編集された言葉 [Thoughts]
ある人の印象が、ブログとツイッターでは全く違うということがよくあるけど、その印象の違いはたぶんより大きな文脈の中で編集された言葉とそうではない言葉の違いだ。
ツイートはより上位の文脈の中に位置づけるということがない分、生に近い状態を保っている。
一方、ブログでは言葉の断片がより長い文章の流れの一部として位置づけられ、機能するためにリズムやトーンが調整される。その過程で言葉は生まれたままの生の状態から変化する。単にニュアンスだけじゃなく、時には内容そのものまで。
(より正確にいうと、ツイートはタイムラインの中に位置づけられ、リズムとトーンを調整・編集された言葉なんだけど)
そう思えば、どうしてああなんだろうといつも思う政治家の言葉っていうのは、政治家的なシチュエーションと文脈の中に位置づけられるよう編集された言葉なんだということがわかる。だからそうではない言葉を期待しても、その文脈の外に出ない限り、期待するような言葉は出てこない。
官僚の言葉も会社員の言葉もみんな同じ。
そして、一対一で言葉を交わしているときに好意を抱いたり親近感を持ったりした人が、ある集団の中に身を置いたとたん、自分にはわからない言葉を話す「知らない人になってしまう」という、昔から幾度となく味わってきた苦い思いの理由が突然わかったような気がする。
その人の言葉は、その場の文脈(空気といってもいい)の一部として位置づけられ、機能するためにリズムやトーンが調整される。その過程で言葉は生まれたままの生の状態から変化する。単にニュアンスだけじゃなく、時には人格そのものまで。
ツイートはより上位の文脈の中に位置づけるということがない分、生に近い状態を保っている。
一方、ブログでは言葉の断片がより長い文章の流れの一部として位置づけられ、機能するためにリズムやトーンが調整される。その過程で言葉は生まれたままの生の状態から変化する。単にニュアンスだけじゃなく、時には内容そのものまで。
(より正確にいうと、ツイートはタイムラインの中に位置づけられ、リズムとトーンを調整・編集された言葉なんだけど)
そう思えば、どうしてああなんだろうといつも思う政治家の言葉っていうのは、政治家的なシチュエーションと文脈の中に位置づけられるよう編集された言葉なんだということがわかる。だからそうではない言葉を期待しても、その文脈の外に出ない限り、期待するような言葉は出てこない。
官僚の言葉も会社員の言葉もみんな同じ。
そして、一対一で言葉を交わしているときに好意を抱いたり親近感を持ったりした人が、ある集団の中に身を置いたとたん、自分にはわからない言葉を話す「知らない人になってしまう」という、昔から幾度となく味わってきた苦い思いの理由が突然わかったような気がする。
その人の言葉は、その場の文脈(空気といってもいい)の一部として位置づけられ、機能するためにリズムやトーンが調整される。その過程で言葉は生まれたままの生の状態から変化する。単にニュアンスだけじゃなく、時には人格そのものまで。
英知を結集して… [Thoughts]
以前、北朝鮮の工作船事件があったときに、工作船のガジェット性が話題になった。
船の後ろがぱかっと開いて、小さな船が出てくるなんてのは、まるっきり「サンダーバード」の世界で、そんなガジェットを「本気」で作っちゃってしかも「本気」で使っちゃって、その結果巡視船との交戦(だよね、あれは)の結果工作船は自沈し、乗組員は命を落とした。
それでいいのか。と、自分も含め多くの人は思ったと思うんだけど。
でも確かオバマ大統領が核戦略の見直しを発表したときに、アメリカの潜水艦からSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)が発射される映像が流れているのを改めて見たときに、アメリカがやってるから何も言われないけど、これだって相当ガジェット感があるよな、と思った。
水中で潜水艦の背中がぱかっと開いて、そこから出たミサイルがぐわーっと海から飛び出して、またぱかっと空中で割れて、それぞれが別の目標を核攻撃するって、そんなアホなものを本気で作って、莫大なお金をかけて運用しているのって、やっぱりアホだと思う。
