デイブ・ワイナー「アウトライナーと父」 [アウトライナー]
デイブ・ワイナーのブログ Scripting Newsより「Outlining and my father」を「アウトライナーと父」として公開。
久しぶりのワイナーの文章はあちこち飛び回る文章で訳しにくいけど、とても楽しい。内容は、最初の商用アウトライナー・ThinkTankの開発者であるワイナーと父の物語。
大学でマーケティングを教えていたワイナーの父はアウトライン嫌いだったが、息子の作り上げたアウトライナーを通じてコンピューター上のアウトライン・プロセッシングに魅せられ、ある意味ではワイナー以上に深く理解するようになる。
息子のアウトライナーを愛し、「毎日が父の日だ」とまで言うようになった父の言葉をワイナーは照れ臭く思っていたが、今ではそれが父からの承認だったのだと思っている…。
ワイナー親子は遺伝子にまでアウトラインが染みついているという、とてもいい話です。
久しぶりのワイナーの文章はあちこち飛び回る文章で訳しにくいけど、とても楽しい。内容は、最初の商用アウトライナー・ThinkTankの開発者であるワイナーと父の物語。
大学でマーケティングを教えていたワイナーの父はアウトライン嫌いだったが、息子の作り上げたアウトライナーを通じてコンピューター上のアウトライン・プロセッシングに魅せられ、ある意味ではワイナー以上に深く理解するようになる。
息子のアウトライナーを愛し、「毎日が父の日だ」とまで言うようになった父の言葉をワイナーは照れ臭く思っていたが、今ではそれが父からの承認だったのだと思っている…。
ワイナー親子は遺伝子にまでアウトラインが染みついているという、とてもいい話です。
思考を停止させやすい言葉 [Thoughts]
新入社員。
社会人。
責任。
プロフェッショナル。
クオリティ。
常識。
付き合い。
対応。
リーダーシップ。
スピード感。
スケジュール。
段取り。
セキュリティ。
コンプライアンス。
成果。
評価。
管理。
仕事。
社会人。
責任。
プロフェッショナル。
クオリティ。
常識。
付き合い。
対応。
リーダーシップ。
スピード感。
スケジュール。
段取り。
セキュリティ。
コンプライアンス。
成果。
評価。
管理。
仕事。
レオ・バボータ「他人のために生きる」 [レオ・バボータ関連]
レオ・バボータのブログmnmlistより「living for everyone else」の日本語訳を「他人のために生きる」として公開しました。
多くの人が、人生の中で現実的に必要とは思えないという理由で、ミニマルな生き方をしない。しかし多くの場合、その意味するところは人から変に思われたくないということだ。
毎日同じ服を着ていれば、友人や同僚から変に思われるかもしれない。車を持っていないと変わり者だと思われるかもしれない。スマートフォンを持っていないと時代遅れになるかもしない。非常に小さな家やRV車に住んだりすれば、よほどお金がないか、さもなければ頭がおかしいと思われるかもしれない。肉も卵も乳製品も食べない絶対彩色主義者だと言えば、周囲の非・菜食主義者に目をむかれたり非難されたりするかもしれない。
しかし、私たちはいったい誰のために生きているのだろう。私は人を助けるためにはできる限りのことをしたいと思っている。しかし、他人の期待を満たすために生きれば、結果的に自分の望まない人生を生きることになる。
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集団の終わりと恋愛の終わり [Thoughts]
集団の終わりと恋愛の終わりって似てますね。
今まで維持されていた微妙なバランスが、ふと気がつくと崩れている。人によってはそのまま黙って離れていき、人によってはなんとか維持しようと必死になるけど、ある段階を過ぎると泣いても叫んでも崩れていくものを止めることはできない。
似てるぜ。
まあ〈集団〉を「二人以上の他人と他人の関係」と定義したとすれば、恋愛関係だって友人関係やらバンドやら劇団やらと同じ〈集団〉だからね。
そんなことを思ったのは、ここのところ集団や恋愛の終わりをいくつか立て続けに見聞きしたから。
