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負けたくないということは [Diary]

つまり
他人との勝ち負けの問題ではなく
自分との闘いとかいう問題でもなく
急ぎたいという気持ちとか
逃げたいという気持ちとか
甘えたいという気持ちとか
スピードとか
苛立ちとか
そもそも闘いたいという気持ちとか
そういうものと
闘うつもりはないけど
負けるつもりも毛頭ない
ということです。

三日月餃子 [Diary]

日吉の「餃子処三日月」が大好きなのは、注文してから具を包んで焼いてくれる餃子がおいしいところ。

そして餃子だけじゃなく、サイドメニュー(ポテトサラダとかねぎのせチャーシューとか塩キャベツとか)や、「晩ご飯セット」を頼むとついてくるお新香や味噌汁が餃子に負けないくらい美味しいところ。

そして二人でお皿をテーブルいっぱいに並べて、おなかいっぱい食べて満足して、レジで4000円くらい握りしめて待ってると「2180円です」とか言われるところ。

そして切り盛りしているおかあさん二人がどんなに忙しくても(すごく忙しそう)嫌な顔一つせず笑顔で働いているところ。

そしてなんといっても、その二人が仲が良さそうなこと。

今どき、人が機嫌良さそうに迎えてくれる場所って貴重です。

衰えること。 [Diary]

学生時代に運動部に所属したこともないし、そもそも本格的に運動をした経験もないし、そもそも運動部の連中ともまずうまくいかなかったし。

でも、その分アスリートに対するリスペクトはたぶん人一倍強くて、野球やら格闘技やらから学んだことが本当にたくさんある。

いつの頃からか、全盛期の力が衰えてからのアスリートに興味を持つようになった。

怪我や年齢による衰えでかつての力がなくなったアスリートが、どんなふうにその事実と向き合って折り合いをつけて、あるいは新たな技術を身につけて、結果を残すか(あるいは残そうとするか)。

その意味で、自分は中田ヒデ派ではなく、三浦カズ派だ(どのような引き際を選ぶかというのは完璧にアスリート個人の問題で、まったく善し悪しの問題ではないけど)。

引退前の130キロ台のストレートとフォークで勝負し続ける野茂投手は最高に魅力的だった。

肘を手術した松坂投手の結果がどうなるかわからないし、ファンとしてはもちろん復活を願ってるけど、ひょっとしたら球の速い松坂はもう見られないのかもしれない。でも、仮にそうだとしても、球の速くない松坂はもしかしたら球の速い松坂よりももっと魅力的な投手になるかもしれない。そして、球の速い松坂の姿は永遠に記憶に焼き付いている。



そんなことについて考えるのは、きっと誕生日だからですね。



43才というのは、まだ年をとったというほどには年をとってないとは思うし、特別に衰えた感じもしないけど、それでも20代や30代の頃ほどには若くないのは間違いない。そして、どれだけ見た目が若いとしても40代というのは立派すぎるくらい立派な中年だ。

で、年をとればとるほど感じるのは、力が落ちてから、あるいは衰えてからの人生の方がずっとずっと長いんだということ。そして、衰えてからやるべきことの方がずっと多いということ。

これを希望と感じるか絶望と感じるかによって、衰えてからの人生はずいぶん違ったものになると思います。

(何よりも、40代以降まで生かしてもらえてる時点で……)

一度この考えを受け入れるとあなたは自由になれる(レオ・バボータ) [レオ・バボータ関連]

現在翻訳中のレオ・バボータ「エフォートレス・ライフ:楽に生きる(仮題)」より抜粋。
あなたの目は見えるだろうか? ならばあなたは空の青さや、緑や、人々の顔や、水に感謝することができる。あなたの耳は聞こえるだろうか? ならば音楽や、雨の音や、友人の笑い声に感謝することができる。あなたはデニムの感触を、冷たい風を、裸足で歩く芝生の感触を感じることができる。あなたは刈ったばかりの芝の、花の、コーヒーの香りを嗅ぐことができる。プラムを、チリペッパーを、チョコレートを味わうことができる。

これは奇跡だ。感謝とともに受け入れるべきことだ。なのに私たちはもっと手に入れようとする。もっと素敵な服が欲しい。もっとクールなガジェットが欲しい。もっと逞しい腕がほしい。もっと厚い胸板が欲しい。もっと引き締まった腹筋が欲しい。もっと大きな家が欲しい。レザーシートがついていて、おしゃべりの相手をしてくれて、尻をマッサージしてくれる車が欲しい。私たちは、ちょっとおかしくなっている。

そんなものはいらない。まともになろう。人生を改善する必要などない。自分自身を向上する必要などない。私たちは今あるままで完璧だからだ。

一度この考えを受け入れると、あなたは自由になれる。

向上したいからではなく、好きだからという理由で何かをする自由だ。そうしたいから、そしてそれが楽しいからだ。それができるということ自体が奇跡だからだ。

あなたはすでに完璧なのだ。自分に満足するとは、完璧を目指して努力するということ自体が、他人の「完璧」についての考えに基づいていると気づくことだ。そんなものはくそくらえだ。完璧とは今のあなたのことであり、誰かがそうあるべきだと決めたことではない。

Leo Babauta "The Effortless Life" p.73-74より。

 [Diary]

昨日の嵐とは打って変わって晴れ渡った温かい日曜の午後に、電車の中で見かけた大学生くらいのカップルが、二人ともビニール傘を持っていて、ああ昨日からずっといっしょにいるのね、と微笑ましい気持ちになる。

