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使い捨てのアウトライン [アウトライナー]

プライベートでは、ツイートよりも長い文章を書く場合はほとんど常にアウトライナーを使っているけど、FargoWorkFlowyが登場してから、職場でもずいぶんアウトライナーを使うようになった(最近まで職場で使えるアウトライナーといえばWordのアウトラインモードだけだったのだ)。

アウトライナーは、企画書やプレゼンの構成を考えるとか、プロジェクトの計画を立案するみたいな、「それっぽい」場面ばかりで活躍するとは限らない。

打ち合わせの前とか、ちょっと面倒な電話をかける前とか、プロジェクトがなんか面倒なことになりそうだとか、そういうときに頭を整理するためにアウトラインをつくる。

個人的な利用頻度としては、そんなカジュアルな使い方の方がずっと多い。

その場でさっと作って用が済んだら捨ててしまうような、文字通り「使い捨て」のアウトライン。作っただけで後は見ないことさえある。

きちんとしたアウトラインのカタチにはこだわらない。書き出すだけで、階層化やトピックの入れ替えというアウトライナーの機能を使わないことだってある。「頭の中を整理する」という目的さえ満たせればいいんだから。

じゃあ、普通のエディタやメモソフトでもいいじゃないかと言われるかもしれないけど、何かを考えるためにいちいち新しくファイルやノートを作らなくてもいいという、アウトライナーの手軽さとスピード感は、何ものにも代え難い。

何でも入れておける汎用のアウトラインをひとつ作って常に開いておけば、後はアウトライン上でリターンを叩くだけで新しいトピックができる。

もちろん、考えようとしてることが意外に複雑だったりややこしかったりしたら、階層化・折りたたみ・入れ替えというアウトライナーの機能がいつでも助けてくれる。

アウトライナーは、アウトラインを組み立てようなどと考えず、気軽に使うほど手放せなくなるところがある。

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国会図書館の目玉焼きサンドと阿刀田高さん [Diary]

子どもの頃、母がよく作っていた目玉焼きサンドが好きだった。

トーストした食パン2枚にバターをぬり、片面に千切りキャベツを敷く。その上に両面焼いた目玉焼きを置き、マヨネーズとケチャップを塗ってもう1枚のパンを合わせる。しばらく時間がたつとキャベツがしんなりして卵となじんでおいしい。

これ実家のオリジナルだとばっかり思ってたんだけど、実は昔(昭和40年代)の国会図書館の食堂のメニューだったらしい。母はぼくが生まれる直前まで国会図書館に勤めていた。

国会図書館での母の同僚に、阿刀田高さんがいた(既に作家としてデビューしていた)。実家には赤ん坊のぼくが阿刀田さんに抱かれている写真がある。母が退職後にはじめて挨拶に行ったときのものだ。

ぼくはそのときのことをかすかに覚えている。

知らないおじさんが満面の笑みでぼくを抱きあげ、そうしたらちょうど顔の横に長い紐があったので引っ張ったら何かが勢いよく跳ね上がって、ぼくはびっくりして泣いた(それは窓にかかっていたブラインドの紐だったのだ)。

その記憶は長い間ぼくの中にあって、あるとき家族に初めてその話をしたら、それが国会図書館で阿刀田さんに抱き上げられたときのものだということがわかった。大学生のときだったと思う。

そのとき、話の流れで国会図書館の食堂の話になって、実は例の目玉焼きサンドが国会図書館の食堂のメニューだったということが判明したのだ。

だからぼくの中では、国会図書館と目玉焼きサンドと阿刀田高さんが分かちがたく結びついている。

毎日書庫の中を台車を押しながら行ったり来たりして、お昼になると食堂で目玉焼きサンドを食べ、家に帰ってこつこつと「ブラックユーモア入門」を書く阿刀田高さん。

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変わることについての断章 [Thoughts]

