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季節 [Diary]

いい天気の土曜日だから、きっと猫たちがひなたぼっこに繰り出してることだろう、という予想のもとに猫がたくさんいるエリアを歩いたけど、獲得ネコポイントは1のみ。それもガレージの車の下。

そうか、このくらいの季節の晴れた日には、もう猫は日なたじゃなくて日陰にいるのね。そうか、そんな季節か……。

セルフ腕まくら。
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初夏の公園で語らうおじいさんとカラス。
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本日のお願いね。 [Diary]

雑な言葉を使わないでね。
気安く感動しないでね。
人を操ろうとしないでね。
心を探ろうとしないでね。
適当に相づちをうたないでね。
ひと言で説明しようとしないでね。
プロフェッショナルとか言わないでね。
スキームとか言わないでね。
当てはめないでね。
耳を傾けてね。
想像してね。
少なくとも試みてね。
繰り返し試みてね。
悲しくても試みてね。
いい夢みてね。
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別のタイプの時間との闘い [Diary]

時間との闘いというというと、時間に追い越されないように走るイメージがあるけど、そうじゃない別のタイプの時間との闘いもある。

長年その人の中に蓄積し、その人を押さえつけ、その人の心を内側から蝕む「時間」というものと対峙して、その巨大な蓄積の重さと深さに、そして自分たちの無力さに圧倒されるみたいな。

時間の蓄積は「少々のことでは崩れない」自信と確信にもつながるし、逆にいかに努力しても自分の力では及ばないという絶望にもつながるのだよね。

「でもそんなのは序の口なんだぜ」

知ってるよ。
♪ラララ……
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静岡で「健全な欲望」を満たす [Diary]

「連休どこか行った?」というのがこの時期のお約束の会話なのだけど。

「えーと、静岡に」
「へえ。何しに?」
「特に何も」
「あ、伊豆とか?」
「いや」
「富士山?」
「いや」
「温泉?」
「いや」
「あ、実家が静岡に?」
「いや」
「じゃあ、何しに?」
「歩行。お茶。本屋」
「……ふーん」
(会話終了)

みたいなやり取りがしばしば発生する(昨日だけで4回くらい同じことを繰り返した)。そうか、部署が変わったということは、またここから始めなきゃならないのね。

昔だったら、めんどくせーから「どこも行かなかった」で済ませてたことを考えれば、説明しようとするようになっただけで進歩ではある(当社比)。



それはそれとして、静岡は相変わらず「いつもと同じことをする」には素敵なところでした。

今回は静岡出身の後輩から「鷹匠」という個人スケールのお店が集まったなかなか素敵なエリアを教えてもらい、駿府城と呉服町通り以外は、基本的にそこを中心にぐるぐるしていた。

それにしても場所が違うだけでやってることは普段と変わらないせいか、家を出ればすぐまた行けそうな錯覚にとらわれる。

後輩おすすめカフェ「ブーケ」@鷹匠。
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cielo azul cafe@鷹匠。コロッケおいしかった。
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箱入り看板猫。
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私的・日本一のスタバ、呉服町通り店
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棚に愛を感じる谷島屋書店呉服町通り本店
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小さくかわいらしくてきびきび走るしずてつ(静岡鉄道)。
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清水港。
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お土産はPUPANの食パンとNotebookで一目惚れしたMUCUの手帳でした。



静岡が好きなのは、大都市でありながら東京や横浜にはない個人スケールのゆったり感と豊かさを感じるところ。だけど、今の時期に行って特に感じるのは、地震への恐怖と常に隣り合わせで生きてる街でもあるということ。

2009年の静岡沖地震で崩れた駿府城の石垣はほとんど修復されていたけど(去年行ったときはまだ崩れたままだった。お城好きとしては嬉しい)、その妙にきれいな修復跡が逆に痛々しい。

そして災害時の危機管理の中枢となるべく作られた、場違いに巨大で威圧的な(要塞化とまで言われた)静岡県庁別館がそれを物語る。上の展望台からは、あの浜岡原発のある御前崎も見える。

そんな光と影もあり。



修復された駿府城の石垣(きれいな部分)。
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「要塞化」された県庁と駿府城。
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平和を願っている静岡の鳩。
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人生の大先輩との長電話 [Diary]

ある人生の大先輩と、深夜に電話で2時間話す。

大先輩からの忠告は、夫婦の関係について。今はまだ若いからいいけど、これからずっと2人でやっていくつもりなら努力を怠ってはいけないということ。いつまでも若い頃と同じつもりで甘えていると歳をとってから必ず後悔するから、と。

でもね、ぼくらはおそらく仲のいい夫婦と思われてるけど、そして実際に仲はいいと思うけど、努力なしで続けられると思ったことは今まで一度もない。そして実際に努力を怠ったことも今まで一度もない。2人ともそうだと思う。努力をしたけど及ばなくて打ちのめされることは数限りなくあっても。

だから逆に人生の大先輩にききたいんだけど、どうして今までそのことに気づかなかったの?
そして、相手が甘えていることを、努力を怠っていることを責めるなら、今からでも努力をすれば?
そしてその種の努力は相手がしてくれるのを待つものではなく、自分から先にするものだよ?
人生の大先輩にこんなことを言うのは失礼かな?

