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境目の時間 [Diary]

「誰もがその瞬間にどこで何をしていたかを思い出せる出来事」の例として、アメリカではよくスペースシャトル「チャレンジャー」の爆発事故があげられる。

その種の出来事というのはいくつかあって、もちろん9.11同時多発テロとか、ケネディー暗殺とかもそう。

日本だったら、ぼくの世代だと阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件。もっと上の世代なら浅間山荘事件とか三島事件とか。

今回の地震もたぶんそうした出来事のひとつになっていくんだろう。被災した方にとってはもちろん、そうでない人もその瞬間どこで何をしていたかははっきり覚えてるし、忘れることもない。

ちなみにぼくはその日は体調を崩して仕事を休んでいて、地震が起きたときは病院の待合室で検査結果待ちをしていた。

待合室は混んでいて、白髪のおばあさんの隣にひとり分だけ開いている席をやって見つけてやっと座り(すごくお腹が痛かった)、

おばあさんが荷物をどけてくれて、
ぼくはちょっと会釈し、
しばらく座っているうちに、
なんだか頭が揺れているような気がしてきて、
てっきり自分の具合が悪いせいだと思っているうちに
人々が口々に「地震だ」と言い始め、
おばあさんと顔を見合わせて、
「地震ですねー」なんて言ってるうちに
揺れはおさまるどころかどんどん強く大きくなり、
事務室のファイルが床に落ち、
病院のあちこちで悲鳴が上がり、
人々が外に飛び出し、
家にいたTomo.さんから電話がかかり、
話しながらぼくも外に出て、
地面が波打つように揺れ続けていて、
それからようやく揺れがおさまってきて、
人々は三々五々待合室に戻り、
やがて名前が呼ばれて、
検査結果を告げられ(急性腸炎)、
会計をして、
病院のそばの調剤薬局に薬を受け取りにいき、
薬局の待合室にあったテレビで
最初の津波の映像を見て、
これはただごとじゃないと思いながら
苦労してタクシーを拾って
家に帰った。

この間約1時間。そのプロセスのほとんど全てを思い出すことができる。

そのプロセスの中のどこかに、多くの人たちにとってのこれから過ごすはずの時間、過ごしてきた時間の意味が、想像もつかないくらい変化した「境目」の時間があった。

そう思うと、時間というものにこれまで感じたことのないような重さを感じるし、自分はその時間を本当に大切に生きていたかということも考える。

そして、とても月並みではあるけど、本当に大切な意味のあることに時間を使おうと思う。

今日はそれができた? たぶん。感謝してドーナツを食べることも含めてね。
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ON MY WAY HOME [Diary]

以前から何度もここに歌詞の私訳を載せているキース・エマーソンの「ON MY WAY HOME」という曲。

個人的にいろんなことがあったときも、世の中的にいろんなことがあったときも、ふと歌詞を見るとまるでそのことを歌っているように思える。

そんなわけで、三度目の掲載。


On my way home, marching all night, is the light still on?
All through the battle been waiting
On my way home, so much of life left behind, so much ahead unknown

家へと向かう道
一晩中行進を続けた後
まだ明かりはついているか

戦いの間中待ち続けていた
家へと向かう道
残されたあまりに多くのもの
そしてあまりに多くの未来

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これから過ごすはずだった時間 [Diary]

亡くなったたくさんの人たちが、これから過ごすはずだった時間について考える。

それから、その人たちの家族や友人や同僚が、その人たちとこれから過ごすはずだった時間について。

それから、自分が今生きていて、今過ごしている時間、これから過ごすはずの時間について。

それから、妻や両親や友人や同僚が今生きていて、今過ごしている時間、これから過ごすはずの時間について。
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才能と天職 [Thoughts]

Tomo.さんの韓国語の話を人にすると「それを活かさないのはもったいない」と言われる。「活かす」っていうのが何なのか今ひとつわからないけど、たぶん仕事に活かすという意味なんだろう。

もちろん本人にもそれを「活かしたい」という気持ちはあると思うけど、重要なのは「何かに活かす」ことを考えないでやってるからこうなったのだということ。

個人的に「才能=大変な労力と気力と時間を使うはずなのに、放っておいたらついやってしまうこと」と定義している。その意味でいうと、Tomo.さんは間違いなく韓国語の才能がある(決して「語学の」ではないことに注意)。

