題に関してどれほど苦しみ、傷つき、孤独を味わってきたか、あなた自身にももうわからなくなってしまっているところがある。

でも今でも問題はちゃんとそこにあって、落とし穴みたいにあなたを待ち受けていることをあなたは知っている。



でも、もしそのことに何か理由があるのなら、それを知りたいとあなたは思っている。知って今さらどうなるものではないけど、何か原因があって、それはその結果なのだと納得することができれば何か変わるかもしれない、とあなたは考えている。



たとえ納得することができても、あなたはきっと、そこから一生逃れることはできない。



あなたがあなたであることから逃れることはできない。



それでも。
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最後のテレビ [Diary]

もう何年も前からテレビが壊れかかっていて、緑色が正しく出ずに美しい森の風景も、なんか茶色い草原も色的には区別がつかない。

もちろん地デジ対応なんかしていないから上下黒帯表示。もちろん薄型なんかじゃなくて奥行き80センチくらい(体感)ある。

地デジ化も迫っている中でいいかげんに考えないといけないんだけど、なにしろテレビをあんまり見ないので切迫感がないというか、どうして決まった時間に決まった番組しか見られない不便な機械をわざわざ買わなくちゃならないのか? とか。
(うちにはもちろんHDレコーダーもない)

とはいえ、スポーツ中継とかはみるので、おそらく近いうちにテレビを買い換えることになると思うけど、モチベーションが上がらない。

だってテレビ見ないしー。

なんて言っていてはいけない職業なのだけど、もうこれだけ時間がない中で、テレビを見ることに使っても惜しくない時間というのが本当にないから。というより、人生の時間を使っても惜しくない番組やってくれないから。

そういえば、その前のテレビ(Tomo.さんが学生時代から使っていたもの)も壊れかかってまともに音が出ないままずいぶん長いこと使ってたのだった。

そのときもテレビあんまり見ないからいいや、と思って放置してあったのだけど、10年ちかく前のある日、たまたまテレビをつけたらニューヨークのWTCビルから煙が上がる様子がアップで映っていて、いったい何が起こったのかわからないまま、ただ何か尋常ではない事態が進行しているということだけは伝わってきて、すごく不安な気持ちになってあわててテレビを買い換えてしまったのだった。

いずれにしても、次に買うテレビが最後のテレビになるような気がする。だってテレビ見ないしー。
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闘う価値のないことと大人たち [Thoughts]

小学校から中学校にかけて、おそらく「登校拒否」というものに分類される子どもでした。出席日数が少なすぎて、高校進学さえ危ぶまれたし。

そのきっかけのひとつが(あくまでもひとつだけど)小学校の給食の時間でした。

小学校五年生で日本に帰ってきて、地元の小学校に編入したときにいちばん戸惑ったことのひとつが給食。そのクラスでは、給食は班に分かれて食べることになっていて、それは別にいいんだけど、問題は「いちばん最後に食べ終わった子のいる班が給食の後片付けをする」というルールがあったことです。

今でこそ見た目の印象よりよく食べるみたいだし(ときどき驚かれる)、好き嫌いも全く無いし(除・ウニ&かにみそ&塩辛)、食べるのもそんなに遅くはない。でも、競争にさらされない一人っ子の特徴かもしれないけど、子どもの頃は人よりずいぶん食べるのが遅かった。クラスで一、二を争うくらい。

つまりぼくの班は二日に一回くらいの割合で後片付け当番になってしまうわけです。

食べるのが遅いという自覚はそのときまで全くなかったのだけど(日本に帰ってくるまで、そのことが問題になったことなど一度もなかった)、どうもそのことで自分が人様に迷惑をかけてるらしい。人に迷惑をかけたらいけないよね。

ということで、ずいぶん努力して食器を手に持ってかき込み、あんまりよく噛まないで飲み込むようにがんばったし、そのおかげで、だいたいクラスで最後から二番目には食べ終われるようになり、Aさんというぼくよりもっと食べるのが遅い女の子がいる班が主に片付けをするようになりました。