決して「軍隊はすべて悪である」とか「アメリカの軍隊は日本から出て行け」とか主張するタイプじゃないし、軍事というものは政治と切り離すことはできないと思ってるけど、それでも「水中の潜水艦の背中がぱかっとひらいて」という発想そのものの根本的なアホっぽさは、大の大人が、しかも超優秀な大人が英知を結集してそんなアホっぽいものを本気で創り出したというその事実は、もっとアホだと意識されていいんじゃないかと思う。
特に今、人類の英知を結集するべき課題がこれだけ山積みになってる中で。
船の後ろがぱかっと開いて、小さな船が出てくるなんてのは、まるっきり「サンダーバード」の世界で、そんなガジェットを「本気」で作っちゃってしかも「本気」で使っちゃって、その結果巡視船との交戦(だよね、あれは)の結果工作船は自沈し、乗組員は命を落とした。
それでいいのか。と、自分も含め多くの人は思ったと思うんだけど。
でも確かオバマ大統領が核戦略の見直しを発表したときに、アメリカの潜水艦からSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)が発射される映像が流れているのを改めて見たときに、アメリカがやってるから何も言われないけど、これだって相当ガジェット感があるよな、と思った。
水中で潜水艦の背中がぱかっと開いて、そこから出たミサイルがぐわーっと海から飛び出して、またぱかっと空中で割れて、それぞれが別の目標を核攻撃するって、そんなアホなものを本気で作って、莫大なお金をかけて運用しているのって、やっぱりアホだと思う。
決して「軍隊はすべて悪である」とか「アメリカの軍隊は日本から出て行け」とか主張するタイプじゃないし、軍事というものは政治と切り離すことはできないと思ってるけど、それでも「水中の潜水艦の背中がぱかっとひらいて」という発想そのものの根本的なアホっぽさは、大の大人が、しかも超優秀な大人が英知を結集してそんなアホっぽいものを本気で創り出したというその事実は、もっとアホだと意識されていいんじゃないかと思う。
特に今、人類の英知を結集するべき課題がこれだけ山積みになってる中で。
本当は恐ろしい雑な言葉 [Thoughts]
おそらく自分は、人との関係の基準を「言葉」に置いている。
そのことを自覚するようになったのはわりに大人になってからだけど、たぶん子どもの頃からずっと無意識にそうしてきたんだと思う。
言葉というのはその人の存在そのものだという感覚が、たぶんそこにはある。
人に好意を持つのはたいていその人の言葉に対して。人を苦手だとか好きじゃないとか感じるときも、たいてい「言葉が合わない」とき。人を信頼するのは、言葉に対する誠実さを感じるとき。
いちばん苦手でかつ好きじゃないのは「雑な言葉」を使う人。言葉はその人の存在そのものだということを意識せず、適当に言葉を選ぶ人。軽い言葉を重く使う人。重い言葉を軽く使う人。他人の作った言葉に自分を譲り渡してしまっている人(ついでにもっとも自己嫌悪を感じるのも、自分が雑な言葉を使ってしまったとき)。
もちろんオトナだから(そればっか)、仕事の場面や公的な場面では、自分のものではない言葉を使うことは必要だし、できる。
業界には特有の言葉があるし、職場で伝統的に使われる「社内用語」みたいなのもあるし、企画書を書くなら企画書用語とでも言うべきものがある。そういう「お約束」には従わなければ、仕事上のコミュニケーションが成立しない。
だけどそれはあくまでも「公の自分」としてやってること。そこで崩れた言葉のバランスを取るための方法を身に付けながら、人はオトナになるわけです(身に付けられないと病気になるか社会からはじき出される)。
で、今週ちょっとバランスを崩しちゃったのは、自分とは全く相容れない言葉を自分自身の言葉として書く必要が生じて、しかもタイミング的にちょっと不意をつかれたから。
今年1年の仕事上の目標を定めて宣言するみたいなことは、まあ別にめずらしいことじゃないし、今に始まったことじゃない。
でも、今までもそうしてきたように、自分の中でバランスが取れるぎりぎりの表現で書いたそれが、今回はレビューを通らず(やる気なさそうに見えたか。確かに魂の抜けたような言葉の羅列になってたけど)、トーンや語尾を許容範囲を超えたものに変えざるを得なくなった。
以前なら「ま、これは形式的なものだから」という感じでスルーされていたことがそうではなくなってきたことを忘れてたからで、それが甘かったんだけど。
