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2014年の「好きなブログについて」 [Diary]

今日まで11月です。間に合った。

昨年初めて書きましたが、もうあれから1年たったんですね。
2013年の「好きなブログについて」

さて2014年版ですが、もともとそんなにたくさんのブログを購読しているわけではない上に、去年からあまり数も増えていません。

でも、去年から今年にかけては、自分の中で確かなインパクトのある個人ブログに複数出会うことができました。とても幸せなことです。

そのうちの3つだけ、紹介させていただきます。


23 Seconds Blog
http://23secblog.blogspot.jp

文章が好きです。

いわゆる「上手い文章」というのとは違う、でも絶対真似のできない文章があるとすれば、このブログです。

管理人である響くんの文章は、何かを強く主張するということをしません。自分の思考を、あくまでも淡々と書いています。

淡々としているにもかかわらず、数行先に何が出てくるかまったく予測できません。予測できないのに、するするという感じで読み進むことができる不思議なリズム感があります。

数学やプログラミングの話など、ぼくには理解できない内容の記事もけっこう多いのですが、それでも読むことが苦になりません。

そして、読み終わると必ず何かしらの手応えが残ります。自分の中の何かがごくわずかですが変化したような手応えです。


るうマニアSIDE-B
http://ruumania.postach.io

もともとはメインブログの「るうマニア」があって、SIDE-Bはサブブログという位置づけでした。

「るうマニア」は、管理人のるうさんがぼくの記事に関連した内容の記事を書いてくださったことがきっかけで読み始めたのですが、るうさんのブロガーとしての真骨頂は、その少し後でスタートしたSIDE-Bの方にあるのではないか。

と思っていたところ、先日SIDE-Bが晴れてメインブログに昇格しました。

「るうマニアSIDE-B」の内容は多様です。

でも、ブログはこうあるべきという(おそらく以前の「るうマニア」時代には存在した)枠がはずれたことで、よそ行きでない、るうさんがもともと持っていた世界がずるずると出てきた感じがします。

思索あり、片岡義男あり、Evernoteやアウトライナーについての考察あり、叙情詩(?)あり、翻訳ありという雑多な中に、通底する何かが確かにあります。直接言葉にはされていないその部分にひかれます。

読者としてもうまく言葉にすることは難しいのですが、「言葉」や「時間」や「考えること」や「生きること」について、実際に生きたり考えたり読んだりしてきた経験分の重みが加味された何かです。


単純作業に心を込めて
http://www.tjsg-kokoro.com

まずタイトルが素敵です。とんでもなくピンポイントでありながら、とんでもなく壮大なタイトルです。

管理人の彩郎さん(ずっと読み方がわからなかったのですが「いろどろう」さんです)の書く記事のスタイルは、(基準が自分で恐縮ですが)ぼくのブログの対極、真反対です。

どこまでもロジカル、かつ構造的。どの記事も徹底的に整理され、きちんと見出しがつけられています。見出しはすべて冒頭の目次に反映されています。ブログでこれほど構造化を徹底しているものはめずらしいのではないでしょうか。

面白いのは、通常はあんまり構造的に書かないであろう内容でも、徹底的に構造化してしまうところです。どうしてそこまでするのかと最初思うのですが、構造的でない内容を構造化することによって浮かび上がってくるものが、確かにあるのです。

これは大きな発見でした。

そして、書き方が対極なのにもかかわらず、「大量の書きかけの文章群を管理することの重要性」など、文章(を書くこと)について、ぼくとまったく同じことを考えていたりもします。反対側から登って同じ場所に着いたみたいな感じです。

これも読んでいて楽しみなところです。



「ブログとは、他者によって編集されていない個人の声である」
(デイブ・ワイナー)


キノシタさん [Diary]

道ばたの猫を見ていたら、キノシタさんのことを思い出した。キノシタさんは、これまで知り合った人の中でいちばん猫に似ている人だ。より正確に言うと、野良猫に似ている人。本人はそれほど猫は好きではないようだったけど。



キノシタさんは、20代の頃に勤めていた小さな会社に出入りしていたフリーランスの人だ。

ぼくがその会社の社員だったときには、社員と外注先のフリーの人という関係。後にぼく自身がフリーになった後には、同じ仕事に関わるフリーランス仲間という間柄。当時、40代後半くらいだったと思う。



キノシタさんは、今フリーランスという言葉からイメージされがちな人とはずいぶん違う。

基本的にぎりぎり食べていくための仕事しかしない(というかお金がなくなったときだけ働く)。逆にお金が入ってくるとしばらく音信不通になってしまうので、入金した後に手直しや確認事項が発生するととても困った。