よかったよかった。やっぱり努力は大切だね。ということなんだろうか。

でも今にして思えば、そもそも食べるのが遅いことは悪いことなのか? むしろゆっくりとよく噛んで食べることの方が良いことなのではないか? 当たり前だけど。

そのルールに担任の先生がどの程度介在していたのかわからないけど(もしかしたら子どもが勝手に作ったルールかもしれない。ガキの考えそうなことだ)、少なくとも先生がこのシステムの存在を認知していたことは確かです。なぜならもう一人食べるのが遅いAさんと争って、先生に「アウト」を宣告されたことがあるから。

今でもそのときの夢を見ることがあります。その種の不合理かつ理不尽な決まり事にまつわる問題はたくさんあったけど、自分の中では「給食」がその象徴のようになってるのかもしれない。



で、何が言いたいのかというと、その学校や先生を糾弾しようということではありません。

言いたいのは、そのとき味わってた給食時間の苦痛は、そしてそれに類する学校という場所にともなう苦痛は、あんまり意味のあるものではなかったということです。

あるいは努力して克服するに値しないものだということ。
そのとき思っていたほど重大な問題ではなかったということ。
戦って勝利を勝ち取るような価値もないこと。
そんなものに打ち勝っても意味なんかないこと。
問題には戦う価値のあるものとそうではないものがあり、これは価値のない方のものだということ。

子どもながらに、無意識ではあるけどそんな認識を持っていたと思うし、だからこそそこから離脱することに何の迷いも負い目も感じなかった。

どうしても耐えられなければ学校を休んだし、それが逃げ出すことだとも卑怯なことだとも思わなかった。もしそうできなかったとしたら、子どもの頃の自分はもっとずっとひどいことになっていたに違いない。

両親はたぶん、すごく困ったと思うけど(ごめんよ)。



少し前に小学生の自殺についてのニュースがあって、そこに給食とか班とか、そういう物事が関わってることを知ったとき、自分がほとんど自動的に反応してしまったのは、そのせいです(このエントリはそのとき書きかけて書ききれず、放棄したものです)。

子どもといえども人が死を選ぶ理由なんてひと言で言い表せるものではないし、理解できるものでもない。

でも、今目の前にあるその世界が狭いこと。それが全てではないこと。人生の素晴らしいこととか素敵なこととかそういうものの多くが、これから先にやってくること。それは今見えている、それが全てに思えるような狭い世界の外側にあること。それはこれからやってくること。そういうことを教えてくれる、あるいは感じさせてくれる大人がいれば、と思う。

たぶんぼくはそのことを知っていたし、それはそれまでに会ってきた大人達のおかげなんだから。
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言葉クレンジング [Thoughts]

戦略的に考えない。
空気を読まない。
行間を読まない。
察してあげない。
頭を使わない。
言葉通りに受け取る。
察してくれることを期待しない。
他人の会話を気にかけない。
理由を説明しない。
背景を説明しない。
言い切る。
断定する。
遠回しに言わない。
受けようとしない。
そつなくこなさない。
まとめようとしない。
仕切ろうとしない。
ごまかさない。
心をこめる。
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人生? [Diary]

「不可」でないところに希望あり。
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ちゃんと生きてる人なら想像してくれる [Thoughts]

たぶん世の中には報われない努力というものがあって、その代表的なものは自分の大変さを他人に理解してもらおうとすることだ。

誓ってもいいけど、自分の大変さを他人は理解していない。そして、これも誓っていいけど、他人の大変さを自分は理解していない。

理解してもらおうとしなくても、ちゃんと生きている人なら想像してくれる。

大人なら、とても輝いていたり魅力的に見える人が内側に地獄を抱えていたりすることを知ってるはずだし、地獄を抱えながら微笑むことがどれほど大変でどれほど魅力的か知っているはずだし、自分の抱えている最大の地獄は言葉になんかできないことを知っているはずだ。

知らない人は、大人なんかやめちゃおう。

ということで「○○は○○だからいいわよねー、私なんか○○(以下略)」みたいなことを言われたら、黙って微笑んでいるような大人になりたい。

なれるかな。なれたらいいな。
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