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しりとり [Talks]


意思
試行
迂闊

迷い
いがみ合い
育児
自己嫌悪
終わり
理解者
やっかみ
密会
いばら
落涙
意固地
自壊
偽り
理屈

みそぎ
疑惑
苦痛

追憶
苦楽
空白
クリスマス
水面下
会合
運動
右傾化
過激派
破壊
陰湿化
海外
痛み
水辺
ベンチ
チキンバスケット
得意料理
リバーサイドホテル
ルームサービス
スマイル
留美子…
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「男と女についての古典的ジョーク」 [その他翻訳]

デイブ・ワイナーのScripting News「A classic example of gender humor」より。

出典がどこなのかわからないけど面白いので訳しちゃった。
出典知ってる方いたら教えてください。
ちなみにもう15年以上結婚してますが、えーと、よくわかります。
彼女の日記
今日の彼は変だった。私たちは素敵なレストランでディナーの約束をしていた。友だちと一日中買い物をしていて少し遅刻してしまったので、そのことで彼が怒っているのかと思ったけど、彼はそのことについては何も言わなかった。会話が続かなかったので、どこか話やすい静かなところに行きましょうと提案した。彼は同意したが、それでもあまりしゃべらなかった。何が問題なのか聞いてみたが、「別に何も…」としか言わない。私のことで何か怒っているのかと聞いた。自分は怒っていないし、君にはまったく関係ないので気にすることはない、と彼は言った。帰り道、私は彼に「愛してる」と言った。彼はかすかに微笑み、運転を続けた。私には彼が理解できなかった。なぜ「僕も愛してるよ」と言ってくれないのだろう。家に着いたとき、私は彼を失ってしまったように感じていた。彼はもう私といたくないのだと。彼はただ静かに座ってテレビを観ていた。相変わらず上の空で、適当に相づちを打ちながら。やがて沈黙が訪れ、ベッドに入ることにした。15分ほどして彼もベッドに入ってきたが、まだ何かに気を取られ、心ここにあらずという感じだった。やがて彼は眠りに落ち、私は泣いた。どうしていいかわからなかった。彼の心が他の人の元にあることを、私はほとんど確信していた。私の人生は悲劇だ。

彼の日記
コードが動かない。なぜだ。

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文章書きはプログラマーの想像力に縛られている [アウトライナー]

日本の文章書きがコンピュータに出会ったのは、80年代にワープロ専用機が普及してからだった(ここでいう「文章書き」は、職業的な物書きだけでなく、日常的に文章を書く一般ユーザーのことね)。

だけど長い間、ワープロは「清書機」とみなされてきた。多くの人が意義を見出したのは、漢字仮名交じり文をキーボードで打てるということ、そして自分の書いた文章が美しい「活字」として印刷されること。当時のワープロのレビューとかは、まずは印字品質(そして飾り文字や罫線の種類)、そして漢字変換の性能を取り上げていた。

編集機能が思考プロセスに大きな影響を与えることに気づくユーザーもいたけど、開発メーカーも含めて、本質的には原稿用紙時代の発想から抜けられなかったし、この時代のワープロが文章書きのプロセスに劇的な飛躍をもたらすことはなかった。

文書容量の少なさが最大のネックだったけど、そもそも文章を編集することが、頭の中身も編集しているのだという発想自体が希薄だった。編集は文字や行単位で行うことが基本で、長文を再構成することは簡単ではなかった。「一太郎」などのパソコンワープロが普及しても、状況は似たようなものだった。

KJ法や情報カードを使った作業をコンピュータで再現しようとした試みもあったけど、紙の世界でもともとやっていたことをコンピュータの中でやろうとしても、「紙の方が柔軟でいいよね」ということにしかならなかった。



おそらく、物書きの世界に飛躍をもたらしたのは、プログラミングツールの発見だった。

プログラミングのための道具は、文章書きの役にも立つ。正確にいうと、コードを書くためにテキストを操作・編集するツール。

コードを書く作業というのは相互依存関係にある複雑なテキストファイルを大量に編集する作業だから、その効率が開発の生産性に直結する。そのために作られたツールが文章作成に役に立つのは当然のことだ。