でもそれは、形式性はそのままに厳密性・厳格性だけを要求すること、しかも言葉を操作することでそれを行おうとすることだ。要するに定量化できない物ごとを、なんとか定量的に評価しようという努力なのだけど、その種のことが、うちの職場に限らず世の中全体に「雑な言葉」が増殖する理由のひとつかもしれない。
そしてそれがとても危険なことだと思うのは、雑な言葉は知らないうちに人を内側から蝕んでいくから。そして社会も。
いつも思うことだけど、みんなもっと言葉の力を自覚した方がいい。
ああ、そういえば現代の就活生(←自分のものではない言葉)は、自分のものではない言葉を使う訓練をしてるみたいだなあ、と思った。
そのことを自覚するようになったのはわりに大人になってからだけど、たぶん子どもの頃からずっと無意識にそうしてきたんだと思う。
言葉というのはその人の存在そのものだという感覚が、たぶんそこにはある。
人に好意を持つのはたいていその人の言葉に対して。人を苦手だとか好きじゃないとか感じるときも、たいてい「言葉が合わない」とき。人を信頼するのは、言葉に対する誠実さを感じるとき。
いちばん苦手でかつ好きじゃないのは「雑な言葉」を使う人。言葉はその人の存在そのものだということを意識せず、適当に言葉を選ぶ人。軽い言葉を重く使う人。重い言葉を軽く使う人。他人の作った言葉に自分を譲り渡してしまっている人(ついでにもっとも自己嫌悪を感じるのも、自分が雑な言葉を使ってしまったとき)。
もちろんオトナだから(そればっか)、仕事の場面や公的な場面では、自分のものではない言葉を使うことは必要だし、できる。
業界には特有の言葉があるし、職場で伝統的に使われる「社内用語」みたいなのもあるし、企画書を書くなら企画書用語とでも言うべきものがある。そういう「お約束」には従わなければ、仕事上のコミュニケーションが成立しない。
だけどそれはあくまでも「公の自分」としてやってること。そこで崩れた言葉のバランスを取るための方法を身に付けながら、人はオトナになるわけです(身に付けられないと病気になるか社会からはじき出される)。
で、今週ちょっとバランスを崩しちゃったのは、自分とは全く相容れない言葉を自分自身の言葉として書く必要が生じて、しかもタイミング的にちょっと不意をつかれたから。
今年1年の仕事上の目標を定めて宣言するみたいなことは、まあ別にめずらしいことじゃないし、今に始まったことじゃない。
でも、今までもそうしてきたように、自分の中でバランスが取れるぎりぎりの表現で書いたそれが、今回はレビューを通らず(やる気なさそうに見えたか。確かに魂の抜けたような言葉の羅列になってたけど)、トーンや語尾を許容範囲を超えたものに変えざるを得なくなった。
以前なら「ま、これは形式的なものだから」という感じでスルーされていたことがそうではなくなってきたことを忘れてたからで、それが甘かったんだけど。
でもそれは、形式性はそのままに厳密性・厳格性だけを要求すること、しかも言葉を操作することでそれを行おうとすることだ。要するに定量化できない物ごとを、なんとか定量的に評価しようという努力なのだけど、その種のことが、うちの職場に限らず世の中全体に「雑な言葉」が増殖する理由のひとつかもしれない。
そしてそれがとても危険なことだと思うのは、雑な言葉は知らないうちに人を内側から蝕んでいくから。そして社会も。
いつも思うことだけど、みんなもっと言葉の力を自覚した方がいい。
ああ、そういえば現代の就活生(←自分のものではない言葉)は、自分のものではない言葉を使う訓練をしてるみたいだなあ、と思った。
太鼓と、これからどうやって生きるかということ [Diary]
学芸大学のライブハウス「APIA40」にて和太鼓グループ「冬のどどんが団」のライブ。
三度目で、みんなライブハウスの狭い空間にもずいぶん慣れてきたみたいで、今までAPIAでやった中でいちばんよかった。「道・木枯らし・夜」の緊張感とパワーは(はじめて見に行った)2008年のコンサート以来いちばんだったかも。
他にも今回は、いろいろ今までと違った印象を受けたんだけど、それが何なのかは頭がまとまらないので、また改めて。
※
ひとつだけ。
団長がどどんが団を始めたのが49才のときだったという話。
「50代をどう生きればいいか?」という言葉には、個人的にぐっとくるものがあった。月並みだけど。
40才をすぎれば、どれだけ頭をクリアにしてみても、体をしぼってみても、これから先どうやって生きていくかという問いは年々重さを増していくわけで。