それだけじゃなく、長い間危ういバランスで成り立ってきた(個人的に愛してやまない)ある集団が、危機を迎えているのかもしれないから。
あるいは、自分自身も、もしかしたら終わりつつある集団の中に身を置いているのかもしれないから。
※
集団を結びつける要素はひとつではないし、互いに複雑に絡み合っている。そしてそこには美しいものばかりがあるわけじゃない。
それでも声を大にして言いたいことがあって、それは集団を結びつけるもっとも重要な要素は、誰がなんと言おうと「愛」だということです。
今まで維持されていた微妙なバランスが、ふと気がつくと崩れている。人によってはそのまま黙って離れていき、人によってはなんとか維持しようと必死になるけど、ある段階を過ぎると泣いても叫んでも崩れていくものを止めることはできない。
似てるぜ。
まあ〈集団〉を「二人以上の他人と他人の関係」と定義したとすれば、恋愛関係だって友人関係やらバンドやら劇団やらと同じ〈集団〉だからね。
そんなことを思ったのは、ここのところ集団や恋愛の終わりをいくつか立て続けに見聞きしたから。
それだけじゃなく、長い間危ういバランスで成り立ってきた(個人的に愛してやまない)ある集団が、危機を迎えているのかもしれないから。
あるいは、自分自身も、もしかしたら終わりつつある集団の中に身を置いているのかもしれないから。
※
集団を結びつける要素はひとつではないし、互いに複雑に絡み合っている。そしてそこには美しいものばかりがあるわけじゃない。
それでも声を大にして言いたいことがあって、それは集団を結びつけるもっとも重要な要素は、誰がなんと言おうと「愛」だということです。
日焼けと素敵な野球場 [Diary]
こどもの日のDeNA—中日戦で、屋根のない横浜スタジアムのライトスタンドで浴びた西陽のせいで、予想通り一週間経っても左の首筋と両手首がひりひり。途中から「みかん氷」のボール紙でガードしてなかったら、もっとひどいことになったんじゃないかと思うけど。
それでもやっぱり、野球は太陽やお月様の下で風に吹かれながらみるものだと思う。白球が舞い上がるのは青空や夜空じゃなくちゃ。フライを見失うのは屋根の白さのせいじゃなくて太陽のせいじゃなくちゃ。
そしてこの日とても気分よく帰れたのは、同僚たちと(めずらしく)プライベートで会ったのが楽しかったらでもあるし、ベイスターズが(めずらしく)大勝したからでもあるけど、やっぱりそこが浜スタだったから。
個人的・素敵な球場の条件。一つ目はもちろん「屋根がない」こと。そして二つ目は「都市のど真ん中にある」こと。横浜スタジアムはJR・市営地下鉄の関内駅、みなとみらい線の日本大通駅からいずれも徒歩数分。しかも横浜市庁舎のすぐ隣。バックスクリーンの背景にはランドマークタワーが見える。大の男たちが白球を追いかけるグラウンドからスタンドを隔てた外は日常そのもののオフィス街、というのがたまらない。
簡単そうに見えるこの二つの条件を満たしてる球場は、実はそんなにたくさんはない。特に浜スタ以降に作られた球場は、ドームか都市とは言いがたい場所にあるものばっかりで、ひょっとして浜スタは「最後の素敵な球場」になってしまうのかと思っていたけど、その後朽ち果てそうだった宮城球場がKスタ宮城として復活し、広島にはマツダスタジアムが誕生し、流れが変わってきたのはうれしい。
特にマツダスタジアムは、本当は素敵な球場の三つ目の条件にあげたい「天然芝」も兼ね備えていて、今いちばん行ってみたい球場のひとつ。
※
大学生の頃、川崎でバイトした帰りに、よく川崎球場の前を通りかかった。当時川崎を本拠地にしてたロッテ(その頃はオリオンズ)の試合はいつもガラガラだったけど、それでもスタンドの向こうから聞こえてくる応援の太鼓の音や歓声、夕空に点灯する照明灯が醸し出す、独特な高揚感が好きだった。
環境・設備とも最悪な球場だったけど、試合の途中からでも入ってみようという気にさせられたのは、間違いなくドーム球場では絶対に味わえないあの感覚があったから。
野球そのものとは直接の関係ないそんなファクターが、意外に永年の野球好きを育てたりすることもある。