80年代末から90年代初めくらいの時期。MS-DOSの世界(まだWindows以前の時代)の文章書きユーザーは、プログラミング用エディタ(MifesやらVZ Editorやら)とUNIX由来のテキスト処理ツール(grepやらsedやら)を「発見」した。

当時は入門者向けの書籍に、VZをハブにして各種ツールをバッチファイルでつなぎ合わせてテキスト処理するテクニックが載っていたりした。こうした処理は、原稿用紙のメタファーで思考しているうちは、思いつかないようなことだった。

一方マックの世界で、物書きはThinkTank、MOREといったアウトライナーを「発見」した。デイブ・ワイナ―が最初のアウトライナーを作ったきっかけは、フォールディング機能つきのLISP用エディタを目にしたことだった。その意味では、アウトライナーの紀元だってプログラミング用ツールなのだ。

文章の表示レベルを自由に変え、マクロ的な視点とミクロ的な視点を自由に行き来するというのもまた、原稿用紙や情報カードのメタファーからは思いつかなかったことだし、それまでは不可能だった思考プロセスの飛躍をもたらした。



で、その後。

Windows95以来、コンピューターを使う人は劇的に増えたけど、MS-DOSのテキスト処理ツールやアウトライナーのように、物書きのプロセスに飛躍をもたらしてくれる何かがあったかどうか。

確かにWEBが登場し、Googleが登場し、クラウドが登場し、Evernoteが登場し、Wi-Fiが普及し、スマホとタブレットを持つようになった。文章を書いて、保存して、活用して、公開して、共有するための環境は劇的に進歩した。

でも、文章書き(という行為)そのもののための道具がどのくらい進歩したかというと、実はそんなでもない、気がする。

Googleドキュメントは便利だけど、純粋に「書く」機能としてはデスクトップアプリを模倣してるだけで、何か新しいことができるようになったわけではない。Evernoteだって、ノートエディタはごく普通のリッチテキストエディタだ。その部分だけ取り出せば、90年代初めからほとんど変わっていない。



たとえば、EvernoteやSpotlight検索を使えば、保存した文書を見つけ出すことは簡単にできる。

でも、個人的には「今年自分が書いた全ての文章の中から〈猫〉という言葉を含む段落だけ抜き出して、それぞれの段落の1行目を見出しにしたアウトラインを作ってくれる」くらい、当たり前のようにやってくれていいと思う(これはつまり、自分が今年「猫」について何を考えてきたかをひと目で俯瞰することだ)。

一般ユーザーにそこまでのニーズはない、というのは誤解だ。

ブログのエントリやFacebookやメールまで含めれば、普通の人でもかなりの量の文章を書いてるし、文章を大量に書く人は、実はけっこう高度なテキスト処理のニーズを持っている。まして、仕事に関わる場合、あるトピックについて自分が書いたことを一気に引き出して加工したいなんていうことはいくらでもある。でも、一般の文章書きユーザーが手にしている環境では、簡単にはできない。

それができないのは、(ぼく自身も含めて)技術に疎いユーザーが、コンピューターで何ができるか本当には分かっていないこと。そして、分かっていたとしても自分の思うとおりのプログラムを自分では書けないからだ。

その意味では、文章書きはいまだにプログラマーの想像力に縛られてる、と言ってもいいかもしれない。「こんな高度なテキスト処理機能は必要ないだろう」という方向と、「必要だったらもっと高度なツールの使い方を覚えろよ」という二つの方向で。

今は、本物のテキスト処理ができるツールは、大多数の文章書きユーザーにはハードルが高すぎる。それに、本当は「テキストファイル」を編集するための機能と、「文章」を編集するための機能は微妙に違う。



今の段階で、プログラマー的想像力と物書き系想像力のバランスがいちばんいい具合に取れているのは、プロセス型アウトライナーだと思う。それは、この種のソフトの元祖であるデイブ・ワイナーが、優れたプログラマーであり、優れた物書きでもあるということと、たぶん無関係ではない。

