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コインランドリーについてのあまり意味のない文章 [Diary]

熱を出した夜に、洗いたてのバスタオルに頭を突っ込んで寝たら見た夢。

ぼくはまだ子どもで、ひとりで外国のコインランドリーの椅子に座っている。たぶん両親が戻ってくるのを待っている。外は雨が降っていて薄暗い。

昨日この国についたばかりだ。初めて目にする異国の洗濯機や乾燥機は信じられないほど巨大で、音も圧倒的だ。そして洗剤の匂いは初めて嗅ぐもの。

突然大きな若い男が乱暴に扉を開けて入ってくる。乾燥機がまだ回っているのを目にして舌打ちし、また乱暴に扉を開けて出て行く。

後には男の体臭と洗剤の匂いが入り交じった空気が残る。その中で、ああ自分は知らない国に来たのだ、と思う。子供心に。

それは40年近く前に実際にあった出来事で、そのときの不安な感じにも関わらず、ぼくはそれ以来コインランドリーが大好きなのだ。荒々しく、未知の国の匂いのする場所。



あるいはそんな夢を見たのは、この記事を読んだせいかもしれない。

コインランドリーガール

こんなふうに人生をみる視線は好きだ。



ところで、コインランドリーとはなかなかセクシーな空間だとも思う。

洗濯物という、本来生活のいちばん奥の方に位置するはずのものを、知らない人の目の前で広げるわけだから。

いや、そんなこと言ったら銭湯なんて、見ず知らずの人の前でハダカになるわけだけど、だからこそ「みんな同じ」「平等」という感覚がある(ハダカの付き合いという言葉だってある)。

コインランドリーは、平等になるためにはぎ取る「皮」の部分をさらす分、よりリアルにその人そのものを人前にさらしているような気がする。

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知的生産と能率の風景 [Diary]

アメリカで通っていた小学校の、正面入り口を入ったすぐ横に、「オフィス」と呼ばれる部屋があった。

オフィスは事務室と受付を兼ねたような部屋で、そこではデボラさんという黒人の女の人がいつもタイプライターを叩いていた。事務責任者兼校長秘書みたいな感じの人だったと思う。

オフィスにはいろんな素敵なもの(巨大なバインダーとかステープラーとかリーガルパッドとか)があった。ぼくはそこでデボラさんが仕事をする様子を見ているのが好きだった。

ある日の放課後、担任の先生に呼ばれた。何か手続に関することで学校からぼくの両親に伝えることがあるとかで、帰りがけにオフィスに寄って手紙を受け取っていくようにということだった。

言われた通りオフィスに行くと、デボラさんは「まだできてないからちょっとそこで待っててね」と言った。

デボラさんはまず大きなキャビネットを開き、「T」のところから一冊の薄いクリーム色のファイルを取り出した。ファイルの耳のところにはぼくの名前が書いてあった。彼女は挟んであった書類にさっと目を通し、今度はデスクの隅に置かれた小さな木の箱から青いカードを何枚か取り出した。

1枚のカードを目の前に置くと黒いペンで何か書きつけ、すぐ次のカードを取り出した。そんな感じで次々と7〜8枚のカードを書いた。どれも殴り書きという感じで何が書いてあるのかはわからなかった。

やがてデボラさんは書き終わったカードを集めて目の前に広げ、何枚かを入れ替え、しばらく眺め、また何枚かを入れ替えた。

そんな作業をしばらく繰り返した後、頷いて「これでよし(That should be good)」とつぶやいてにっこり微笑み、カードを傍らに置いておもむろにタイプを打ち始めた。キャリッジリターンの小気味よい音を一定の間隔で響かせながら、よどみなく、ほとんど変わらないペースで。

数分もしないうちにデボラさんは紙を引き抜くと、2枚重ねになっていたその紙の下の1枚をさっき出してきたぼくの名前の入ったファイルに挟み、元のキャビネットにしまった。そして残った1枚を不器用な手つきで折りたたんで封筒に入れ、「はい(there!)」と言ってぼくに渡してくれた。

