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印象に残る雑な言葉 [Diary]

図書館におそらく先輩後輩と思われる男二人組がいて、積み上げた資料をめくりながら、
「お前どうすんだよ」
「わかってます」
「死ぬ気でやんないと取り戻せないぞ」
「死ぬ気でやります」
「やれんのかよ本当に」
「死ぬ気でやります」
「本当に死ぬ気でやれよ」
「死ぬ気でやります」
「わかってんのかよ」
「死ぬ気でやります」
みたいな会話を延々と続けていた。

どういう事情かわからないけど、図書館の静けさなんかまったく気にならないくらいに仕事が炎上してるか遅れているかしてるんでしょうね。何しろ「死ぬ気」なんだから。



何かを「死ぬ気でやれ」と言われた経験のある人はたくさんいるだろうし、言った経験のある人もたくさんいるだろうけど、思うに世の中の「死ぬ気でやれ」という言葉の9割以上は「死ぬ気」ってどういうことかを深く考えずに使われてると思う。

「死ぬ気で何かする」という言葉は確かにパワーがあるし、そのフレーズを発明した人はセンスあると思うけど、よく考えると「死ぬ気」ってすごいことだ。半ば慣用句みたいになってるけど、そんなことを軽々しく他人に強要してもいいのか?

いや、そんなに重く考えるなよと思った人は、たぶん雑な言葉を使っている。



今まで自分が使った雑な言葉の中でいちばん印象の残ってるのは「お前、耳ついてんのか?」というもの。

相手が話を聞いてなかったり、言うことを聞かなかったりしたときにしばしば使われる慣用句。そうだよね?

ぼくは(キャラとして)あんまりそういうもの言いをしない方だけど、大学生の頃バイト先の新人の女の子に対して一度だけその言葉を使ったことがある。「ちゃんと聞いてる?」という表現でも別によかったんだけど、特に深く考えずその表現を使った。

彼女に右側の耳がないことを知ったのはその少し後のことだった。
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机上の音楽2 [Diary]

自分の中で、勉強やデスクワークは音楽を聴くことと分かちがたく結びついている。ヘッドフォンで音楽聴いて、外界の音を遮断して、気配も遮断して、音楽のリズムと自分のリズムをシンクロさせる。集中度が全く違う。

前も書いたことがある気がするけど、子どもの頃、机に向かって勉強するということがどうしてもできなかった。普段勉強しないだけでなく、試験前の一夜漬けさえできなかった。勉強が好きとか嫌いとかいう以前に、机に向かって座っていることができない。

そんなわけで、中学校では(欠席日数が多かったこともあって)高校進学さえも危ぶまれる状態だった。なんとか単願推薦で高校には進学できたけど、その高校は入学初日に担任から「お前らの中でまさか大学に行けるなんて思ってるやつはいないよな?」と言われるようなところだった(本当にそう言われた)。

少なくとも中学校時代の成績ということでいえば、今の職場の同僚たちの中で間違いなくいちばん低かったと思う。もう、絶対の自信がある(笑)。

机に向かえるようになったのは、親や先生から知らないうちに植え付けられていた先入観から解放されて「音楽を聴きながら勉強してもいい」ということに気づいてから。高校2年のときだったけど、それがなかったら、人生は今とはずいぶん違うものになっていたと思う。

それから30年近くたった今でも「机に向かえない自分」は変わらずここにいる。昔より体裁をつくろえるようになっただけで。

残念ながら今の職場では仕事中に音楽を聴くということは難しい。

それでも先週、一時間かけてある作業を三分の一くらいまで終えたところで心底ウンザリして、(20時過ぎならいいだろうということで)ヘッドフォンをつけたら、残りの三分の二は30分で終わった。

へへ、そういうことだぜ。

そして、今の職場では音楽を聴きながら仕事できないというのも、誰かから植え付けられた先入観なのかもしれない、とふと思った。

へへ、そういうことかも。
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疲れをリスペクトすること [Thoughts]

やらなきゃいけないタスクがあるんだけど、なかなか手をつけられない。あるいは手をつけても集中できず、入り口あたりをぐるぐる回っている。

そういうときは、たとえば「タスクをより細かく分解する」と手をつけやすくなる。そういうことは知識としては知っているし、テクニックとしてそれが有効であることは、経験からもわかっている。