でも、本当はもっとはるかに高度な機能が、文章書きに解放されていてもいいはずだと思う。今のコンピュータなら実現できるはずの、本当の文章書きのためのツールは、たぶんまだ存在しない。


ちなみに、Scrivenerは文章書きの発想で作られてるし、もっと先に行こうという志を感じるんだけど…。
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タスク管理できないこと [Thoughts]

ドトールで隣に座ってた大学生四人組が、就活の話題の流れで、父親の残業の多さや母親の家事の効率の悪さについて語り合ってるのを聞くともなしに聞いていた。

「今はアプリとかもたくさんあるのに、親の世代には〈タスクを効率的に管理する〉という発想がない」そうです(あの画面はToodledoだったなー)。



彼らの親よりも上の世代に、タスクを効率的に管理する発想が希薄だったことはたぶん事実。でもあたり前のことだけど、世の中には「タスク管理」という考え方が通用しないことだってある。しかもけっこうたくさん。

たとえば彼らの言っていた〈家事〉。

一見タスク管理と相性良さそうだけど、いかに管理しようと家事には終わりがない。どれだけ効率的にこなしても、前と変わらない姿でそこにある。家事の大変さは、ひとつひとつの作業の難度にあるのではなく、終わらないこと、前に進まないことにある。「管理」できると思ってると気が狂うよ。

他にもいろいろ。

たとえば本当に〈好きなこと〉。管理するまでもなく一日中そのことばかり考えてるだろうから。別のことをしててもそのことを考えている。やるなと言われてもやってしまう。コンテクストもデッドラインもない。いくらでもやる。終わらない。「管理」なんかしようとすると灯が消えるよ。

たとえば〈人との関係〉。好きな人を口説いたり、セックスしたり、別れ話をしたり、病気の家族と生活したり、壊れた関係を修復したり、難しい交渉をしたり、そういうことを「タスク管理」で効率的に進めようとしても通用しない。セックスを「管理」なんかしようとすると肝心なときに、えーと、まあいいや。



そう考えると、現実の生活の中でいわゆる「タスク管理」の考え方が額面通りに通用することって、実はとても限られている。

あるべき成果と期限が決まっていて、進め方にある程度の裁量権がある(多くの場合)ホワイトカラーの仕事や勉強。それに類するフリーランサーや研究者の仕事。生活の中の雑務。他に何があるかな?

もちろんタスク管理とはそうした分野で行うためのものだし、その範囲内で行うならとても有益なものだと思う。

でも、その他の本来管理できないことを管理しようとして管理できずに苦しんでる人って、けっこう多いような気がして。



ところでこの子たちの親の世代って何歳くらいかな。彼らが今ハタチとすると、えーと・・・あっ。
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結論を出さないことに耐えられる強さ。 [Thoughts]

かつては興味があった何かに興味が持てなくなってしまったとか。
かつては面白かった何かがつまらなくなってしまったとか。
かつての情熱がなくなってしまったとか。
自分の中から何かが消えてしまったとか。

そういうことはあんまり簡単に決めつけない方がいい。
興味や情熱は、繰り返し巡ってくるものだから。

灯を消さないためには、結論を出さないことに耐えられる強さを。
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歳を取ることについてのいくつかの断章 [Talks]

会話1
「君も40くらいになればわかるよ」
「…すいません、今年45歳になるんですけど」

会話2
「仕事の現場で若く見られて得なことなど何一つない」
「いえ、大目に見てもらえることが多くなります」
「おお、なんと低い志だ」

会話3
「人は、一瞬のうちに歳をとるんだ」
「そのセリフ、聞いたことがある」

会話4
「君は30代の半ばまで、年上の人とばかりいっしょに仕事をしてきた。つまり相対的に若かった。そして30代後半からは、どちらかというと年下の人といっしょに仕事をするようになった。実に絶妙だ」
「な、なにが?」

ステートメント
1. 人は創ることへの憧れを無くしたときに歳を取る。
2. 人は異性への憧れを無くした時に歳を取る。
3. 人は美しいものへの憧れを無くした時に歳を取る。
4. 人は知識への憧れを無くしたときに歳を取る。
5. 人は成熟への憧れを無くしたときに歳を取る。