機会があってこのブログの最初の方の記事を読み返してみたら、書いてることが明らかに(まだ30代だった)若いのでびっくりした。そして45歳の自分が抱えている問題には、まだ想像が及んでいないらしいことにも。

「20代後半のあなたは、20代前半には想像もつかなかったことを学ぶことになる。30代前半にも、30代半ばにも、30代後半にも(なんてことだ!)、そして40代前半にも。」
デイブ・ワイナー「スモーカーの特権、あるいは学び続けることについて」




そう思って今書いてることを55歳くらいになって読み返せば、若いと思うのかもしれない。そして55歳の自分が抱えている問題なんて今の自分には想像もついてないのだろう。もちろんワイナーさんも書いている通り、それは学びなのだとすればまったく悪いことではない。



(そもそも55歳の自分というものが存在するのかどうかさえ)



10年ぶりくらいに会った人から「あきれるほど変わらない」と言われた(お約束)。たぶん「変わらない」を褒め言葉として言ってくださってるのだけど。でもちょっとちくちくする場所はやっぱり10年前とは違う。



今の職場にはもう10年もいて、毎年何人もの新入社員が入ってきたけど、その中のある種の人たちはおそろしいスピードで変わっていく(ように見える)。正確にいうと、歳をとっていく。もっというと、オッサンになっていく。

みんながみんなではない。共通点は、ぼくよりもずっとずっと、社会や集団への適応能力の高い人たちだということ。そして男。



「変わらないように見えるものは変わり続けている」という古くから言われる真実について。

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希望でもあり絶望でもあること [Diary]

自分の主義主張を声高に叫んだり、頭ごなしに他人に押しつけたりする人をみるたびに、あなたたちはどうしてそんなにおめでたいのかと思う。

頭の中で何かを考える。そしてなにがしかの結論を出す。それは疑いようのない確固としたものに思える。そうして得た結論は、ある場合には「信念」として長年にわたって自分の行動を左右する。

でも、アウトライナーを長年使っているなかで学んだことは、主張なんて簡単に反転してしまう、ということだ。

たとえば人を説得しようとして、自分の出した結論、そこにいたる筋道をアウトライナーに取り込んでみる。そしてあれこれとアウトラインを操作する。

滑らかに気持ち良く流れるように文章を整える。引っかかりがあったり冗長だったりするところを滑らかに磨いていく。その過程でロジックを入れ替える(もっと気持ちいいように)。そして気がついてみると、結論がまったく逆になっている。

そんなことを何度も経験しているうちに、自分が長年信じてきたことも、もしアウトライナー(それはロジックを流動化する装置だ)に取り込んだらあっけなく崩れてしまうのではないかと思うようになった。

ひょっとしたら、結論なんてその程度のものなのではないかと。その感覚は自分の肌感覚の中にくっきりと埋め込まれている。

この間後輩にそんな話をしていたら、それってつまりどんな結論も信用できないってことですよね。けっこう絶望的な話ですね、と言われた。

そう言われれば、たしかに絶望的なような気もするな。

でもそこであらためて不思議だなと思ったのは、ぼくはそのことを希望だとばかり思っていたということだ。

「流動的ですね」

うむ、そのとおり。

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ランダムなバイリンガルではなかったこと(あるいはモードチェンジ) [Diary]

翻訳の気持ちよさって、日本語モードと英語モードの間を行き来することそのものだ。何度も行き来しながら、その両方で生じる違和感を徐々に削っていく。それぞれに移ったときに感じるでっぱりやひっこみが、徐々に削られて滑らかになっていく快感。