当然ながら、キノシタさんは貧乏だった。

いつ会っても同じ服を着ていた。冬は白いシャツに茶色いジャンパーにジーンズ、夏は白いシャツにジーンズ(シャツはたぶん同じもの)。鞄は持たず、いつも二つ折りにした紙袋を小脇に抱えていた。

ひとり暮らしで、基本的に一日一食しか食べない。事務所に来る日は、会社のそばで買ったお弁当。来ない日に何を食べてるのかは知らない。足りない分のカロリーは、主にアルコールから摂取していた。

お金が入ってきたらまず酒と煙草を買い、それから生存のために必要なもろもろの費用(最低限の食費、光熱費、家賃とか)を支払い、それ以外のお金のほぼ全てを本とパソコンに使う。



キノシタさんはいつも分厚い本を読んでいた。事務所に来ているときも、仕事の合間に打合せスペースで本を広げていた。もちろん、仕事の時間よりも合間の時間の方が長い。例の紙袋の中には常に何冊か予備の本が入っていた。

社長がからかうように「いつも何の本読んでるの?」と聞くと、「フランスものですよ」とだけ言った。



キノシタさんは、本と同じくらいパソコンが好きだった。

キノシタさんはパソコンが苦手な社長に頼まれて、パソコン及びソフトの選定と購入、そして設定を一手に引き受けていた。

キノシタさんが選んだパソコンは妙に大きくて、妙に白くて、妙に安くて、妙にハイスペックで、妙にマニアックなエディタが入っていた。起動すると妙な常駐ソフトがロードされたけど、その目的はキノシタさん以外誰にもわからなかった。

当時その会社で必要なソフトといえばOASYS-Win(ワープロ専用機OASYSの機能を再現したワープロソフト)くらいしかなかったのだけど。

キノシタさんがいないときにパソコンの調子が悪くなるとみんなとても困ったけど、そもそもキノシタさんは年の半分以上はいなかった。



キノシタさんは、おそらくぼくが今まで出会った人の中ではいちばんタイピングが速かった。しかもタイプしている間は呼吸をしなかったので、キノシタさんが事務所で仕事をしていると、

だだだだだだだっ・だだだだっ・だだだだだだだだっ・(沈思)・だだだっ・(ふーっ)(すーっ)だだだだだっ・だだだっ・(黙考)・(黙考)・っだだだだだだだだだだだっ・(ふぅぅぅ)

みたいな感じなので、なんだかとても息が苦しくなった。



キノシタさんは個人主義者、かつ原則に忠実な人だった。

ヘビースモーカーであると同時にノンスモーカーの権利にひどく敏感で、ノンスモーカーの前では絶対に煙草に火を付けなかった。これは当時のスモーカー(しかもこの年齢の)にしては希有な例だった。



キノシタさんは激しい人だった。

岡山からの出張帰りの新幹線で、キノシタさんはひとり離れた席に座って本を読んでいた(ちらっと覗いたらバタイユだった)。

禁煙車だったので、キノシタさんは15分に一回くらい、煙草を吸いに席を立った。当時の新幹線はまだ禁煙車の方が少なかったけれど、そのときのメンバーはキノシタさん以外は全員ノンスモーカーだったのだ。

新大阪から乗り込んできた会社員二人組がキノシタさんの前の席に座り、そのうちの一人(上司の方)が煙草に火を付けた。部下の方が「○○さん、禁煙車ですよ」と注意したが、上司は「かまやしねえよ」と言って煙を吐き出した。

次の瞬間、キノシタさんは彼らの椅子を後ろから思いっきり蹴とばして「吸ってんじゃねえよ」と怒鳴った。普段のキノシタさんの、ぼそぼそした聞き取りにくい声からは想像もつかないような恐ろしい声だった。

威勢のよかった上司の方は一瞬あっけに取られた後、「すいません」と小さな声で謝ってすぐに火を消し、そのまま東京に着くまで一言もしゃべらなかった。

キノシタさんは何事もなかったようにバタイユを読み続けた。



キノシタさんは、基本的に「アルコール以外の液体は飲まない」人だったけど、ある時期からスポーツドリンクとか「桃の天然水」とか、そういうものをやたらとたくさん飲むようになった。のどが渇くんだよね、と言って。

朝、1リットルとか1.5リットルのペットボトルを買ってきて、昼までに飲み干してしまう。貧乏なキノシタさんにとっては、その出費はばかにならないはずだった。いや、それ以上にその意味するところは、キノシタさんにもわかっていたはずだった。