噂話
(水をたくさん飲むのが秘訣らしいわよ)

評価
「しかし、貫禄ねえなあ」

感想
「どうしてこんなにかなしいんだろう♪」
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明快な文章さえあれば伝わることを図解することについて [アウトライナー]

「GUIにこだわりすぎたことが、すべてをだめにした。GUIが悪いと言っているわけではなく、GUIでできないことを無理矢理おこなった弊害がでている、ということである。第一の批判は、文字でできることをわざわざグラフィックスでおこなうことで、明晰性を失い、またコンピュータのメモリーも無駄遣いするようになる点だ。」

これは、奥出直人の言葉。何度も書いてる通り、奥出さんの「思考のエンジン」を読んだことが、ぼくがアウトライナーフリークになるきっかけだった。1990年頃のことだから、月日の経つのは早いものですね。

「思考のエンジン」では、(文章を書くことを通して)思考することについて、当時パーソナルコンピュータ上で使えるようになった各種ツール(アウトライナーとか人工知能を利用したアイデアジェネレーターとかハイパーテキストとか…)の話と、デリダをはじめとする現代思想を絡めながらの考察がすごく魅力的だった。

その奥出さんが「季刊・本とコンピュータ (1999年冬号)」誌上で発表した「コンピュータは本当に思考の道具か」という文章の一節が、冒頭の引用。

「アイコンをマウスで操作するGUIへの過度な依存が、思考の道具としてのコンピュータの発展を阻害してしまった」という内容は、ちょうどその頃、自分自身の中でコンピュータがつまらなくなってた理由を説明してくれてるような気がして、納得感があったのを覚えている。

で、最近この文章を読み返してみて改めて面白いと思ったのは、上の引用の「GUI」という言葉を「PowerPoint」に置き換えてみてもそのまま通用するような気がしたこと。

「PowerPointにこだわりすぎたことが、すべてをだめにした。PowerPointが悪いと言っているわけではなく、PowerPointでできないことを無理矢理おこなった弊害がでている、ということである。第一の批判は、文字でできることをわざわざグラフィックスでおこなうことで、明晰性を失い、またコンピュータのメモリーも無駄遣いするようになる点だ。」

そう、これってまさに自分が常々感じていることだ。



明快な文章さえあれば済む場面でPowerPointを使い、時間をかけて図解(のようなもの)を整えることで無駄に費やされている時間と労力がどれだけあるか、ということ。そして、多くの人にとってそれが「無駄」と認識されていないこと。

その背景にはたぶん「文章はわかりにくく図解はわかりやすい」という先入観がある。

もちろんある種の情報は文章で表現するよりも図解した方がわかりやすい。でも、明快な文章で表現した方がはるかにわかりやすいケースもたくさんある。

そして、本当にわかりやすい図を作ることは、簡単ではない。その労力をかける時間や気力がないときに無理に図解しようとすることで、あるいは図解するスキルが伴わない人(←私です)が無理に図解しようとすることで、逆効果になっているケースがあまりにも多い、と思う。

もちろん「明快な文章」を書くことだって簡単じゃないけど、きちんとした図解を作るほどの時間と労力はかからない。

ぼくも決して文章が明快な方じゃないけど(むしろくどい)、「てにをは」による論理関係を意識すること、箇条書きを適切に使うことなどで、ずいぶんマシになる。

そして、通常は図解されるような論理性・構造性も、かなりの程度テキストで表現できる。そのための方法が、立体的な箇条書きとも言える「アウトライン」だ。


ちなみにここで言ってるのは、人に何かを伝えるための資料の話。自分が考えるためにいろいろスケッチしてみるというのは、また別の話です。
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デイブ・ワイナー「男は、沈黙する」 [その他翻訳]

デイブ・ワイナー「Men Stay Silent」の日本語訳。

けっこう昔のものだし、アウトライナーともコンピューターとも何の関係もない(でも、アウトライナーで書いたのがありありとわかる)。だけど身につまされる。ワイナーがときどき書く、こういう文章が好き。