場違いな傘を、二人ともすごく自然な感じで持っているところが、今、いっしょにいることへの迷いも照れも後ろめたさも何もないことを示している、ような気がするのはこっちの勝手な妄想だけど、たぶんそんなに外れてはいない。

そういうの見るのって、好き。

評価されること、モテること [Thoughts]

仕事で評価されようと努力することは、モテようと努力することに似ている。

たとえば、努力しても成功する確率がきわめて低いというところ。あるいは無理にがんばるほど、なんだか悲しい結果に終わるところ。

「成果主義」が今ひとつうまく機能しないことが多いのは、たぶんどうでもいい他人がつける点数を気にして、自分の意思や感覚とは無関係な目標を立てて、その実現のためにエネルギーを割くという行為自体が、人の能力を減殺するからだ。

これはすごく重要かつシンプルな真実だと思うんだけど、人間は自分にとってどうでもいいことで力は出せない。

ベタな例をあげれば、「私」が「福山雅治」(でも誰でもいいけど)のように振る舞ったからといって、女性から「福山雅治」のような評価を得られるわけではないばかりでなく、素の「私」以下の存在に転落してしまう可能性が高い。

そのことには、おそらくほとんどの人が同意すると思うけど、こと仕事となると、それと実質的に同じことが普通に奨励されてるような気がするのはなんでだろう。

たとえば、いわゆるどろくさい接待営業に向いていないと感じている人間がいたとして、その人が「評価」のために仕方なく「仕事だ」と自分に言い聞かせて、無理にお得意さんを女の子のいるお店で接待する。

賭けてもいいけど、その人はどれだけ努力しても一定以上の能力を発揮することはできないし、評価もされない。

いや、俺は心の底からそういうことに向いてないけど日々努力を重ねて大きな成果を上げてるぜ、という人がもしいたら、これまた賭けてもいいけど、あなたは間もなく身体か精神を壊すぜ。

モテることや、評価されることを目的に自分の能力の半分も出せないことに費やすエネルギーがあるなら、自分がごく自然に力を出せることにそれを向けるべきだ。

ごく自然に力を出せることとは、具体的には「人から言われなくても自然にやっちゃうこと」であり、「放っておいても努力しちゃうこと」であり、「無理に自分を鼓舞しなくても時間を惜しまず取り組んじゃうこと」だ。一言でいうと「好きなこと」ですね。

そんなふうにしていれば、自然により質の高い何かが生み出され、人目にもより魅力的に映る。結果的により評価されることにつながるし、モテることにもつながる(少なくとも、評価されることばっかり意識して何かするより、その可能性は高い)。

そして、何よりもその方が自分のためにも世界のためにもなる。

猫格差 [Diary]

猫にも格差があるんだなあという話をしていて。

屋根を持ってる猫と持ってない猫。
コタツを持ってる猫と持ってない猫。
いつもカリカリが補充されるお皿を持ってる猫と持ってない猫。
好きな時に乗れる膝を持ってる猫と持ってない猫。
日の当たる縁側を持っている猫と持ってない猫。

でもそれは、
猫企業のせいでもなく
猫政治のせいでもなく
猫マネーのせいでもなく
猫グローバル化のせいでもない。

純粋に「運」とか「巡り合わせ」の問題でしかない。

そしてそれはおそらく、生まれて生きて死ぬというプロセスの中に組み込まれた、正しい格差だ。

焼きりんご [Diary]

「つばめグリル」でランチを食べていた母親と高校生くらいの姉妹の親子連れ。

その妹の方が、デザートの焼きりんご(アイスのせ)を一心不乱に食べる様子は、お母さんやお姉さんが話しかけても黙りこくって携帯をいじり回していたそれまでの様子とは打って変わって魅力にあふれていて、思わず焼きりんご以外に彼女の魅力を引き出す何かがこの世界にあることを願った。

遠赤外線みたいな影響力 [Diary]

公私ともに、絶対に変えなきゃならないことがある。

だけど物ごとのあり方を流れに逆らって無理に変えようとしても、まずうまくいかないばかりか、余計ひどいことになるのは、経験からわかっている。

必要なのは、じわじわと内側から浸透していく遠赤外線みたいな影響力だ。

そういう力を持った人なら今までに何人か見てきた。

そこにいるだけで、変えられないと思っていたことを変えたり、壊れないと思っていたものを壊したり、溶けないと思っていたものを溶かしたりするような人。

人は自分以外のものになることは絶対にできないけど、それでも自分もそういう人になりたい、と思う。

その人たちの共通点をずっと考えていて、それは例えば「いつも笑っている」ことだったり、「直接自分の力が及ぶことだけをする」ことだったり、「苦手なことをしない」ことだったり、「弱さを隠さない」ことだったりする。そして何よりも「闘わない」ということ。

簡単そうで簡単じゃないし、人間としての根本的なパワーが必要だけど。そしてほとんど全部が、今多くの人たちが教えられて育っていることと反対だけど。

そういう人になりたい。

レオ・バボータ「The Effortless Life」翻訳進捗状況 [レオ・バボータ関連]

レオ・バボータの「The Effortless Life」の翻訳進捗状況をRenji Talkで公開中。

あんまり実用的な意味はありませんが、主に個人的モチベーション維持の目的です。

Mですか?
はい、そうです。

ちなみに日本語訳の仮題は「エフォートレス・ライフ:楽に生きる」です。