その意味では、自分の才能がなんなのか、それは自分が「何をやってしまったか」という、その結果をみて初めて判明するものであって、やたらと自己分析してみても決してわからない。一生懸命「自己分析」をして「自己アピール」の訓練をする就活生を責めることはもちろんできないけど。

ちなみにもう一つ。

才能がお金に結びつくときにそれを天職という。天職を探すなら、まず自分が結果的に何をしてしまっているかを考えるべきだ。

大丈夫、ぼくもTomo.さんも、40過ぎてもまだ天職を探し続けている。
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韓国語と私と日本語 [Thoughts]

Tomo.さんのブログ「韓国語と私と日本語」は韓国語と日本語のミックス。タイトルからして当然だけど。

夫が言うのもなんだけど、読み物として面白いので、韓国や韓国語に興味のある方は、読んでみてください。語学ブログはたくさんあるけど、こういう視点で書かれたものはたぶんあんまりないと思う。

Tomo.さんが韓国語を勉強し始めて7年くらいだけど、ごく初期のイロハ段階でNHKのテキストを使った以外、いわゆる「教材」は全く使わず、「教室」にも全く通わず、しかも韓国にも一度も行かず(!)、ほぼYouTubeを見ることと音楽を聴くことと図書館で借りてきた韓国語の本を読んだり書き写したりすることだけでここまで至ったという、とんでもない奴です。

それを見ていて思うのは、教材以外の「音」と「文字」に触れることが格段に簡単になった今の語学学習の環境は、10年前とは全く次元の違うものだということ。

自分にとって興味のある素材だけを使って「浴びるように大量の音を聴く」ことと「浴びるように大量の文字を読む」ことで、意味や文法を学ぶ前にまず頭の中にその言語の回路を形成してしまうようなやり方は、それ以前にはたぶん不可能だった(しかも、パソコンとブロードバンド回線があれば、それ以上の費用はほとんどかからない)。

これってたぶん、自分の経験に照らしてみても、ネイティブが言葉を覚えていくプロセスに近いものだと思う(そのことについてはずいぶん前にRenji Talkの方に書いたことがある)。

しかし、2月は更新しすぎでしょう(笑)。
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フォーカスとワークスペース [レオ・バボータ関連]

翻訳中のレオ・バボータ「フォーカス」より引用(ちょうど今日修正した部分)。
今、人生で最も重要な仕事に取り組んでいると想像してほしい。あなたの人生を変え、世界を少しだけ今より住みよいものに変えさえするかもしれない仕事だ。

あなたはコンピューターに向かっている。電話のベルが鳴り続けるうるさい仕事場の、机も床も壁も不用なもので溢れた場所で。メールの着信通知が画面にポップアップする。あなたはメールソフトを開いて新着メールを確認し、返信を書く。仕事に戻ろうとしたところでまた別の通知が表示される。だれかがあなたをチャットに誘っている。インスタントメッセージングのソフトを開く。今度はツイッターに新しいリプライがあったことを知らせる通知が表示される。それもチェックする。ふと机の上を見ると、整理しなければならない書類がある。そこであなたはファイリングを始める。

しかし、あなたの人生で最も重要な仕事はどうなったのだろう? このような不用物だらけの混乱したワークスペースでは、決して達成することはできないだろう。

ここでまた別のワークスペースについて想像してほしい。机には必要なものが2つだけ置かれている。コンピューターのデスクトップにはアイコンがひとつも表示されていない。周囲の床には何も置かれていないし、壁に貼られているのも最小限必要なものだけだ。環境音楽が周囲のノイズを遮断してくれる(ヘッドフォンを使っているかもしれない)。仕事の邪魔になる着信通知の類は表示しないように設定されている。画面に表示されているのは、あなたの仕事のために今必要なプログラムの、1つのウィンドウだけだ。

その違いは驚くべきものだ。このことは、不要なもののない、邪魔の入らないワークスペースが、フォーカスのためにいかに重要かを示している。

身につまされる人がたくさんいるはず。
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言葉のお墓 [Diary]