そんなとき、自分よりずっと年上の人が、49才から新しいことを(しかもオリジナルなことを、若い人たちといっしょに)始めて、15年も続けてるというそのことに対して。
※
ところで、こちらの方のブログに一昨年のAPIA40でのライブの様子をとった写真がのってるんだけど、どどんが団の魅力がすごくよく出てる。表記は「ドドンガ団」ではなく「どどんが団」ですが。
三度目で、みんなライブハウスの狭い空間にもずいぶん慣れてきたみたいで、今までAPIAでやった中でいちばんよかった。「道・木枯らし・夜」の緊張感とパワーは(はじめて見に行った)2008年のコンサート以来いちばんだったかも。
他にも今回は、いろいろ今までと違った印象を受けたんだけど、それが何なのかは頭がまとまらないので、また改めて。
※
ひとつだけ。
団長がどどんが団を始めたのが49才のときだったという話。
「50代をどう生きればいいか?」という言葉には、個人的にぐっとくるものがあった。月並みだけど。
40才をすぎれば、どれだけ頭をクリアにしてみても、体をしぼってみても、これから先どうやって生きていくかという問いは年々重さを増していくわけで。
そんなとき、自分よりずっと年上の人が、49才から新しいことを(しかもオリジナルなことを、若い人たちといっしょに)始めて、15年も続けてるというそのことに対して。
※
ところで、こちらの方のブログに一昨年のAPIA40でのライブの様子をとった写真がのってるんだけど、どどんが団の魅力がすごくよく出てる。表記は「ドドンガ団」ではなく「どどんが団」ですが。
変化を形に表す人 [Thoughts]
誠実さと一貫性が不可分のものであるかのように考えてる人がいて、「ぶれない」とか「考えを貫く」という誉め言葉がそのことを示している。
もちろん「ぶれない」ことも「貫く」こともそれ自体は立派なことだと思う。
思うけど、「始めてしまったから」というだけの理由で物ごとを止められなくなり取り返しのつかないところまで行ってしまう、今も昔も変わらない日本人の(あるいは日本という国のあり方の)欠点て、それが目的化したところから来てるんじゃないの? と思うわけです。
時間が経つ中で状況や環境は変化し、何よりも判断の誤りや無知だったことや考えが浅かったことが判明してくる。その中で誠実に生きてれば、あるいは真剣に生きてれば、人は変わっていって当然で、その変化を形に表す人のクリアさの方をぼくは信用する。
少なくとも、考えが以前と変化しているという理由で人を信用しないという人を、ぼくは信用しない。
と、社会の変な仕組みのことやら原発のことやら戦争のことやらダムのことやら基地のことやら地上の楽園のことやらを考えながら思った。
もちろん「ぶれない」ことも「貫く」こともそれ自体は立派なことだと思う。
思うけど、「始めてしまったから」というだけの理由で物ごとを止められなくなり取り返しのつかないところまで行ってしまう、今も昔も変わらない日本人の(あるいは日本という国のあり方の)欠点て、それが目的化したところから来てるんじゃないの? と思うわけです。
時間が経つ中で状況や環境は変化し、何よりも判断の誤りや無知だったことや考えが浅かったことが判明してくる。その中で誠実に生きてれば、あるいは真剣に生きてれば、人は変わっていって当然で、その変化を形に表す人のクリアさの方をぼくは信用する。
少なくとも、考えが以前と変化しているという理由で人を信用しないという人を、ぼくは信用しない。
と、社会の変な仕組みのことやら原発のことやら戦争のことやらダムのことやら基地のことやら地上の楽園のことやらを考えながら思った。
ネコポイントとは何か。 [Diary]
- ネコポイントは、ネコに会うたびに1ポイント加算される。
- 同時に三匹のネコに会ったら3ネコポイント。同じネコに1日2回あっても1ネコポイント(1ネコ1ポイント)。
- 夫婦で歩いていて一匹のネコに会った場合、双方に1ネコポイントが加算される。他の家族でも同様(ネコポイントの個人加算)。
- 夫婦で歩いていて、ネコに会ったことに一方が気づき、もう一方が気づかなかった場合、気づいた方のみにネコポイントが加算される(ネコ認識によるポイント加算1)。
- あまりにも多数のネコに会ってカウントできなくなった、もしくは忘れた場合、認識できる/覚えているネコ分のみ、ネコポイントが加算される(ネコ認識によるポイント加算2)。