これを読むと、アメリカで「男」であるというのは大変なことなんだなあと思う。男は思っていることを口にしてはいけない。悲しかったり傷ついたりしてもいけない。そういうマッチョな意識は、日本よりもアメリカの方がおそらくずっと強い。

「男は」「女は」という表現が受け付けない人もいるかもしれないけど、個人的にはけっこういろんなことを考えされられた。大人であることとか、強さについてとか。

ワイナーの文章に出てくる「男」は実はそのまま「大人」に入れ替え可能だ。そして、英語のmanhood(男らしさ、男性性)という言葉には「おとな」という意味もあるのだよね。

以下、本文。


この記事を読む前に、コーヒーでも淹れてきてはどうだろう。
ながああああくなるはずだから。

この記事は、数年の間書きたいと思っていながらどう書けばいいのかわからなかったものだ。新年をきっかけに書くことができた。さて、どんな真実が明らかにされるのだろうか。

それでは楽しむことにしよう!

男の子の涙

数年前、私の家のプールでパーティをしていたときのことだ。大人も子どもも集まっていた。

6才の男の子が父親の元にかけより、抱きついて大粒の涙をこぼして泣きはじめた。

私は自分がそのぐらいの年だったときのことを思い出した。野球をしていてボールを取り損ねたとき、あるいはテストで悪い点を取ったとき、私は泣き出しては恥ずかしい思いをした。

何年もの後、私は友人の息子を眺めながら、感情をコントロールできないことに対して同情した。

若い女性の涙

長く付き合った恋人と別れる数週間前のこと、私たちはベッドの中にいて、私は突然夫を亡くした彼女の友人の話を聞いていた。

車には女性ばかり四人、車に乗っていた。前に二人、後ろに二人。彼女は車のフロントシートに座っていた。後席にい彼女の友人が抑えられず、声をあげて泣きはじめた。

自分を制御できなくなるほどの深い悲しみを感じるというのは、なんと恐ろしいことだろう。私はその話を聞きながら当時の自分に問いかけた。そこまで弱さをさらけ出さざるを得ないほどの痛みにどのように対処すればいいか、私には想像できなかった。

デイブの涙

数ヶ月後、テレビのメロドラマにもならないような別れの後、私は兄といっしょにジムでエクササイズをしていた。みっちりウェイトをやって、息を切らしながら私たちはサウナに入った。

そして、私にもそれが起こったのだ! 私は泣きはじめた。止めることができなかった。あらゆる感情が交じり合い、吹き出してきた。その涙は、もっとずっと大きな何かが爆発しそうになっていることの目に見えるサインだった。

数ヶ月前の私と同じように兄は動揺した。「やめろ、こんなところで!」と彼は言った。私は泣きながら笑いはじめた。素晴らしい気分だということを兄に知ってほしかった。その逆、つまり泣かないことよりもはるかに素晴らしかった。封じ込めておくことには膨大なエネルギーが必要だ。それを解放することの安心感といったら。

男は沈黙する

この歳になっても、私たちは男らしさを感情のコントロール能力で定義している。それが私たちを苦しめているし、私たちはそのことを知っている。

この問題には二つの側面がある。男性は自分の気持ちを表現してもいいのか、そして女性や他の男性はそれを許すのかということだ。

私は男性の話を聞くことが苦手だ。男性が自分の感じていることについて、あるいは目にしているものについて口にするのは、どこか妙な感じがする。私はその妙な感じを気にしないでいることを学んだ。話す気があるのなら、私は男性の話にも、女性の話と同じように耳を傾ける。

女性は自分について本当に自由に話す。話を整理し、教え、しつける。「男」になる方法を男の子に教えさえする。

男性は説明が下手だ。個人として輝くことができるが、自らのジェンダーに対するイメージを改善するために私たちは何もしていない。

コインの両面

男性は自らをもっと表現して欲しいという声を女性から聞くことがある。その点については言いたいことがある。

あなたたちが男性の言うことをもっと聴く姿勢を持てば、男性はもっと表現するだろう。

全てのコインには裏と表がある。私を含む多くの男性が、自らについての真実を、あるいは自分の目にしている物ごとを、口にすることを許されていないように感じている。このバリアはあらゆる場所にあるようだ。

考えるべきこと

さて、この記事についてどう感じただろうか?
あなたを不安にさせてしまっただろうか?
次に何がくるのかと思っているだろうか?
購読を止めようと思うだろうか?