だけど、そもそもエネルギーレベルが低下していて、タスクを分解する気力がない、ということがある。

この「エネルギーレベルが低下した状態」のことを、日本語で「疲れている」という。そして、本当に疲れているときには、どんなハックもテクニックも役に立たない。

とても単純なこの真実を、テクニック論に偏ってしまうと忘れがちだ。

「そういうときは寝る直前にコーヒーやドリンク剤を飲むと目覚めがすっきりするよ」とか、「10分か15分だけ時間を区切って寝るといいよ」とか、ここでもテクニック論ですか。

思うに、疲れをリスペクトできないということは「人間としての自分」をリスペクトできていないということだ。

疲れというのは、心身を正常な状態に回復させるために人間に備わった機能だから。必要な栄養を取り込むために食欲があるように。身を守るために恐怖があるように。子孫を残すために性欲があるように。

うん、疲れていても休めないのが現代社会だよ。そんなことは知っている(よーく知ってる)。

でも、無理するにしてもがんばるにしても、疲れに対するリスペクトがあるのとないのとでは、たぶん長い時間の間には大きな違いになる。
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猫の神様 [Diary]

明け方から窓の外で親猫を呼ぶ子猫の声がするなとは思っていて、その声がいつまでも止まないものだからついつい探してみたら、生まれて1ヶ月もしない子猫が鳴いていたのはうちのベランダの真下のエアコンの室外機の裏側だった。

母猫は見あたらない。

すぐそばは綱島街道で、ひっきりなしにクルマが行き交っている。

子どもの頃から猫と育ったせいで猫は大好きだけど、家は賃貸だし、妻はアレルギーだし、家にいる時間は少ないしだから、中途半端な気持ちで猫と関わるまいと決めている。

でもこの世には運命というものがあるから、このまま母猫が戻らなくて、ベランダの下の鳴き声がだんだん弱くなって聞こえなくなったりしたら。猫の神様がそうまでして猫と関われと言うなら、覚悟を決めなければならない、かもしれない。

そういうことかい。あんたはこの忙しいときにそんな試練を与えようとしてるのかいと、猫の神様に呼びかけてみたけど、所詮は猫の神様なので「にゃー」ぐらいしか返事はなかった。

だけど夕方、少し気分を変えようと思って2人で散歩に出たら、普段猫を見かけない場所で次々に見慣れない猫に出会う。それもどの猫もびしっと座ってこっちを見ていて、「大丈夫だよ」と言っているようで。

その通り、夜のうちに母猫と思われる声が聞こえ、朝には猫の声は聞こえなくなっていた。母猫が戻ってきて、子猫たちを少し離れた安全な場所に移動したようだった。

耳を澄ますと、遠くの方からかすかに子猫たちの声が聞こえる(街道筋からも少し離れたようだった)。

猫の神様。
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優れた文章のアウトラインは美しい [アウトライナー]

はじめて就職した会社は、大手電機メーカー系列のソフト開発会社だった。

そこでの自分は何の役にも立たなかったし、ほとんど何も学ぶことはなかったけど(最低の新入社員だ)、ひとつだけすごく印象に残っていることがある。

それはある先輩が教えてくれた「優れたプログラムのコードは美しい」という話。

良いプログラム、つまり処理に無駄がなく動作速度が速いプログラムのコードは、見た目が美しい。

君たちはプログラマーとしての知識はほとんどないも同然だけど、美しいコードと美しくないコードを見比べればその違いはちゃんとわかる。美しいというのはそういう意味だ。

だから、与えられた機能目標を実現するという条件のもとで最大限に見た目が美しいコードを書く努力をしてほしい。それが、優れたプロクラムを作る近道だ。美しいというのはそれほど重要なことだ。

その会社は、いわゆるUIが問題になるようなエンドユーザー向けのアプリを作っているわけではなく、汎用機向けの業務用プログラムをCOBOLで開発しているところ(20年前の話だしね…)。

デザインとか美しさとは一見無縁の場所で、「美しさ」の重要性を説いていたその先輩の話にとても興味をひかれたのを覚えている。

ついでにいうとその先輩は、作業服がデフォルトだったその会社の開発者の中にあって、服装や持ち物にもとても気を使っていた。あんまり技術者には見えない、不思議な人だった。今どうしてるんだろう。



なぜそんなことを思い出したかというと、ある本を読みながらそのアウトラインを作っていて、とても美しいと感じたこと。アウトライン上に展開されたロジックがというよりも、書き出されたアウトラインというカタチの「見た目」そのものがとても美しかった。