10年くらい前、一度も会ったことのない女の子とメールのやり取りをしていた。

彼女がネットで公開していた日記(まだブログなんてものが一般化する前の話)をたまたま読んで、そのとき「体調が悪い」と書いていた彼女の症状に気になるところがあって「ちゃんと病院に行ってください」というメールを出したのがきっかけだったと思う。

一時期かなり頻繁にやり取りするようになったけど(「これほど頻繁にやり取りしても電話番号を教えろとも、会おうとも言ってこない人はめずらしいと言われた)、その時期ぼくは自宅で仕事をしていて、一日中自分のPCの前に座っていたので、メールを出しやすかったんだと思う。

でも、ぼくが今の職場に移った2004年頃を境に、自然に疎遠になっていった。そしてちょうどその頃、以前使っていたPCのハードディスクがクラッシュして、彼女のメールアドレスも、日記のURLもわからなくなってしまった。

何度か彼女の日記を探そうとしたことがあるけど、見つけることができなかった。確かに覚えているキーワードで検索しても見つからないし、タイトルを入れても見つからない。だから、たぶん日記の公開を止めて削除してしまったんだろうと思っていた。

この間偶然、何年かぶりに彼女の日記を見つけた。といっても「生きている」日記ではなくて、それは2004年で止まっていた。

途中までは読んだ記憶があった。読んでいないのは数ヶ月分だけだった。最後に読んでから数ヶ月後に、日記の更新を止めようだった。今はどうしてるのか全くわからない。2004年を境に彼女は消えて、それまでの言葉だけがそこに残っている。

7年前の彼女の心の痛みとともにずっとそこに残っていた言葉に、あるとき行き当たる。ネットって言葉のお墓みたいなところがある。
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降り注ぐ言霊 [Thoughts]

強い立場にあったり、匿名であったりする際に、ごく普通の人々が放ちうる言葉の汚さには、時として本当に驚かされることがあります。

例えどんな立場であろうと、必要以上に汚い言葉、必要以上に攻撃的な言葉は、良い結果を生まないもんです。

道徳的な意味ではなく、極めて現実的かつ物質的な意味で。
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肉体化 [Diary]

当てにしていた派遣さんがみんな忙しくて、大量のグラフを全部自分で作るはめになる。

でも、一つ一つ集計表からグラフをひとつひとつ手作りしていて、久しぶりにちょっと楽しいと思った(笑)。楽しいというより、数値が肉体化されていくような感覚が気持ちいい。

こういう感覚は久しぶりだし、忘れそうになっていた感覚でもある。

会社員になって、そういう単純作業は派遣さんやバイトさんに任せて、社員はアタマを使う仕事をしろ、と言われるけど、家でひとりで仕事してたときにはあらゆることを自分でやってたのだ。

経済原則からすればよくないのかもしれないけど、だとすれば、経済原則ってずいぶん浅いな。というより、経済原則の解釈が浅いのか。

当たり前だけど、大量の手作業を自分でやることでしかわからないことがある。マンダラートの今泉さんが昔本で紹介していた、旧ソ連に音楽留学していた人の話。

「ソビエトの音大の図書館はすごく立派で蔵書もすごいけど、コピーサービスがなかった。というよりコピー機自体がない。学生たちは楽譜や資料から手でノートに書き写している。遅れてるなと思ったけど、考えてみるとそれを10年間も続けたら、身につく実力は大変なものじゃないか」

旧ソ連に限らず、つい30年くらい前までは一般人が自由にコピーなんて取れなかった。その頃まで、人はカードやノートに手で一生懸命ノートを取っていたのだ。そういうのが「勉強」だったし、その頃の「勉強」は、大量に手で書き移すことで肉体化される知識というのが重要な要素だったと思う。

音大生が楽譜を書き写すのは、資料を手元に置くという意味もあったけど、例えば「写経」なんかは、まさに書き写すことで肉体化すること自体を目的にしている。

で、チャイコフスキーや教典とは比べられないけど、大量の集計データをエクセルでひとつひとつ切り出してグラフ化していくという作業、それを通じて数字の意味が身体に刻み込まれるような感覚には、それに近い意味があるんじゃないかと。

合理的ではないけど、少なくとも「社員が時間をかけてそういう単純作業をやるべきじゃない」という発想は、仕事をつまんなくしている。

ていうか、ちゃんとしたグラフをつくる作業は、単純作業じゃないし。
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