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Happy? [Diary]

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やらないよりやる方が価値がある [Diary]

和太鼓グループ「冬のどどんが団」が毎年恒例にしている鶴間公園での「お花見二コンサート」。

こんな時期だから、やるべきかやめるべきかずいぶん悩んだみたいだけど、結果的に予定通りやることに決まったと。

偉い。賛成。

この時期に演奏することで、明らかに何か悪影響があるというなら仕方ない。

たとえば計画停電が予定されていて、交通機関の運休もあるかもしれないとわかってる日に、巨大アリーナに万単位の人を集めてムービングライトとPAシステム使いまくってコンサートをやると言われたら、それはちょっとどうかと思う。

でも昼間の公園で太鼓を叩くことが、何かに悪影響を及ぼすとは思えない。冬のどどんが団を見に万単位の人が集まるとも思えない。ならば、何も遠慮することなんかない。

非難する人がいる可能性はあるけど、何かやっている人、何かを創ろうとしている人を合理的な理由もなく非難する人は、かけてもいいけど自分自身では何もやってない、何も創り出していない人だ。

そういう人よりぼくは冬のどどんが団が好きだし、応援する。

そして、合理性のないプレッシャーで活動を制限されている、数々のミュージシャンや舞台人の人たちも。

どんなときでも、何かを〈やらない〉ことより〈やる〉ことの方が価値があるんだから。

冬のどどんが団「お花見二コンサート」
4月3日(日) 13:30〜14:15 @鶴間公園さわやか広場

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わからなくなったときのアウトライナー [アウトライナー]

たとえば、ここのところ頭に浮かぶことがあまりにも多すぎたり、いろんな人がいろんなことを言いすぎたり、想像を超えたことが起こりすぎたり、知らなかったことが多すぎたり、その全部だったりして頭の収拾がつかないとき。

もしアウトライナーを持っていたら頭の中で無理に整理しようとせず、アウトライナーに片っ端から打ち込んでいく。

どんな細かいことも、具体的なことも、抽象的なことも、ポジティブなことも、ネガティブなことも、事実も、憶測も人の意見も、自分の思いも、ぜんぶ書き出す。

頭の中のことを全部外に出すだけで、ずいぶん気持ちがすっきりする。

これ以上出なくなるまで書き出したら、書いたことを眺めて、似たものや関係のあるものがあったら、隣り合うように並べ替える。

繰り返していくうちに、いくつかの固まりができてくる。固まりを眺めているうちに新しく思いついたり思い出したりすることもあるから、それも書き出して関係のありそうなところに並べておく。

固まりごとに、この固まりはつまりひと言でいうとどういうことか、一行で言い切る見出しをつけてみる。

うまく見出しがつけられたら、内容の部分はアウトラインレベルを下げて、見出しの下に入れておく。

どうしても整理できないものは、「未整理」と書いた見出しを立ててその下に入れておく。

最初はどこにも整理できないと思っていたものも、「固まり」に見出しをつけたり新たに思いついたことを書き足したりしているうちに「仲間」が見つかることがある(もちろんそこに移動しておく)。

書き出したことが全て見出しの下に整理されたら、アウトラインを折りたたんで、見出し部分だけが画面に残るようにする。

これで、今自分が考えていることが一目で見渡せる。うまくいくと、びっくりするほど頭がすっきりする。

ワードのアウトラインモードでも充分できるので、試してみてください。


これは、文章を書こうとして何を書けばいいのかわからないときのアウトライナーの使い方を応用したもの。
アウトライナーについてもっと知りたい方は、Renji Talkのアウトライナー関連コンテンツへ!

深呼吸する [レオ・バボータ関連]

原文:Leo Babauta "Breathe." from Zen Habits
この記事は、レオ・バボータ氏がブログ「Zen Habits」でUncopyrighted(コピーライトなし)として公開されている記事の日本語訳です。原文同様、この日本語訳もUncopyrighted(コピーライトなし)とします。
レオ・バボータ氏の著作「Focus」フリー版の全文訳をこちらで公開しています。


深呼吸することで、人生を変えることができる。

ストレスにまみれて押しつぶされそうになったら、深呼吸しよう。心を落ち着け、テンションを和らげてくれる。

将来の何かについて気に病んだり、既に起こったことが頭を離れないのなら、深呼吸しよう。今、この瞬間にあなたを連れ戻してくれる。

自信を失い、生きる目的がわからなくなっているなら、深呼吸しよう。人生がいかに貴重か、そして今生きて呼吸している、その一回一回が感謝するべき贈り物だということを思い出させてくれる。贈り物を無駄にしないようにしよう。

あまりにも多くのタスクを抱えているなら、あるいは一日中心が散漫なまま仕事をしているなら、深呼吸しよう。今もっとも大切な仕事にフォーカスし、集中することを助けてくれる。