あるとき、小銭の持ち合わせのない(というかたぶんお金の持ち合わせのない)キノシタさんに、「桃の天然水」の1.5リットル入りを2本おごったことがある。

「悪いね、今度返すから」
「いいですよそんなの」みたいな会話をした。

それがキノシタさんに会った最後だった。



キノシタさんは、GoogleもEvernoteも知らない。



キノシタさんは、アパートの部屋で一人で亡くなっていたところを、数週間後に心配して訪ねてきた妹に発見された。

他の仕事が忙しくなって数ヶ月ぶりに事務所を訪れたとき、社長が教えてくれた。

「そういえば、あいつ死んだよ」というとてもシンプルな言葉で。



キノシタさんは野良猫みたいな人だった。人と付き合わないことはないけれど、一定以上の距離に近づくことは絶対にない。群れることはないし、飼われることもない。最後まで誇り高く、孤独。

平凡と即興 [Diary]

家から駅に向かう途中の、冬になると富士山と丹沢の山並みが見える長い坂を下ること。

商店街の屋台で夜おじさんたちが幸せそうに飲んでること。

踏切を渡ってすぐに改札口がある、地元駅のシンプルな構造。

ちょっと足を伸ばして行く大型スーパーの広い広い野菜売り場。

地元の高校の運動部員に腹一杯メシを食わせることを生き甲斐にしているとんかつ屋さんと、壁に貼られたプロ野球選手のサイン。

ターミナル駅からどこまでも人のいない方向に歩いて行った先で見つけた、誰も知らない景色の良い場所。

知らない街のドトールはいつものドトールとはぜんぜん客層が違うこと。

昼間はいつもの通勤電車が驚くほど速くて空いてて快適なこと。

大学のそばのスタバで学生たちが勉強してるのをぼんやり眺めること。

目的もなく降りた終点の駅で地元のお店に入ってカツカレーとか食べたら意外にも美味しいこと。

いつもの散歩道の曲がりくねった不思議なルートは、かつて川か用水路だった名残じゃないかと思うこと。

いつも猫がいる場所に期待通りいつもの猫がいること。

駅前のコンビニでバイトしてる男の子と女の子が、ある朝手をつないで歩いてるのを見かけること。

20年近く住んでいてもまだ歩いたことのない道があること。

いろんなものをよく見ること。
いろんな音を聴くこと。
いろんな匂いを嗅ぐこと。
いつもの場所でいつもと違うことをすること。
知らない場所でいつもと同じことをすること。

平凡と即興。

思考のOSとしてのアウトライナー、生活デザインのアプリケーション [アウトライナー]

少し前に書いた「思考の流れを阻害しないタスク管理の道具」の続き。

この記事で、WorkFlowy上のタスク管理用アウトラインを紹介しながら、アウトライナーは一種の「思考のOS」なのだと書いた。

これってけっこう重要なポイントだという気がするので、タスク管理用のアウトラインを例にもうちょっとイメージを掘り下げてみる。



上の記事で紹介したタスク管理用アウトラインを、ここのところかなり真剣に使っている。今のところとても使い心地がいい。

アウトラインの現在の構造はこんな感じ。
スクリーンショット 2014-11-09 21.25.47.png
もともとはWorkFlowyのブログで紹介されたこちらの記事を参考にしているけど、
使っているうちに原型をとどめないほど変化した(自分自身の前記事からもかなり変わってる)。

使いながらニーズに合わせてどんどん構造を変えていけること自体がアウトライナーを使うことのメリットだ。



タイトルにあたる最上位階層は変わらず「Clear」になっている。これが、アウトライン全体の内容と構造のガイドになる。「これは何を目的としたアウトラインなのか」ということを示している。マンダラートでいえば「中心」に当たるもの。

なんで「Clear」かというと、いろんなことを「クリア」にすることが、今の自分がいちばん必要としていることだから(放っておくとどんどんクリアじゃなくなっていくタイプ)。

便宜的に「タスク管理用のアウトライン」とは言ったけど、「クリア」でいるために何をするかを考えるためのアウトラインだから、いわゆる「タスク管理」はそのほんの一部にすぎない。

これは、WorkFlowyというアウトライナーの上で動作する、個人のニーズを徹底的に追求した極私的生活デザインのアプリケーションなのだ。



既製のタスク管理アプリにない大きな特徴は、生まれた項目がアウトラインの中を「移動」するということだ。

例えばThought Log(思いつき)は日々なんとなく思い付いたことを日付ごとに時系列に書く部分(これは大元のMACLAIN CHRISTIEさんの記事より)。