オールタイムもっとも好きな野球選手・落合はもう中日に移籍していなかったけど、ブーマーの弾丸ライナーのホームランも、南海(ホークス)との大乱闘も、高沢の盗塁もここで見た。
※
ちなみにこのエントリを書きながら、10年以上前に共同で仕事してた人のサイトに同じようなコラム(みたいなもの)を書いたのを思い出した。探してみたら今でもちゃんと残ってた。
それでもやっぱり、野球は太陽やお月様の下で風に吹かれながらみるものだと思う。白球が舞い上がるのは青空や夜空じゃなくちゃ。フライを見失うのは屋根の白さのせいじゃなくて太陽のせいじゃなくちゃ。
そしてこの日とても気分よく帰れたのは、同僚たちと(めずらしく)プライベートで会ったのが楽しかったらでもあるし、ベイスターズが(めずらしく)大勝したからでもあるけど、やっぱりそこが浜スタだったから。
個人的・素敵な球場の条件。一つ目はもちろん「屋根がない」こと。そして二つ目は「都市のど真ん中にある」こと。横浜スタジアムはJR・市営地下鉄の関内駅、みなとみらい線の日本大通駅からいずれも徒歩数分。しかも横浜市庁舎のすぐ隣。バックスクリーンの背景にはランドマークタワーが見える。大の男たちが白球を追いかけるグラウンドからスタンドを隔てた外は日常そのもののオフィス街、というのがたまらない。
簡単そうに見えるこの二つの条件を満たしてる球場は、実はそんなにたくさんはない。特に浜スタ以降に作られた球場は、ドームか都市とは言いがたい場所にあるものばっかりで、ひょっとして浜スタは「最後の素敵な球場」になってしまうのかと思っていたけど、その後朽ち果てそうだった宮城球場がKスタ宮城として復活し、広島にはマツダスタジアムが誕生し、流れが変わってきたのはうれしい。
特にマツダスタジアムは、本当は素敵な球場の三つ目の条件にあげたい「天然芝」も兼ね備えていて、今いちばん行ってみたい球場のひとつ。
※
大学生の頃、川崎でバイトした帰りに、よく川崎球場の前を通りかかった。当時川崎を本拠地にしてたロッテ(その頃はオリオンズ)の試合はいつもガラガラだったけど、それでもスタンドの向こうから聞こえてくる応援の太鼓の音や歓声、夕空に点灯する照明灯が醸し出す、独特な高揚感が好きだった。
環境・設備とも最悪な球場だったけど、試合の途中からでも入ってみようという気にさせられたのは、間違いなくドーム球場では絶対に味わえないあの感覚があったから。
野球そのものとは直接の関係ないそんなファクターが、意外に永年の野球好きを育てたりすることもある。
オールタイムもっとも好きな野球選手・落合はもう中日に移籍していなかったけど、ブーマーの弾丸ライナーのホームランも、南海(ホークス)との大乱闘も、高沢の盗塁もここで見た。
※
ちなみにこのエントリを書きながら、10年以上前に共同で仕事してた人のサイトに同じようなコラム(みたいなもの)を書いたのを思い出した。探してみたら今でもちゃんと残ってた。
流行。 [Diary]
GW中に自分の中で流行ったもの。
(流行った順)
吊り橋
滝
火山
ワシントンメトロ
インターアーバン
GM Newlook
Newton MessagePad
野球場
神主打法
変化球
バリライト
フェアライトCMI
天国
商店街
昭和天皇
(流行った順)
吊り橋
滝
火山
ワシントンメトロ
インターアーバン
GM Newlook
Newton MessagePad
野球場
神主打法
変化球
バリライト
フェアライトCMI
天国
商店街
昭和天皇
フリーターとノマドと集合的傲慢さ [Thoughts]
8年前、今の職場で働くようになったとき、自己紹介をすれば当然それまでの職歴を聞かれるんだけど(考えてみればそれもどうかと思うけど)、そのとき印象深かったのは「何年かフリーで自宅で仕事してました」と言ったときの反応。
「あー・・・」
みたいなちょっと反応に困るような。
続けて「立ち入ったことを聞いてすいません」的な反応だったり、「拾ってもらってよかったね」 的な反応だったり。
そうか、会社にずっと勤めてる人に「フリー」というと、そういう否定的なニュアンスで受けとられるのね、というのは発見だった。自分にはまったくそういう意識がなかったから(そしてある人からは「フリーターだったんだって?」と言われた——笑)。
※