とかとか思ってみたりした後で、今自分が思ったことの若さについて、そして以前は想像もしたことがなかったけど、最近少しだけ想像してみるようになったことについて考える。

老いることとか、気力がなくなることとか、情熱がなくなることとか、気弱になることとか、変わっていくこととか、こんなはずじゃなかったと思うこととかについて。

40代の今になってようやく気づいたことを、20代の人たちにいくら説明しようとしても意味がないように、きっとこれから先、今のぼくらにはまだわからないことが、たくさん待ちうけてるんだろうな。それは、そのときになって若い人にいくら伝えようとしても、きっと理解されないようなことなんだろうな。

そして当たり前だけど、人生の大先輩だって誰にも負けずに努力をしてきたんだろうな。それでも年をとるということは、若い頃には想像もしていなかった形で後悔を強いるんだろうな。人生の大先輩はそのことを伝えようとしてくれてるんだろうな。

そして、最近少しだけ想像してみるようになったことについて、もう少しだけ広く深く想像してみる。

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偽の必要性を手放す [レオ・バボータ関連]

原文:Leo Babauta "letting go of fake needs" from mnmlist
この記事は、Leo Babauta氏がブログ「mnmlist」でUncopyrighted(コピーライトなし)として公開されている記事の日本語訳です。原文同様、この日本語訳もUncopyrighted(コピーライトなし)とします。

人生は様々な必要性に満ちている。その必要性をもう一度よく見つめ直してみるまでは。

どんな必要性があるか、考えてみよう。15分ごとにメールをチェックしたり、受信箱を空にする必要性。購読しているブログを全て読む必要性。あらゆることをきちんと保つ必要性。最先端のファッションで仕事に行く必要性。子どもに常に小言を言い続ける必要性。同僚を思い通りに動かす必要性。打ち合わせしたいという全員と打ち合わせをする必要性。可能な限りお金持ちになる必要性。素敵な車に乗る必要性。

この種の必要性というのはどこから来るのだろう? 全てはでっち上げにすぎない。

必要性が社会によって作られる場合もある。あなたが働く業界が、夜9時まで働くことを、あるいは非の打ち所のないスーツで身を固めることを要求する。あなたが住むエリアには一定の基準があり、完璧に手入れされた芝生と2台のBMWがなければ不当に評価されてしまう。最新のiPhoneを持っていないと真のギークと認められず、持っている人間に嫉妬を感じる。

自分自身で必要性を作り上げている場合もある。私たちはメールやRSSやニュースサイトなショートメッセージやツイッターを常にチェックしたいという衝動にかられる。全てにキャッチアップしないからといって社会的、あるいは仕事上問題にはならなくてもだ。ベッドメークは完璧にしたいと思う。そんなことを気にする人が他に誰もいなくても。人生の、あるいは年間の目標のリストを作り、全てを達成したいと思う。達成しなかったとしても問題になることはほとんどなくても。

この種の偽の必要性は、全て排除することができる。必要なのは、進んで手放すことだけだ。

あなた自身が抱えている偽の必要性を吟味してみよう。そして、それがなぜ必要なのか自問してみよう。それを捨て去ることでどんなことが起こるか考えてみよう。どんな良いことがあるだろう? 創造的な活動に集中するための自由時間と余裕が増えるだろうか。日々やるべきことが減り、ストレスが軽くなるだろうか。あるいはどんな悪いことが起こる(かもしれない)だろう? そうなる可能性はどのくらいだろう。それに対処できるだろうか。

この種の必要性の源は恐れだ。恐れには正直に向き合うほど良い。恐れを直視し、自分にちょっとしたトライアル期間を与えてみよう——1時間だけ、あるいは1日だけ、その必要性が無いことにしてみるのだ。さらに1週間だけ。何も悪いことが起きなければ、トライアル期間を延ばしていく。この方法で、必要だと思っていたことが実は必要でもなんでもなかったことが、徐々にわかってくるだろう。

偽物の必要性を手放すことは、それ自体気分のいいものだし、そうすることであなたは自分自身を解放することになる。


レオ・バボータの電子書籍「Focus」の翻訳をRenji Talkで公開しています。
「フォーカス——雑音化時代を生きるためのシンプル化宣言」
このブログで公開した文章の訳も、まとめて読めるようにしています。
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醸し出すもの [Thoughts]