はじめから終わりまで10分もかからなかった。今から手紙を書くというから30分くらい待たされるのかと思っていたので、とても驚いた。

それはおそらくぼくがはじめて目にした「知的生産」の、そして欧米的「能率」の風景だったのではないかと思う。その風景にぼくは強い憧れを抱くようになった。

それが、やがて日本の学校の職員室で、ヒモでしばって袋詰めされた原稿用紙の束を見たときの失望にもつながるんだけど、それはまた別の話、ね。

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夜の毒 [Thoughts]

「終わりの気持ちの相似形」の法則でいうと、夜、寝がけにネガティブな思考、たとえば不満とか怒りとか嫉妬とか後悔とか、そういうものが頭の中でぐるぐるしてる日々を続けるなら、たぶんそんなふうに人生を終えることになる。

不満や怒りや嫉妬や後悔が頭の中に満ちたまま、人生の終わりを迎えることを想像してみる。具体的にリアルにありありと。

それはとても恐ろしいことだと思う。そんなふうに1日の終わりを(人生の終わりを)迎えたくない、と思う。



でも、ネガティブな思考は夜にやってくることが多いのも事実だ。それも、深夜に。

周囲が寝静まった深夜、そんなネガティブな感情たちがやってくる。彼らは互いにフィードバックし、ループし、増幅していく。

それは苦しいことだけど、同時に甘美でもあることを認めよう。

それは自分の中の何かを刺激する。イマジネーションやクリエイティビティの源泉になってくれることさえある。世界には、その中から生まれた美しい表現、言葉やらメロディやらイメージやらが無数にあることは間違いない。

だからこそ翌朝(あるいは翌昼、翌夕方)いかに最低の気分であろうと、夜になるとまた同じことを繰り返す。ネガティブ思考には、特に深夜のネガティブ思考には中毒性がある。



だけど忘れてはいけないのは、あらゆる苦しくて甘美で中毒的なものは、自分を内側から蝕んでいくということだ。

夜の中には毒がある。
夜のことを信じてはいけない。

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センテンスを組み立てるためにアウトライナーを使う [アウトライナー]

以前も紹介したけど、ぼくはこのブログのような文章を書くとき、アウトライナーを使ってかなり細かく、ほとんど文節単位で改行しながら書いていく(人に見せると驚かれる)。

参考記事:
アウトラインぽくない文章をアウトライナーで書く

通常、アウトライナーは文章全体のロジックをコントロールするために使うけど、それだけでなくセンテンスのレベルにまで使っていることになる。

普段使っているOmniOutlinerであれば[command]+[control]+上下カーソルキー、Windows版Wordのアウトラインモードであれば[Alt]+[Shift]+上下カーソルキー、WorkFlowyであれば[shift]+[control]+上下カーソルキーで、アウトラインのトピック=行を上下に移動できる。

細かく改行された言葉のピースをアウトライナーの機能を使って入れ替えながら組み立てて行く。これで、カット&ペーストすることなく、かなりの程度までセンテンスを組み立ててしまうことができる。

もちろん最終段階ではエディタを使って行を結合して文章として仕上げるんだけど、最初からセンテンスとして連なったものをカット&ペーストで編集するよりも、はるかに楽で根気がいらない。



考えてみると、文章を書くときには「内容を考える」ことと、「内容を言葉に置きかえ、滑らかにつないで流れをつくる」ことという、まったく異なる作業を同時にやっているわけだ。これが頭にとって相当な負荷であることは想像がつく。

通常、アウトラインを作るというのは「全体の内容を考える」部分に相当する。でもどれだけ内容を検討し、アウトラインを組み立てても、最終的な文章を書く段階が楽になるわけではない。

個人的・書く気があるのに文章が書けなくなる典型的なパターン。

素敵な言葉の流れが頭に浮かんだけれど、ロジックとしてつなぎ合わせたときの説得力がなく、あーでもないこーでもないと考えているうちにフレーズが色あせて見えてくる。→嫌になる