ところが不思議なことに、最近では同じ話をすると目を輝かせて「え、ノマド??」みたいな反応をされることが多くなった。
そこには以前とは逆に、必要以上に妙にポジティブな響きがある。「そういう実力だけで勝負できるのっていいよなー」とか。「私もいつかそうなりたいんですよね」とか。
そうか、みんな「実力」に自信があるんだな。
でも「会社の中での実力」と「会社の外での実力」はかなり質の違うものだ。そして会社員でないということは、あるいは極小企業に属するということは「実力があっても金が入ってくるとは限らない」ということだ。
ノマドにしても起業にしても、実力がある(と思ってる)人ほど、そのあたりを甘く考えてるように思えるのは、なんだか危険。
背景にはメディアで(いいところだけ)語られるイメージというのももちろんあるけど、たぶんそれだけじゃない。
まだうまく表現できないんだけど、その変化の背後に今までになかったような「集合的な傲慢さ」みたいなものが感じられることが、なんだかすごく嫌なんだ。
少なくとも8年前にはあまり感じなかった感覚なんだけど、自分だけなのかな?
「あー・・・」
みたいなちょっと反応に困るような。
続けて「立ち入ったことを聞いてすいません」的な反応だったり、「拾ってもらってよかったね」 的な反応だったり。
そうか、会社にずっと勤めてる人に「フリー」というと、そういう否定的なニュアンスで受けとられるのね、というのは発見だった。自分にはまったくそういう意識がなかったから(そしてある人からは「フリーターだったんだって?」と言われた——笑)。
※
ところが不思議なことに、最近では同じ話をすると目を輝かせて「え、ノマド??」みたいな反応をされることが多くなった。
そこには以前とは逆に、必要以上に妙にポジティブな響きがある。「そういう実力だけで勝負できるのっていいよなー」とか。「私もいつかそうなりたいんですよね」とか。
そうか、みんな「実力」に自信があるんだな。
でも「会社の中での実力」と「会社の外での実力」はかなり質の違うものだ。そして会社員でないということは、あるいは極小企業に属するということは「実力があっても金が入ってくるとは限らない」ということだ。
ノマドにしても起業にしても、実力がある(と思ってる)人ほど、そのあたりを甘く考えてるように思えるのは、なんだか危険。
背景にはメディアで(いいところだけ)語られるイメージというのももちろんあるけど、たぶんそれだけじゃない。
まだうまく表現できないんだけど、その変化の背後に今までになかったような「集合的な傲慢さ」みたいなものが感じられることが、なんだかすごく嫌なんだ。
少なくとも8年前にはあまり感じなかった感覚なんだけど、自分だけなのかな?
レオ・バボータ「習慣化に失敗する方法」 [レオ・バボータ関連]
レオ・バボータのブログZen Habitsより「How to Fail at Habits」の日本語訳を「習慣化に失敗する方法」として公開しました。
レオ・バボータの最新著作「The Effortless Life」の日本語訳「『楽』に生きるための簡潔なガイド」公開中。購入していただいた方、ありがとうございます!
習慣化の方法を身につける以前の私は手詰まり状態だった。私は様々な習慣を身につけようとしていた——ランニング、健康的な食生活、早朝の散歩、借金の返済、先送りを止めること——そして失敗し続けていた。
実際のところ、失敗に関しては私は実に上手だった。
今からみれば、私のやり方は全て間違っていたことがわかる。私は失敗するべくして失敗していた。そして繰り返し失敗しながら何も学ばずにいるうちに、上手に失敗する方法を学んでしまっていた。失敗そのものが習慣化してしまっていたのだ。
何かを素早く身につけるために積極的に失敗することは大いに奨励したいと思う。だが、経験から学ばない限り、失敗はあまり役に立つとは言えない。そこで、私の苦い経験を少しでも役立ててもらえるよう、私が失敗の数々から学んできたことをみなさんとシェアしよう。
全文を読む
レオ・バボータの最新著作「The Effortless Life」の日本語訳「『楽』に生きるための簡潔なガイド」公開中。購入していただいた方、ありがとうございます!