で、ふと思ったのは、この行きつ戻りつしながら頭がシャッフルされる快感て、おそらくランダムなバイリンガルの状態では味わえないんじゃないかということ。

「ランダムなバイリンガル」というのはぼくが勝手に作った言葉だけど、いわゆる日本語と外国語(ぼくの場合は英語)を「ちゃんぽん」で使うこと。

「McDonald's好きだけどさ、Lunch timeだとstay in the rowしなきゃならないからI hate to」みたいな。

この状態だと、英語と日本語の間を行き来するということがそもそも必要ないのではないかと想像する。

というのは、ぼくは子どもの頃英語ネイティブだったけど(今は違う)、ランダムなバイリンガルだったことは一度もないから。



当時から、頭の中では英語モードと日本語モードが明白に分かれていた。英語モードのときは思考も含めて英語に切り替わる。日本語が入る余地はない。日本語モードのときはその逆。混ざることはない。

でもそれは周囲の期待とは違ったみたいだ。

アメリカに住んでいたのは1975年から1980年の間。で、その時代のいわゆる「帰国子女」のイメージが、まさにランダムなバイリンガルだった。でも、ぼくはまったくそうではなかったので、周囲はかなりとまどった、らしい。

ランダムなバイリンガルにならなかった理由はいろいろあると思う。英語に触れた年齢が6歳と比較的高く、既に日本語がある程度固まっていたこと。そして一人っ子で家に帰れば話し相手が両親しかいなかったこと。

でも、なにしろ子どもはすぐに英語ペラペラになって、日本語とまったく区別せずちゃんぽんでしゃべるようになるものだというイメージのせいで(さすがに今はそんなのないよね)、両親は(特に父親は)、ぼくの言葉にいつまでも英語が交じらないことを本気で心配していたふしがある。家で突然「今話していたことをもう一度英語で言ってみろ」なんて言われたりして(言うかよ)。ようやく安心したのは、友だちと実際に英語で会話しているのを耳にしたときだった、と後からきいた。

日本に帰ってきてからも「本当に帰国子女なの?」とよく言われた。ここでまた閉口したのが、授業中に「これは英語で何というのかみんなに教えてやってくれ」とか「先生より発音がいいだろうからTak.に読んでもらおう」とかしばしば言われたことで、日本語モードのときにそんなこと言われても単語も浮かばないし発音も切り替わらないわけで、だから沈黙してると反抗的な態度と受けとられて、まあいろいろあったわけだけど以下略。

とにかくそんなことがあって、ずいぶん長い間、英語というものが愛憎半ばするというか、どっちかというと憎の方が多いというか、あんまり関わりたくないというか、そんな存在だった(それでいて英語の力を借りてなんとか大学に入れたんだから勝手なものだけど)。

英語に対して素直に向き合えるようになったのは、二十代の半ばになってからだ。



でも今になって、誰に頼まれたわけでもないのに翻訳なんかしていてつくづく思うことは、自分の言葉の使い方とか思考のベースには間違いなく英語があるんだということだ。というよりも、日本語モードと英語のモード切り替えそのものにあるんだということ。

英語の感覚と日本語の感覚を行き来することが、考えたり言葉を選んだりする行為と切り離せなくなっていること。日本語で文章を書くことも、英語的な思考やリズムを日本語に置き換える作業として行っていること(もちろん英語で考えてるわけではないけど)。

ランダムに混じることはなかったけれど、だからこそお互いに行き来し、置き替え、シャッフルすることで、より深く、分ちがたく、避けがたく自分のコアに刻みこまれてること。



そして今になってみればそれはやはり宝物だということ。

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スモーカーの特権、あるいは学び続けることについて(デイブ・ワイナー) [その他翻訳]

2003年のデイブ・ワイナーの小品エッセイ「Smokers only」の翻訳です。Scripting Newsのアーカイブには、こういう小さいけれど素敵なエッセイがたくさん埋もれています(ワイナーさんには自由に翻訳することを許可いただいています)。

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煙草を吸っていた頃は、よく喫煙者同士で喫煙所でたむろしたものだった。煙草をやめていちばん懐かしく思うことのひとつがこれだ。喫煙所は立場も年齢も超えた、議論に最適な場所であることが多い。喫煙という共通項が、他のあらゆる属性__年齢、性別、職業__を超越させてくれるからだ。