確かに、美しいアウトラインと美しくないアウトラインというのは歴然として存在する。

本を読みながらそのアウトラインを作っていくと、きちんとした書籍でもアウトラインの美しいものとそうでないものがあることがわかる。そして多くの場合、アウトラインの見た目の美しさとその本の「面白さ」は、確かに関係している気がする。

文章を書いていく作業というのは、凡庸だったり混乱してたりするアウトラインを美しく整えていく作業ともいえる。

どうにもアンバランスで美しくなかったアウトラインをいじっているうちに、ある部分を入れ替えることでアウトライン全体が引き締まり、明快で美しいカタチになることに気づく。すると、本文の出来も良くなる。

アウトラインの見た目の美しさといっても、ひとつではない。

深すぎない階層、各階層に含まれる見出しの数、見出しの下の本文に含まれる論旨の数、そういった要素をアウトラインという形に展開したときに生まれるシンメトリカルな美しさ。あるいは、あえてバランスを崩したリズムや間の取り方の面白さ。結論に向けて一直線に流れる力強さ。

いずれにしても、優れたプログラムのコードが美しいのなら、優れた文章のアウトラインもまた美しいはずだ。
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健全な本能を働かせてみればわかること [Thoughts]

決して相手のリズムに合わせることなく、自分のリズムで言葉を注入し続けること。

それも、反論しようのない一見理屈の通った正論を、強い言葉で繰り返し繰り返し注入し続けること。

日本の組織や集団の上下関係の中で、日常的に行われていること。多くの場合それは「指導」や「教育」という形をとる。

でも、口にしていることがどれだけ正しくても、健全な本能を働かせてみれば、その背後に悪い性根が透けて見える。

「性質の悪い弱さ」と言いかえてもいい。

リズムと言葉で圧倒することは、個人が個人を支配するいちばん効果的な方法だ。そして、弱い魂が「支配する喜び」をいちばん感じられる方法だ。

健全な本能を働かせてみれば、わかる。
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心配症、あるいは意図せず「結果的に」人を救うこと [Diary]

もう20年近く前のこと。

アムステルダム行きの便で隣りに座った女の子が、到着までの間に心配していたこと(抜粋・途中からメモしていた)。



座席間違ってないでしょうか。
荷物落ちてこないでしょうか。
窓際って寒いですか。
飛んでる間、荷物落ちませんか。
飛んでる間、荷物偏りませんか。
飛行機落ちませんか。
空気漏れませんか。
救命胴衣の使い方見逃しました。
>>>
魚の方がおいしかったでしょうか。
もし通路側のあなたが寝てたら私はトイレに行けないです!
無理にトイレに行ったら起こしちゃいますよね。
そのときは起こしていいですか。
なのに私コーヒーを二杯も!
>>>
…トイレ行きます起こしちゃってごめんなさい!
>>>
トイレ長すぎませんでしたか。
「ミスタービーン」やばいです私笑い上戸で
うははははははははははは(ひー)←
私どうしてホームステイなんかすることになったんでしょう。
私の選択間違ってますか。
彼はそれを快く思ってないかもしれない。
彼、浮気しないでしょうか。
私がオランダで浮気したらどうしよう…!
その可能性も皆無じゃないですよね。
今からホームステイやめたら迷惑ですか。
>>>
今私、いびきかいてませんでしたか。
変な顔してませんでしたか。
>>>
ホストファミリーは迎えに来てるでしょうか。
スキポール空港、すごく広いって言うし…
オランダって本当に英語通じますか。
オランダ語しか通じなかったらどうしよう。
ていうか私、英語できない!
ホストファミリーに迷惑じゃないですか。
オランダ料理まずいですか。
オランダの人親切ですか。
>>>
空港でちゃんと荷物出てきますか。
荷物出なかったらどうしますか。
車輪ちゃんと出てますか。



不思議なのは、彼女の心配症をBGMみたいに聴き続けたせいで13時間のフライト中退屈しなかっただけでなく、1ヶ月続いていた原因不明の微熱やら、つい数週間前に仕事を辞めたことやら、祖母が亡くなったことやら、そんな状況で行きたくもないオランダまで出かけて父に会って仕事を辞めた理由を説明しなきゃならないことやら、そんな諸々に由来する身体のだるさも最悪な気分も、スキポール空港に着陸する頃にはほとんどなくなっていたこと。