- 1ネコポイントは100円に換算される。
- ネコポイントを取得した場合、その分の現金を貯金箱もしくは空き缶などに貯金することにより、ネコポイントの使用が可能になる。
- ネコポイントは、ネコのために使用する。
その大人の発想こそ間違っている [Thoughts]
20代後半の頃、事情があって2年間くらいの無職期間を経た後、少しずつ自宅で仕事をするようになった。
以前勤めていた会社から回してもらったその仕事は、いわゆる「補助金がらみ」の仕事。
コンサルティングといえば聞こえはいいけど、その仕事は誰の役にも立っていないことは明らかで、ただ補助金を獲得するためにはその仕事をすることが条件になっているからみんな黙ってやっている、というようなタイプの。
誰の役にも立っていないことは明らかだけど、その仕事をすることでぼくはお金をもらっていた。世の中にはその種の仕事がたくさんあって、そういう仕事に関わることで生きている人がたくさんいるということを、それまでぼくは知らなかった。
うちの夫婦は当時わりに切羽詰まった状況にあったから、その仕事(とその仕事をくれた社長)は恩人みたいなものだった。
その時学んだのは、「世の中には事情というものがある」ということであり、「物ごとには理由というものがあるということ。
世の中のあちこちで意味のない仕事に意味のないお金がつぎ込まれ、しかもそれは税金だったりする。それを無駄、無意味ということは簡単だけど、その仕事に関わることで生きている人たちのことを思うと、安易に糾弾する気にはならない。
大人だからね。
とずっと思ってきたけど、そんな大人の発想こそが間違ってるんだ、ということを最近ものすごく痛感してるし、そう思ってきた自分をすごく恥ずかしく思っている。
その手の大人の事情を理解する態度こそが、日本をこんな風にしてしまったのだと思う。誰の役にも立たない、誰も幸せにしない仕事が存在する理由なんかないし、その存在を正当化する一見大人な発想が、いろんなものを歪めて腐らせてきたのだ。
そんなのは嘘だということは、ぼくの関わっていたその仕事が今は消えてなくなっていて、それでもうちの夫婦はちゃんと生きているということをみればわかる。
もちろん運が良かったということもあるけど、生きていくためなら、誰でもその程度の運はつかむはずだ。
以前勤めていた会社から回してもらったその仕事は、いわゆる「補助金がらみ」の仕事。
コンサルティングといえば聞こえはいいけど、その仕事は誰の役にも立っていないことは明らかで、ただ補助金を獲得するためにはその仕事をすることが条件になっているからみんな黙ってやっている、というようなタイプの。
誰の役にも立っていないことは明らかだけど、その仕事をすることでぼくはお金をもらっていた。世の中にはその種の仕事がたくさんあって、そういう仕事に関わることで生きている人がたくさんいるということを、それまでぼくは知らなかった。
うちの夫婦は当時わりに切羽詰まった状況にあったから、その仕事(とその仕事をくれた社長)は恩人みたいなものだった。
その時学んだのは、「世の中には事情というものがある」ということであり、「物ごとには理由というものがあるということ。
世の中のあちこちで意味のない仕事に意味のないお金がつぎ込まれ、しかもそれは税金だったりする。それを無駄、無意味ということは簡単だけど、その仕事に関わることで生きている人たちのことを思うと、安易に糾弾する気にはならない。
大人だからね。
とずっと思ってきたけど、そんな大人の発想こそが間違ってるんだ、ということを最近ものすごく痛感してるし、そう思ってきた自分をすごく恥ずかしく思っている。
その手の大人の事情を理解する態度こそが、日本をこんな風にしてしまったのだと思う。誰の役にも立たない、誰も幸せにしない仕事が存在する理由なんかないし、その存在を正当化する一見大人な発想が、いろんなものを歪めて腐らせてきたのだ。
そんなのは嘘だということは、ぼくの関わっていたその仕事が今は消えてなくなっていて、それでもうちの夫婦はちゃんと生きているということをみればわかる。
もちろん運が良かったということもあるけど、生きていくためなら、誰でもその程度の運はつかむはずだ。
レオ・バボータのWDS基調講演 [レオ・バボータ関連]
ポートランドで行われたWDS(World Domination Summit)で、レオ・バボータが基調講演を行ったときの様子を、同じくWDSに参加したLifehacking.jpのmehoriさんが紹介しています。