あるリゾート地の喫煙所で交わした会話を今でも覚えている。そこはそのリゾート地で唯一喫煙可能な場所だった。相手は当時20代前半の男。たいした話ではない。ただ若者と年寄り(当時私は40代前半だった)に関する最も重要なテーマについて話したというだけだ。

「デイブ、なぜあんたは俺より頭がいいと思うんだ?」というのがそれだ。別の言い方をすれば「おっさん、あんたは何もわかっちゃいない」ということだ。もちろん、若者が年寄りに対して言いたいことは、だいたいそんなような感じだ(と私には感じられる)。

さて、私はこの若者よりも頭がいいのだろうか。

もちろんそんなことはわからない。頭の良さを測定する客観的な指標がない限り。だから私にできるのは、持論を述べることだけだ。ただし、持論を補強するために科学的な手法を用いることはできる。そこで私はその若い友人にいくつか質問をした。

「君は今いくつだい?」
「22歳だ」
「じゃあ、自分は18歳のときよりも賢くなったと思う?」
「もちろん! 18のときの俺はただのアホだったよ」
「じゃあ15歳のときと比べたら?」
「15のときの俺は何も知らないガキだった」

(このあたりでとどめをさしにかかる)

「じゃあ、学びは22歳で止まると思う?」

答え:もちろん学びは22歳で止まったりはしない。20代後半のあなたは、20代前半には想像もつかなかったことを学ぶことになる。30代前半にも、30代半ばにも、30代後半にも(なんてことだ!)、そして40代前半にも。学びにつながるのは自身の体験だけではない。たとえば親の死。あるいは子どもの大学進学。そして、自分ではどうしようもないことも(心臓バイパス手術とか)。

人生でいちばん素敵なことのひとつは、死の瞬間まで学び続けられるということだ。それは生きることの最大の楽しみのひとつでもある。なぜかはわからないが、純粋な学びは喜びをもたらしてくれる。学んだことが実際に役立つかどうかとは関係なく。周囲の年寄りに聞いてみてほしい。

ちなみにその若い友人の意見は、煎じ詰めれば「学びは22歳以降は発生しない」というものだった。彼の電話番号かメールアドレスを聞いておけばよかったと思う。彼は今27歳くらいになっているだろう。今の彼にぜひ聞いてみたいことがある。

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ある種の痛みの解釈 [Thoughts]

ある出来事に対して、今よりずっと若い頃と同じような結論を出し、同じような行動を取ったとする。

我ながらウンザリするほど昔と変わらないと思いつつ、結果として痛みを感じる場所は、若い頃とはずいぶん違うことに思い至る。

身体の痛みに身体を守るという機能があるとすれば、この種の痛みにはどんな機能が、あるいはどんな意味があるのだろうと思う。

昔と違ってその痛みについて適切に言葉にできる能力を少しは身につけたと思っていたのは、もちろん錯覚だ。

(あるいは、痛みを感じることができるという救い)

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夏の夜空の箇条書き [Thoughts]

何もかも包み隠さず話すよりも、全ては話せないと認める方が誠実さを要求される(場合もあるよね)。

勇敢に闘うことよりも、闘わずに逃げたと思われることに耐える方が強さを要求される(場合もあるよね)。

一生君を守っていくと誓うよりも、君と一緒にいると楽しいと毎日伝える方が愛を要求される(場合もあるよね)。

常に人を楽しませようと努力することよりも、自分自身が楽しむことの方が人を楽しい気持ちにさせる(場合もあるよね)。

いつも笑顔でいようと心がける人の笑顔よりも、知り合って半年目にして初めて目にした心からの笑顔にひかれる(場合もあるよね)。

毎日のように飲み会やイベントで盛り上がるより、みんながそれぞれの私生活を過ごしているんだなあと感じることの方が心の距離が縮まる(場合もあるよね)。

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