レオ効果 [レオ・バボータ関連]
レオ・バボータの翻訳を大量にやってはいるけど、個人的にレオが書いてることを全て正しいと思っているわけではないし、中には賛同しかねる(あるいはとても無理だと思う)ことだってある。
レオの書いてることはレオだからできることであり、普通の人が現実に行うのは無理だ言う人の気持ちもよくわかる(よくそう言われるとレオ本人が書いてるし、ぼくも「フォーカス」を読んだ何人かから言われたことがある)。
それでも、レオには個人的に強く共感するし、彼の主張がぼくにとって現実的に大きな効果とインパクトをもたらしたことは間違いない。気がつけば、これまでに読んだどんな本よりも現実的な影響(そして恩恵)を受けてるかもしれない。それはおそらく、今を生きてる多くの人にとっても同様だと思うし、だからもっとたくさんの人に読んでほしいと思う。
ということで、レオをこれだけ紹介してる責任(?)もあるので、ちょっと具体的な「効果」の話を。
※
正直言って、今の生活の中で自由になる時間はとても少ない。平日は23時前に家に着けばマシな方だし、朝は7時前に家を出ることも多い。平日の睡眠時間は平均して4時間あるかないか。だから平日に何かすることは時間的にも体力的にもまず無理。
週末に仕事が入ることは多くはないけど、平日にはできない人生の大切な諸活動(笑)——妻と過ごすとか、買い物をするとか、掃除をするとか、実家に顔を出すとか、疲労を回復するとか——をしなければならない。
という環境で、決して長いものではないとはいえ、電子書籍二冊と多数のブログ記事の翻訳ができたということ自体が、「フォーカス」をはじめとする、レオの主張の有効性を証明してる、と思っている。
具体的にレオから(かなり自己流に)取り入れたのは、「いつまでに何かをする」という目標は立てず、やり遂げるなんていうことも考えず、週末になったらその時やりたいことの中から1つを選び、1〜2時間の間集中してそれをやる、ということだけ。
何をするかはあらかじめ決めない。あくまでもそのときやりたいと思うことをする。やりたくなかったら無理にやらない。やりはじめても乗らなければとっとと止めて、別のことをする。
時間帯は朝が理想だけど、それも無理に決めず、朝できなければ昼でも夕方でも夜でもいい。だいたい週末には妻と2人でスタバに出かけてお茶を飲むので、そこにマックを持ち込んで作業することも多い。
決まり事は、休める週末にはそれを習慣的にやる、ということだけ。
もちろんその時間は集中=フォーカスしなきゃ意味がないけど、そこは「やりたいこと」をやってれば自然に集中できる(やりたくないことを無理にやるから気が散る)。
週によっては先週の続きを「やりたくない」こともあるので、必然的にあっちをやったりこっちをやったりするんだけど、それでも毎週確実に何かが前に進む(ここが大事)。
そして、そうしてるうちに、時間はかかったけど「結果的に」電子書籍2冊の翻訳ができあがった。
※
ささやかではあるけど、個人的にこれはとてもとても大きな出来事だった。
それまでもやりたいことはたくさんあったし、やりたい気持ちもあったけど、気力と体力、そして何よりもモチベーションが続かず、今の環境で本業以外に何かまとまった作業をすることなんて不可能だと思ってたんだから(電子書籍の翻訳は「まとまった作業」と言って差し支えないと思う)。
最大のポイントは、もし「本を一冊訳す」目標を立ててがんばろうとしていたら、とても続かなかっただろうということ。
つまり、何をするかではなく、いかに努力するかでもなく、行為として「継続」することのハードルを下げることによって、言うは易く行うは難い「継続は力」を、結果的に実現させてしまう、と言えるかもしれない。
自己啓発とか生産性とか、その種の物ごとを語るとき無意識に前提にしてしまうあれこれ(時間をどれだけ有効に活用するかとか、どれだけたくさんのタスクを効率的にこなすかとか)を一度取っ払ってみると、レオの主張が実は人間というもののあり方を踏まえた、極めて合理的なものだということがわかってくる。
※
レオ・バボータの最新著作「The Effortless Life」の日本語訳「『楽』に生きるための簡潔なガイド」公開中。購入していただいた方、ありがとうございます!