ワイナーのオブジェクト指向ライティング [アウトライナー]
デイブ・ワイナーのScripting Newsより「Object-oriented writing」の日本語訳「オブジェクト指向ライティング」をRenji Talkで公開。短い文章だけど、アウトライナーに興味のある方はどうぞ。
ちょっと前に紹介した、サイトを丸ごとひとつのアウトラインの中で管理する「2011年のコンテクストから見たアウトライナー」の話の続き。
かつてワイナーが開発したMOREが持っていた階層ルールの機能(上位階層で設定した書式が、下位階層に継承される機能)が、1つのファイルに複数の文書を保存することを可能にしたこと、そして同じ発想がアウトライナーによるウェブサイト管理の中でどんな意味を持つか、という話。
特にプログラマー仲間に対して、その機能をオブジェクト指向プログラミングに例えている。
アウトラインから書いていくなら、むしろ手続型プログラミングに近いんじゃないかと素人的には思うけど、ここでオブジェクト指向と言ってるのは、アウトラインそのものよりも上位レベルで設定して下位の階層に継承される属性のことだと思う。
もちろんぼくはプログラマーではないけど、文章を書くこととプログラミングには多くの共通点があるということは理解できる。
そもそも長大なテキストを意味のある順番に並べるという行為である点はまったく同じなんだから(多くの場合、プログラミングの方がより論理構造や文法構造に厳格性が要求されるけれども)。
だからこそ、ブログラムコードを書くために生み出された手法やツールの多くが、文章書きに応用することができる。
アウトライナーだって、プログラミング用の階層エディタがその起源のひとつだし、それを言うならテキストエディタだってそうだ。だから、コンピューターを利用したライティングとプログラミングとは、そもそも切り離せない。
ただ多くの場合、プログラマーはシリアスなライティングにはあんまり縁がなく(技術ドキュメントはあるけど)、逆に物書きはプログラミングには縁がないことが多いから、この2つの世界は近くて遠い。
その中でワイナーは、両方の世界の間を高いレベル行き来する数少ない論客であり、広い意味での書くという行為(とそのためのツール)についてのワイナーの発言はとてもとても興味深い。
ちょっと前に紹介した、サイトを丸ごとひとつのアウトラインの中で管理する「2011年のコンテクストから見たアウトライナー」の話の続き。
かつてワイナーが開発したMOREが持っていた階層ルールの機能(上位階層で設定した書式が、下位階層に継承される機能)が、1つのファイルに複数の文書を保存することを可能にしたこと、そして同じ発想がアウトライナーによるウェブサイト管理の中でどんな意味を持つか、という話。
特にプログラマー仲間に対して、その機能をオブジェクト指向プログラミングに例えている。
アウトラインから書いていくなら、むしろ手続型プログラミングに近いんじゃないかと素人的には思うけど、ここでオブジェクト指向と言ってるのは、アウトラインそのものよりも上位レベルで設定して下位の階層に継承される属性のことだと思う。
もちろんぼくはプログラマーではないけど、文章を書くこととプログラミングには多くの共通点があるということは理解できる。
そもそも長大なテキストを意味のある順番に並べるという行為である点はまったく同じなんだから(多くの場合、プログラミングの方がより論理構造や文法構造に厳格性が要求されるけれども)。
だからこそ、ブログラムコードを書くために生み出された手法やツールの多くが、文章書きに応用することができる。
アウトライナーだって、プログラミング用の階層エディタがその起源のひとつだし、それを言うならテキストエディタだってそうだ。だから、コンピューターを利用したライティングとプログラミングとは、そもそも切り離せない。
ただ多くの場合、プログラマーはシリアスなライティングにはあんまり縁がなく(技術ドキュメントはあるけど)、逆に物書きはプログラミングには縁がないことが多いから、この2つの世界は近くて遠い。
その中でワイナーは、両方の世界の間を高いレベル行き来する数少ない論客であり、広い意味での書くという行為(とそのためのツール)についてのワイナーの発言はとてもとても興味深い。