誰か大切な人と時間を過ごしているなら、深呼吸しよう。仕事やその他のやるべきことについて考えるのをやめて、その人とともにいられるようにしてくれる。

エクササイズをしているなら、深呼吸しよう。エクササイズを楽しみ、より長くエクササイズを続けれるようにしてくれる。

あまりにも早く動きすぎていると感じたら、深呼吸しよう。スローダウンし、もっと人生を楽しむことを思い出させてくれる。

だから深呼吸しよう。そして、人生の一瞬一瞬を楽しもう。無駄にするには、それはあまりにもはかなく、短すぎる。

Tips:「深呼吸する」という言葉を、スクリーンセーバーやデスクトップの壁紙にしよう。あるいは、壁や冷蔵庫や机の前に貼っておこう。そして、目にするたびに実行しよう。
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お気に入りのお店たちは元気だった [Diary]

この間、いつもならお昼に5分でも出遅れると入れないお店に同僚とランチに行ったら、ほとんどお客がいなかったことにショックを受けた(正確にいうと、カウンターに居座って大将と延々放射能の話をしていたおじさんがいたけど。最近どこに行ってもこういう人がいる)。

そんなわけで、気に入っている(絶対になくなってほしくない)個人経営のお店たちが心配になって、ここのところ順番に巡っている。

地元のとんかつ「つかさ」(with妻)
学芸大学のイタリアン「バルケッタ」(with妻)
馬車道のビストロ「ボンファム」(with妻)
白楽のカフェ「DouDou」(with妻)
西小山の洋食「杉山亭」(with 同僚兼オムライス友の会)

共通点はいずれも個人経営または夫婦経営で、求めているものを裏切られることがなくて、リーズナブル(いくつかはリーズナブルというより破格値)なお店。

結果的には、みんないつも通り繁盛していて、地震でお皿が落ちるとかの被害もなくシェフやマスターやおやじさんも元気そうで、心配は杞憂だったみたい。

この分なら、まだ行っていない馬車道の「カフェレジェンド」も、鎌倉の「ヴィヴモンディモンシュ」と「なると屋+典座」もきっと大丈夫な気がする。

それでも、いろいろ話を聞くと全てのお店がそうではないらしい。もともとの客層とか、その地域の計画停電の状況とか、最寄りの鉄道の運行状況とかにもよるんだろうけど。

もちろん被災地ではたくさんのお店が被害を受けて、お店自体が無くなったり、あっても営業を続けられなくなっているはず。

だからこそ、被災したわけでもないのに「なんとなくお客さんが来ない」という理由で、長く個人でがんばってきたお店がやっていけなくなるようなことがあったら悲しい。

ただでさえ、居心地がよくて美味しくてリーズナブルな個人経営のお店がどんどん貴重になってるのに。
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健全な欲望をベースにした生活 [Thoughts]

もう「元の生活」に戻ることはできないというのはたぶん間違いなくて、そういうとなんだかネガティブな響きだけど、「元の生活」がいいのかというとそんなことはない。

「元の生活」は明らかに何かが間違っている。じゃあ、どんな生活がいいんだろうというとき「健全な欲望をベースにした生活」なんじゃないかという気がする。

欲望っていうのは本来人が生きていくためのモチベーションを作り出す機能だから、我慢したり制限しようとすると必ず破綻する。欲望を抱いて、それを満たすことは生きるために絶対に必要。

だけど、欲望が誰かの都合で不自然に形に増幅され、増幅された欲望を満たすためのシステムが作られ、そのシステムを支えるための需要が生まれ、という結果生まれたのが「元の生活」だとすれば、問題は欲望の形とスケール。

必要なのは、本来ちょうどいい形とスケールの欲望=健全な欲望を満たすことをモチベーションにする生活だと思う。

たとえばそれは、自分たちにとって美味しいものをつくって食べることと、個人のプロが丁寧に作った美味しいものを、真っ当な額のお金を払って食べること(=健全な食欲)。

あるいは自分に見合った質の良いものだけを少しだけ持つこと。持っているもので満足すること。逆に満足できないものは持たないこと(健全な物欲・所有欲)。

増幅されたイメージを消費するのではなく、生身の人間との関わりと個人スケールの想像力をベースに、時には満たされずに悶々としたりすること(健全な性欲)。

お金や持ち物や地位ではなく、自分が創ったものや仕事の内容そのものを評価されることで得られる名誉を求めること(健全な名誉欲)。

業務や資格取得のために必要な知識ではなくて、知りたいから調べる、読みたいから読むことで身につく知識(健全な知識欲)。

そして、生活を維持するための働き方そのものが、健全な欲望を満たす行為と矛盾せず、できれば直接結びついていることが理想。

それがどのくらい難しいかはよくわかってるけど、そういう生活、そういう働き方を作っていくことが、今いちばん必要なことじゃないかという気がする。

具体的には、ひとりひとりが自分の個人スケールの欲望を知り、自分の人生の時間と他人の人生の時間をリスペクトすること。

そして「価格は安ければ安いほどいい」主義とか、「ビジネスモデル」と称する詐欺とか、浅はかで薄っぺらい「コンセプト」と称するものと巨大なお金が結びついた再開発とか、不健全な欲望を追認することにしかならない「マーケティング」と称するものとか、人間には不可能なことを要求する「お客様第一主義」とか、そんなものはもういらないとみんなが思うこと。