人は、こんなふうに意図せず「結果的に」人を救ってしまうことがある。

願わくば、名前も聞かず(でも、彼女の荷物がちゃんと出てきて、ホストファミリーにもちゃんと会えたことも確認して)スキポール空港のロビーで手を振って別れた彼女のことも、自分が同じように「結果的に」救えてたら。
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今主張していることなんて簡単に反転してしまうものだ [Diary]

何かを主張しようとするとき、あるいは誰かを説得しようとするとき、アウトライナーを使って筋書きを考えることがある。

でも、そんな(不純な)目的でアウトラインの細部を詰めれば詰めるほど、自分の浅はかな論理なんかいくらでも変化してしまうことに、そして浅はかな結論なんかいとも簡単に反転してしまうことに気づかされる。

アウトライナー上のアウトラインはプロセス(過程)であり、常に流動的なんだ、と自分でさんざん言ってるにもかかわらず、そういうことがあるたびにショックを受ける。

今週も、そうだった。

こういうことがあるたびに、「一貫性がある」とか「スジが通っている」とか「ブレない」とか、一般的には褒め言葉と思われている、そんなあり方に本当に価値があるのか、疑わしくなってくる。

本当に真剣に何かを考えたら、一貫しない方が 、スジが通らない方が、ブレる方が当然だし誠実なんじゃないかと思う。

もちろん現実世界でいつまでもアウトラインを組み替えてるわけにはいかない。どこかで論理や結論を「固定」しなきゃいけない。そしてそれを(自信を持って、論理的に)主張しなきゃいけない。

だけど、今主張していることなんて簡単に反転してしまうものだということは、頭に置いておいた方がいい。

きっと、その方が後悔しない。
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内の世界と外の世界をつなぐ環境としてのアウトライナーを妄想する [アウトライナー]

書いたこと、考えたことをすべて放り込んだアウトラインがある。

その中からあるトピックを選択してツイートボタンを叩くと、ツイートとして流れる。ツイート後のトピックにはTwitterアイコンが表示される。

あるトピックを選択してブログボタンを叩くと、下位トピックまで含めて適切にフォーマットされたブログ記事として公開される。公開後のトピックには公開先を示すアイコン(WordPressなりTumblrなりはてななり)が表示される。

あるトピックをマークしてFacebookボタンを叩くと、下位トピックまで含めてFacebookに投稿される。公開後のトピックにはFacebookアイコンが表示される。

公開後もトピックはアウトラインの中に残り、自由に体系づけることができる。リプライやメンションやコメントがあれば、元トピックの下位に組み込まれる。

つまり、自分自身の体系があり、その一部を必要に応じて切り出して必要なカタチで必要な場所に公開する。アウトラインが、内の世界(整理された思考や妄想や記憶)と外の世界でのプレゼンスを繋ぐ。

アウトライナーの持つ無限の可能性のひとつとして、そんな環境を妄想している。

それにいちばん近いことを考えているのは、おそらくデイブ・ワイナーだと思う。
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怪物に勝てるのは健全さだけ。 [Diary]

自分の中の欠落した部分や過剰な部分について思いを巡らすとき、自分の中に、両親が見事に半分ずつ入っていることを嫌でも意識する。

つまりそれは、そもそもの最初から自分の中にプログラムされた欠落や過剰だということ。

もちろん今までもその欠落や過剰といっしょに生きてきたわけだし、これからそうして生きていくわけだし、もし自分に人と違う何かが少しでもあるとしたらそれはその欠落や過剰ゆえだし、そもそも人は自分以外のものにはなれないのだし、それでいいんだけど。

でもときどき、不摂生しすぎたり仕事しすぎたり身体なまりすぎたり風邪ひいたり喧嘩したりして体力や気力が落ちてるとき、その欠落や過剰が制御不能な怪物みたいに感じられることがある。特に恐ろしいのは、欠落や過剰が言葉と結びついて自己増殖をはじめたとき。

布団をかぶっても耳をふさいでも、それは自分の中にいて、逃げることはできない。

怪物に勝てるのは健全さだけだ。

Tak.さんは夜遊びもしないし深酒もしないし煙草も吸わないしキャバクラも風俗も行かないし健全だよね、でも人生の楽しみってそもそも不健全なんだよね、と言った人がいたけど、夜遊びや深酒や煙草やキャバクラや風俗なんかしてると、怪物に食われちゃうんですよ。

(ていうか、あなたの人生の楽しみ狭すぎだからね)
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