でも、このことについて考えてみて欲しい。

私はここに書いたようなことを言いたいとは思わない。だからこそ言っているのだ。あなたは聴きたくないかもしれない。だからこそ聴くべきなのだ。

男は、沈黙する

男は、沈黙する。私たち男は、自らを表現するための言葉を操作する。自分たちの真の姿を封じ込める。そして、自分たちに対して世の中が抱いている幻想を実現しようとする。それが真実であろうとなかろうと。

要するに、私たちは自らを嘘で固める。言いたいことがあっても人々は耳を傾けようとしない。だから沈黙する。一部には怒りを爆発させる者もいるが、いずれにしても、私たちの本当の姿は見えなくなってしまう。

そして生気のない目で、死んだように生きる。

神話

男は強い。
男は恐れを知らない。
社会は男のためにある!

現実的になろう

全ての男には母親がいる。
男と女は互いを創り、共に世界を創る。
黙っているべき人などいない。

デイブ・ワイナー
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「倒れたいけど、倒れない」 [Diary]

たとえば学生に対して「社会人になったら簡単には休めないから」的なことを言ったことがある人は多いはず。

そう、〈社会人〉は仕事に対して責任があるから、休めない。

で、働き過ぎで体調を崩したり倒れたりした人に「きっとカミサマが休めって言ってるんたよ」的なことを言ったことがある人も多いはず。

そう、〈社会人〉も病気になったり倒れたりしたら休んでいい。



「そろそろ倒れたいんだけど倒れないんだよねー」という言葉を、職場で立て続けに耳にした。しかも、入社2年目とか3年目の若い後輩から。

そのフレーズをはじめて耳にしたのは何年か前のことで、何ヶ月も連続で160時間以上残業を続けていた同僚(女子、当時35才)からだったけど、最近定番化してるような気がする。

激務をこなしてるプライドに自虐を少し混ぜたうまい表現だと思うけど、背景には「倒れでもしない限り休めない/倒れれば休める」という認識がある。

同時に「まだ倒れないし、もし倒れたらそこで休めばいい」という、現代人の誰もが陥りがちな、傲慢さと無責任さも。



人が過労で倒れるときって、疲れがだんだんたまっていって、もうダメだ、これ以上は限界だと思って、それでも疲労がたまってついに限界を超えて倒れる、とは限らない。

むしろ、倒れるとは想像もしてないときに倒れる。

たとえば、睡眠時間三時間未満がずっと続いているのに、その日はいつもより体が軽くて、不思議に思いながら早朝出社→日帰り出張→とんぼ返り→深夜まで残業して、それでも疲れも眠気も感じず、さらに飲み会の二次会だか三次会だかに合流してお酒飲んでタクシーで帰る途中立ち寄ったコンビニで倒れて頭打って上半身血だらけになる、みたいな。

ま、三年前の自分の話なんですが。

要するに、自分の限界に対する感覚なんて、その程度のものだ。自分は限界を察知して寸前で止まることができるなんていうのは、自分の能力に対する過信、傲慢さ以外のなにものでもない。

倒れたら休めばいいという発想の浅はかさも、倒れた場所がコンビニじゃなくて駅のホームだったらと想像してみればわかる。

そして〈社会人〉としての責任を果たしてるつもりで、自分や大切な人を守るという最大の責任を軽んじてるということも。
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子どもの頃は知らなかった大人についての真実 [Diary]

大人も傷つく。
大人も弱い。
大人も寂しい。
大人も泣きたい。
大人も甘えたい。
大人も逃げたい。
大人も知らない。
大人も迷う。
大人も怖い。

※「大人」は「男」とか「社会人」とか「コンサル」とかいろんなものに入れ替え可能。
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