(マーケティングに関わる仕事をしている人間としてあるまじきことを書いてるかもしれないけど、本当のマーケティングは個人スケールの「生活」に密着したもののはずだと思う)

それは、残業100時間・睡眠4時間未満の生活が自分にとっても家族にとっても限界になる中で、地震とも原発とも関係なく、ここのところずっと考えてきたことと、結果的には重なっている。

言葉は違っても同じようなことを考えて、同じようなことを目指している人はきっとたくさんいるはず。

まだまだ、抽象的です。実行しながら考え続けます。
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ほとんど全てのことを信じている [Thoughts]

帰りの電車の中で、40代くらいの会社員の2人組が「もう信じられることなんか何もないな」と延々言い合っていた。

確かにちょっと前までは、
会社がちゃんと給料を支払えばそれはきちんと口座に振り込まれているものだと信じていた(けど裏切られた)。
料金さえ払えば電気はいくら使っても大丈夫だと信じていた(けど裏切られた)。
水道水に放射性物質は含まれていないと信じていた(けど裏切られた)。
ある日街とその生活全体が波に飲み込まれて消えてしまうことなんてないと信じていた(けど裏切られた)。

でもきっとあなたは今でも、
銀行のせいで給料が振り込まれていなくても、誰かが責任を持ってなんとかしてくれると信じている。
明日勤めている会社が重大な不祥事を起こして、あなたが責任の矢面に立たされることなどないと信じている。
今、前に立ってる酔っぱらいが膝に上にゲロを吐かないことを信じている。
この電車が30分後には無事に目的地の駅に着くことを信じている。
駅からしばらく歩けばそこにはちゃんと家があることを信じている。
途中の赤信号でクルマは止まってくれることを信じている。
前から歩いてくる男にすれ違いざまに刺されないことを信じている。
去年の11月にしたセックスが人生最後のセックスではないと信じている。
明日も明後日も人生は続くと信じている。

そういう意味では、生きているということはほとんど全てのことを信じているということだ。

ほんとうに信じられることが何もなければ、あなたはきっと恐怖のあまりそこから一歩も動けない。
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健全な欲望 [Thoughts]

もうちょっとで彼氏ができそうになってる女の子がいて、その子が浮かれまくったエロツイートばっかりしてるというような類の健全さが、今やとても好ましい。

経済を回すとかじゃなくて、今必要なものは健全な欲望です。

具体的には、五感で感じられる食欲、メディアを介さない物欲、手で触れられる性欲、必要性と必然性のない知識欲です。

ちなみに不健全な欲望とは、ビジネスモデルと企画書とマスメディアと大手デベロッパーによって不自然な形に増幅されることを前提に成立する欲望のことです。
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自分のことをする [Thoughts]

去年あたりから「時間を無駄にできない」という感覚がすごく強くて、なんだか時間のことばかり考えてるような気がしてたんだけど、今にして思えば何かの予感だったのか、単に自分の年齢のせいなのか。

「時間は無限ではない」と感じさせられる出来事が立て続けに起きたせいもあるけど、根本的には「本当に大切な(はずの)ことに時間が使えてない」という感覚があるから。それはもちろん「大切でないことに時間を使ってしまっている」という感覚の裏返しでもある。

一回一回の食事につまんないものを食べてしまったり、テレビを見て何かに文句を言いながら過ごしたり、ツイッターのTLを流れていくどうでもいいような意見にいちいち神経をかき乱されてみたり、話したくもない人間と調子を合わせて必要もない話をして過ごしたり、何のためにしてるのか目的のよくわからない仕事をしながら時間を過ごしたり。

そういう、後から振り返ってみても自分の中に何も残っていないような時間が、生活の多くを占めてしまっているという焦りみたいな感覚。

社会の中で普通に生きていれば、そういうのはある程度避けられないことだけど、でもそういう一つ一つが、生きているということに対するリスペクトを欠いた行為だという気がする。だから少しでも減らしていきたいと思う。

口で言うほど簡単なことじゃけど、それでも以前とは時間の使い方がずいぶん変わってきている。少しずつだけど。

で、地震が起きて強く感じたのは、その自分の感覚が間違ってないんだということ。

経験したことのないような災害に対して「何かする」ことももちろん大事だけど、それ以前に、みんなが自分の人生の時間を大切にして「自分のことをする」ことが大事だという気がする。

そうやって日々「自分のこと」をしながら、被災した人々、亡くなった人々のことを思い、被災地で救助や復興のために活動している人々のことを思い、原発で戦う東電や消防や自衛隊の人々のことを思う中で、「何かする」ことが見えてくるはず。

それが生きてて、こうして生活できる人間のするべきことなんじゃないかと。
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行動基準 [Thoughts]

周囲を観察する
感じ取る
小さく助ける
怒らない
捨てる
今を生きる
何かを創る
何かを着実に進める
笑う
一喜一憂しない
感謝する
一緒にいる