自分が醸し出してるものを越えたものを表現しようとするよりも、自分の中にあるものを隠さないことが重要。

というのは妻の有名な言葉だけど、夫が言うのもなんだが、なかなか深い。

趣味の開示をしてもしょうがないけど、個人的には女性の服の趣味としてあんまり女っぽさを強調した服は好みじゃなく、どっちかというと中性的な服が好き。

というのはたぶん同じコンセプトを語っている。と思う。

男性の服も同じで、あんまり男を強調した服って昔から気持ちが悪い。服だけじゃなく、すぐ上半身ハダカになるやつとかパンツ一枚で歩き回るやつとか嫌だったし。

何も強調しない、露出しない、だけど隠さない、中間的な感じがいい。

ところである機会に「中性的な服が好き」という話をすると、ある40代女性からは「さすが草食系」と言われ、ある20代女性からは「それ、いちばんエロいですよね」と言われた。

後者の見方の方が健康的だと思います。
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いつもの場所を旅行者のように眺める [Thoughts]

また静岡行きます。

目的は前回と同じく「いつもと同じことをする」こと。散歩して、本屋に行って、お茶を飲んで電車に乗ってご飯食べるだけ。

そういうことをするには静岡ってすごくいいところだと思う。今回は雨降らないといいな(今のところ降水確率20%。微妙)。



ところで、知らない場所でいつもと同じことをするのと同じくらい、いつものよく知ってる場所を旅行者のように眺めてみるのも楽しい。

個人的に気に入ってるのは、前にも書いたことがあるけど外国の旅行ガイドを見ながらよく知ってる場所を歩くというもの。

特に興味深いと思ってない物ごとを興味深いと書いてあったり、特にめずらしいと思ってないものがめずらしいと書いてあったり、特に不思議と思ってないものが不思議だと書いてあったりすると、本当にそういう気がしてくる。自分がものすごく興味深い場所に住んでいるような気がしてくる。

最近もうひとつ発見した同種の楽しみは、日本を訪れた外国人がそのことについて書いてるブログを読むこと。旅行ガイド以上に視点が多様で、書いてることに遠慮がない。

ただし、モノによっては無知や誤解や偏見が全開の場合もあるので、気をつけないと気分を害することがある。

安心して読める(眺められる)おすすめをいくつかあげると、たとえばおなじみレオ・バボータさんが家族で日本旅行したときの様子。

Leo's Travel Blogは完全な写真つき家族旅行日記でもちろん楽しいんだけど、個人的にもっと面白かったのは、帰国後のZen Habitsでフィットネスの文脈の中で紹介している東京の印象(→Why You (Almost) Never See a Fat Japanese (or, How I Lost 5 lbs. in Tokyo))。

「日本への旅でもっとも衝撃的だったことのひとつは、誰もが痩せていることだった。私は家族に『日本には太った人がいない!』と言いつづけた」

いや、そんなことはないだろう(笑)。

レオ自身「スモウレスラーは別として、もちろん例外はある」と書いてるけど、それにしてもアメリカ人の目からみると日本人はみんなスリムで健康的にみえるんだ。

その理由をレオは以下のように考察し、その生活を見習うべきだと書く。

1 日本人は海産物と野菜をたくさん食べる
2 日本人は少ない量を食べる
3 日本人は我々よりもよく歩き、自転車に乗る

実際に東京近郊に住み、都心に通勤する人間からすれば「1」なんか特にうーんと思うし、「3」は公共交通機関が発達した大都市だけのことだとも思うけど、いずれにしてもその視点で自分の今の生活を眺めると、ちょっとだけ今までと違って見える。

もうひとつ。

トロントの北欧雑貨店Mjölkを経営する夫婦のブログ(→KITKA design Toronto)。

この人たちも日本びいき、特に日本のモダンデザインや雑貨びいきで、買い付けもかねて来日したときのブログでは日本の雑貨屋さんや建築を紹介することが多い。最近だと北海道を旅行している。

彼らの目線を通して(写真もすごく美しい)、美しい雑貨や建築やお好み焼きやラーメンや赤提灯を立て続けに眺めていると、日本はモダンデザインとアジア的な要素が明白な意思によって絶妙にミックスされた素敵な国みたいにみえる。

実際は決してそうじゃないことを痛いほど知ってるんだけど、そして彼らもそうじゃない風景をたくさん目にしているばすなんたけど、彼らの目線を通じて逆に本来持ってる要素の素敵さを改めて思い出させられるというか。



こんなふうに借り物の旅行者の視点でよく知ってる場所を眺めてみることって、今の生活のある街をそのままの形で楽しむヒントにもなる気がする。

それって、意外にけっこう重要なことだ。
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