レオの書いてることはレオだからできることであり、普通の人が現実に行うのは無理だ言う人の気持ちもよくわかる(よくそう言われるとレオ本人が書いてるし、ぼくも「フォーカス」を読んだ何人かから言われたことがある)。
それでも、レオには個人的に強く共感するし、彼の主張がぼくにとって現実的に大きな効果とインパクトをもたらしたことは間違いない。気がつけば、これまでに読んだどんな本よりも現実的な影響(そして恩恵)を受けてるかもしれない。それはおそらく、今を生きてる多くの人にとっても同様だと思うし、だからもっとたくさんの人に読んでほしいと思う。
ということで、レオをこれだけ紹介してる責任(?)もあるので、ちょっと具体的な「効果」の話を。
※
正直言って、今の生活の中で自由になる時間はとても少ない。平日は23時前に家に着けばマシな方だし、朝は7時前に家を出ることも多い。平日の睡眠時間は平均して4時間あるかないか。だから平日に何かすることは時間的にも体力的にもまず無理。
週末に仕事が入ることは多くはないけど、平日にはできない人生の大切な諸活動(笑)——妻と過ごすとか、買い物をするとか、掃除をするとか、実家に顔を出すとか、疲労を回復するとか——をしなければならない。
という環境で、決して長いものではないとはいえ、電子書籍二冊と多数のブログ記事の翻訳ができたということ自体が、「フォーカス」をはじめとする、レオの主張の有効性を証明してる、と思っている。
具体的にレオから(かなり自己流に)取り入れたのは、「いつまでに何かをする」という目標は立てず、やり遂げるなんていうことも考えず、週末になったらその時やりたいことの中から1つを選び、1〜2時間の間集中してそれをやる、ということだけ。
何をするかはあらかじめ決めない。あくまでもそのときやりたいと思うことをする。やりたくなかったら無理にやらない。やりはじめても乗らなければとっとと止めて、別のことをする。
時間帯は朝が理想だけど、それも無理に決めず、朝できなければ昼でも夕方でも夜でもいい。だいたい週末には妻と2人でスタバに出かけてお茶を飲むので、そこにマックを持ち込んで作業することも多い。
決まり事は、休める週末にはそれを習慣的にやる、ということだけ。
もちろんその時間は集中=フォーカスしなきゃ意味がないけど、そこは「やりたいこと」をやってれば自然に集中できる(やりたくないことを無理にやるから気が散る)。
週によっては先週の続きを「やりたくない」こともあるので、必然的にあっちをやったりこっちをやったりするんだけど、それでも毎週確実に何かが前に進む(ここが大事)。
そして、そうしてるうちに、時間はかかったけど「結果的に」電子書籍2冊の翻訳ができあがった。
※
ささやかではあるけど、個人的にこれはとてもとても大きな出来事だった。
それまでもやりたいことはたくさんあったし、やりたい気持ちもあったけど、気力と体力、そして何よりもモチベーションが続かず、今の環境で本業以外に何かまとまった作業をすることなんて不可能だと思ってたんだから(電子書籍の翻訳は「まとまった作業」と言って差し支えないと思う)。
最大のポイントは、もし「本を一冊訳す」目標を立ててがんばろうとしていたら、とても続かなかっただろうということ。
つまり、何をするかではなく、いかに努力するかでもなく、行為として「継続」することのハードルを下げることによって、言うは易く行うは難い「継続は力」を、結果的に実現させてしまう、と言えるかもしれない。
自己啓発とか生産性とか、その種の物ごとを語るとき無意識に前提にしてしまうあれこれ(時間をどれだけ有効に活用するかとか、どれだけたくさんのタスクを効率的にこなすかとか)を一度取っ払ってみると、レオの主張が実は人間というもののあり方を踏まえた、極めて合理的なものだということがわかってくる。
※
レオ・バボータの最新著作「The Effortless Life」の日本語訳「『楽』に生きるための簡潔なガイド」公開中。購入していただいた方、ありがとうございます!