レオ・バボータ「どんなときもハッピーでいる方法」 [レオ・バボータ関連]
レオ・バボータのブログZen Habitsより「How to be Happy Anytime」の日本語訳を「どんなときもハッピーでいる方法」として公開しました。最近mnmlistからのものが続いてたので、久しぶりです。
タイトルはベタというかちょっとアレだけど、たぶん彼の言っていることは正しい、とこのトシになって思います。
タイトルはベタというかちょっとアレだけど、たぶん彼の言っていることは正しい、とこのトシになって思います。
私たちの多くがそうなのだが、「やりたいこと」ばかり考えていると、「現実にやっていること」に永久に喜びを感じられなくなってしまう。今やっていることを他人と(おそらくFacebookやTwitterで)比較したり、人生がもっと魅力的なものだったらと願ってばかりいれば、常に今より良い何かが存在しているのだから、満足できるはずはない。
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会社員になってから無くなったこと(順不同) [Diary]
肩書き欄に「代表」と書いた。
肩書き欄に「理事長」と書いた。
「東京から来た先生」と紹介された。
「ふーん、先生。これが?」と言われた。
だから先生じゃないんだってば。
違う会社の名刺を渡してしまった。
遊歩道の設置を提案した。
委員会を設置を提案した。
漁師さんに怒られた。
お百姓さんに怒られた。
ひとつの仕事を終えて3週間寝込んだ。
カフェで仕事した。
トイレで仕事した。
仕事仲間と絶交した。
クライアントと絶交した。
ギャラを踏み倒された。
一時間に一回残高照会した。
今月の家賃が払えない。
クライアントからお礼状が来た。
クライアントにネクタイを借りた。
クライアントの身の上話を聞いた。
手放しで絶賛された。
肩書き欄に「理事長」と書いた。
「東京から来た先生」と紹介された。
「ふーん、先生。これが?」と言われた。
だから先生じゃないんだってば。
違う会社の名刺を渡してしまった。
遊歩道の設置を提案した。
委員会を設置を提案した。
漁師さんに怒られた。
お百姓さんに怒られた。
ひとつの仕事を終えて3週間寝込んだ。
カフェで仕事した。
トイレで仕事した。
仕事仲間と絶交した。
クライアントと絶交した。
ギャラを踏み倒された。
一時間に一回残高照会した。
今月の家賃が払えない。
クライアントからお礼状が来た。
クライアントにネクタイを借りた。
クライアントの身の上話を聞いた。
手放しで絶賛された。
レオ・バボータ「念のためシンドローム」 [レオ・バボータ関連]
レオ・バボータのブログmnmlistより「the just in case syndrome」の日本語訳を「念のためシンドローム」として公開しました。
「念のためシンドローム」に説明はいらないと思う。実際に必要だからではなく、念のためにという理由で(バッグに、自宅に、オフィスに)モノをため込むことだ。
しかしきちんと検証してみれば、「念のため」とは使わないものをたくさん持つことだとわかる。実験してみよう。旅行に「念のため」持っていったものを、あるいは家にため込んでいるものを、本当に使うかどうかみてみる。何ヶ月か使っていないにも関わらず、もしかして必要になるかもと思って「念のため」持っているもののリストを作ってみる。
6ヶ月〜9ヶ月後、実際に何回使ったか確認してみる。
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「ていねいであること」が許されない世界 [Thoughts]
彼女がいる時間に彼はいなくて/彼が起きてる時間に彼女は寝ていて/彼女に山ほど話があるとき彼の頭は飽和していて/彼が楽しい気分のとき彼女は不機嫌で/彼女のメールは彼の会議中に来て/彼が彼女に聞かせる楽しい話を思いつくのが月曜朝の通勤電車の中だったとしても、そんなズレは人との関係の中でいくらでも起きることだし、当然のことだ。
なによりも、日々顔を合わせて目的のない時間をていねいに積み重ねながら、そしてていねいに言葉を選びながら待っていれば、私とあなたが自然に一致するタイミングというのは必ずやってきて、この種の些細なズレの多くは解消していく。
でも今の時間の流れの中で「目的のない時間」ほど手に入りにくいものはないし、ていねいに言葉を選ぶこともタイミングを待つことも加速度的に困難になっていく。そして些細なズレはお互いの中で解消されないまま、ある場合には腐っていったり大きな傷に広がっていったりする。
人との関係だけじゃなく仕事でも、この「ていねいであることが許されない」感じは加速している。
実際に起きる個別の問題点以上に、必要なていねいさを持って生きることができないことが、ものすごく骨身にこたえることがある。
「ていねいであること」が許されない世界は、絶対に良くならない。
結局どんなツールもスキルもハックもテクニックもマーケティングも、結局「ていねいであること」にはかなわないんだから。
なによりも、日々顔を合わせて目的のない時間をていねいに積み重ねながら、そしてていねいに言葉を選びながら待っていれば、私とあなたが自然に一致するタイミングというのは必ずやってきて、この種の些細なズレの多くは解消していく。
でも今の時間の流れの中で「目的のない時間」ほど手に入りにくいものはないし、ていねいに言葉を選ぶこともタイミングを待つことも加速度的に困難になっていく。そして些細なズレはお互いの中で解消されないまま、ある場合には腐っていったり大きな傷に広がっていったりする。
人との関係だけじゃなく仕事でも、この「ていねいであることが許されない」感じは加速している。
実際に起きる個別の問題点以上に、必要なていねいさを持って生きることができないことが、ものすごく骨身にこたえることがある。
「ていねいであること」が許されない世界は、絶対に良くならない。
結局どんなツールもスキルもハックもテクニックもマーケティングも、結局「ていねいであること」にはかなわないんだから。
レオ・バボータ「プチ生産性」 [レオ・バボータ関連]
レオ・バボータのブログmnmlistより「petite-productivity」の日本語訳を「プチ生産性」として公開しました。
mnmlistは記事の長さもミニマルなんで、以下の引用でもう半分以上いっちゃってるんですが。
mnmlistは記事の長さもミニマルなんで、以下の引用でもう半分以上いっちゃってるんですが。
フランスに、Teddyfishといういうバッグを手作りしている小さな会社がある。彼らの製品作りの哲学は素晴らしいものだ。
「私たちは〈プチ生産〉の価値を信じている。それはスローなリズムとスケールで仕事することを目指すということだ。私たちは自ら生みだし、手作りすることを通じて、製品にガソリン臭の代わりに職人の手の温もりを加えることを目指している」
私たちの暮らすこの大量生産の世界が、プチ生産の世界に変わったらどうなるか想像してみよう。
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倒れた木 [Diary]
転ぶほど価値のある何か [Diary]
打ち合わせ先から職場まで戻る途中、立て続けに二回も転んで、Mさんに呆れられる。
特に何かにつまづいたとか滑ったということではなく、何の脈絡もなくただ転ぶ。右手をついたせいで手首と前腕と上腕と肩が痛いし、それからiPhoneのフチが欠けた。
なんてこと言うと心配されるけど、別に心配する必要はまったくなくて、ただ歩きながらすごく大事な何かがわかりそうな気が一瞬だけしたから。転ぶほど価値のある何か。
そして心に希望を抱いて帰る。
特に何かにつまづいたとか滑ったということではなく、何の脈絡もなくただ転ぶ。右手をついたせいで手首と前腕と上腕と肩が痛いし、それからiPhoneのフチが欠けた。
なんてこと言うと心配されるけど、別に心配する必要はまったくなくて、ただ歩きながらすごく大事な何かがわかりそうな気が一瞬だけしたから。転ぶほど価値のある何か。
そして心に希望を抱いて帰る。