逆にすごく説得力のあるロジックを思いついたけど、それを表現しようとした言葉の流れが素敵じゃないので呻吟しているうちに、ロジックがわからなくなる。→嫌になる

どちらにしてもアウトライン以降のセンテンスの段階で嫌になってるのだ。そして異なる2つの作業を同時にやろうとしていることに起因している。

それがうまくできなかったために、頭に浮かんだ言葉のピースを打ち出していく段階と、それを並べ替えて流れを組み立てる段階を自然に分けるようになったのだと思う。

(直接的なきっかけはたぶん、昔ある企業の社内報の作成みたいな仕事をしていたとき。その会社の支店や部署を回って社員さんにインタビューして記事を書くんだけど、話し言葉を文章にうまく変換できず、苦し紛れにやり始めた気がする)

それであまりにも劇的に楽になったので、自分の言葉を文章化するときにも同じやり方をするようになった。

これはアウトライナーを使ってはいても、いわゆる「アウトライン作成」とは違う。中身の文章そのものを書く作業だ。だけどキーボード(またはマウス操作)で行の前後配置を自由にコントロールできるという、アウトライナーの機能を前提にしている(普通のエディタでこれをやるのは厳しいと思う)。

センテンスレベルでもアウトライナーの機能が有効だということは、おそらくあまり意識されてないのじゃないかと思う。



この使い方は、アウトライナーの選択にも影響を与える。

まず、見出しと本文を区別しないプロセス型アウトライナーでなければならない。その上で個人的にOmniOutlinerやFargoを第1の選択とするのは、リターンキーを叩いたときの挙動だ。

通常のエディタの場合、行の途中でリターンをたたくとその位置に改行が挿入され、行が分割される。WordのアウトラインモードやWorkFlowyもそうだ。一方OmniOutlinerやFargoでは、行頭にいようと行末にいようと真ん中にいようと、リターンを叩けば新しいトピックがつくられる。

これはデイブ・ワイナーによる最初期のアウトライナーの作法を引き継いだものだ。

通常のエディタに慣れていると違和感があると思うけど、改行で区切られた言葉のピースを組み立てるプロセスに使っていると有難味を実感する。「行末にカーソルを移動する」というわずかなステップのために消えてしまうものが確かにある。

※なお、OmniOutlinerの場合、リターンキーを押したときの挙動は「新しい空き項目を作成」(ここで紹介している動き)と「現在の項目で改行を挿入」(通常のエディタと同じ動き)を選択できる。



ところで、ここで紹介した方法を使う場合、キーワードとなる単語だけを羅列してしまうと、あまりうまくいかない。

アウトライナーで操作するのは、文章の流れにそのまま組み込まれることを前提とした言葉の流れ(ストリーム)の断片。

以前、マインドマップを文章化するのは簡単ではないということについて書いたことがあるけど、たぶんそれと同じことです。

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ブラックボックスの中で手に入れたもの [Thoughts]

泳げないのに海に放り込まれて、なんとか浮き上がろうともがく。どうやるのが正解かなんてわかるはずもなく、ただ浮上しなければならないという意思=本能だけははっきりとあって、そのためにじたばたする。

結果的に、どうやったのかはわからないけどとにかく水面に浮上し、材木にでも掴まってなんとか命拾いをする。そしてまたあるとき海に放り込まれる。

そんなことを何回も繰り返し、ふと気がつくと泳げるようになっている。あるいは、水に浮かべるくらいにはなっている。最悪、投げ込まれる前にロープの在処を素早く確認できるくらいには。

人はそれを「経験を積んだ」「スキルを身につけた」と言うかもしれない。あるいは「強くなった」「タフになった」と言うかもしれない。

でもそういう言葉で表現できるものではないことを、自分だけは知っている。

海に投げ込まれなければ存在しなかったはずの何かを手に入れたとしても、海が何かを与えてくれたわけではない。放り込まれてじたばたする方にだって、何かを手に入れようという意思があるわけではない。どのようにしてそれを手に入れたのか、説明することなんてできない。それはブラックボックスなのだ。

ブラックボックスの中で手に入れたものに名前をつけることは誰にもできない。誰も言葉にはできない。

ただそれが存在していることだけがわかる。
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