書かれた思いつきの中にはタスクもあるし、ブログ記事のネタもあるし、奥さんと行ってみたい場所もあるし、仕事で気になることもあるし、単なるギャグもあるし、哲学的っぽい考察もある。それを後から見直して、アウトラインの中の適切な場所に移動させる。

これは今日やるタスクだと思えば「Doing」の下の適切な場所に移動させる。

ブログ記事のネタだなと思えばブログ用のトピックの下に入れておく。ブログ用のトピックは、こんな感じで「Projects(プロジェクト)>自分にできること/やりたいことで他人にとっても価値のあること」の下にある。その部分をズームするとこんな感じ(ブログ記事はここにはまだ数個しか入ってなくて、大多数はOmniOutlinerの巨大なアウトラインに入っている。こちらに全面的に移行するかは検討中)。
スクリーンショット 2014-11-09 21.38.10.png
自分の欲望や願望だったら(通勤途中の電車の中でそういうのよく書く)、「Self(自分)」の下の「欲望・願望・期待」に入れておく。人様に見せられるものじゃないけど、ちゃんととっておく。欲望は人生の燃料だから。

今度Aさんに教えておきたい本を思い付いたのなら、「人間関係」の下にAさんのトピックを立ててそこに移動する。

電車の向かいの席に座っている人の靴が魅力的だったと書いてあるなら「Environment(環境)」の下の「服装」の下に移動する。

もちろんThought Log以外の場所、たとえば何か仕事の計画を練っていて、週末にやっておかなければならない何かを思い付くこともある。それも後からDoingの下に移動する(どこで何を思いつくかわからない)。

ランダムな思いつきがアウトラインの中を縦横に移動し、所定の場所に位置づけられることで、自分にとって重要な物ごとが「クリア」になる、というのがこのアウトラインの構造だ。

特に「Self」の中は、とても重要だけど普段なかなか腰を据えて考えることができないような物ごとだ。でもやってみてわかるのは、日々の思いつきという形でならけっこう頭に浮かんでいるということ。それを所定の場所に移動することで、自然に「クリア」になってくる。



それでも移動先がなく、新しいトピックの立てようもないものは、そのままThought Logに残しておく。しばらく寝かせておいてから見ると、必要か必要じゃないか分かってくることが多い。

行く当てのない思いつきを入れる場所がちゃんとあるというのは、自分にとってはけっこう重要なニーズだった。Inboxという形式を取らなかったのは、Inboxの中に行き場のない項目をためるわけにはいかないからだ。



こんなニーズに応えてくれる既製のアプリはまずない。

ここでは「構造を俯瞰し、自由に組み替える」というアウトライナーの基本機能を前提に、アウトラインの構造自体が必要な付加機能を提供している。アウトライナーがコア機能を提供するOSで、アウトラインがアプリケーションというのはそういうことだ。

そして重要なのは、それが専用アプリよりも個人のニーズを満たしてくれる場合がある、ということ。

そう考えると、単にアウトラインを作るという以上のアウトライナーの可能性が見えてくる。

アウトライナーを使うとファイルの概念が消えていく [アウトライナー]

※この記事は、先日るうさん(@ruu_embo)とTwitter上でやり取りした内容と、そこから得た示唆が元になっています。関連ツイートは記事末尾に引用しました※



長年アウトライナーを使っていて、少なくとも文章を書く作業に関するかぎり、書きかけの文章はすべてひとつのアウトラインに入れておくのがいちばん合理的だと思うようになった。

(もちろんこれはプライベートの話で、シゴトではPowerPointやExcelのファイルを納品したり共有したりするのでそういうわけにはいかないのだけど)

ブログの記事でも翻訳でも、未完成の文章はすべてひとつの巨大なアウトラインに入っている。

何か書くことを思いついたらアウトライナーに新しいトピックを立てて、その下に内容を書き出していく。

アウトラインの中でだいたいの内容を組み立てたら、エディタに貼り付けて読みやすいように整える。でも文章を公開なり送信なりが終われば、保存せずに消してしまう。ここではエディタは単なるテキスト成型の道具でしかない。

そうなると実感するのは、自分の中からファイルという概念が自然に消えていくということ。個人的には、そうなってはじめてアウトライナーの威力を実感できるとさえ思っている。

(ここでいうアウトライナーは「プロセス型」のアウトライナーを前提にしている。プロセス型アウトライナーについては以下の記事を参照してください)
アウトライナーにはプロセス型とプロダクト型がある



いくつか要素があるけれど、まずは「速さ」。

何か書くことを思い付く。それは文章の中のひとつのフレーズかもしれない。パラグラフの要約かもしれない。キーとなるメッセージかもしれない。見出しの案かもしれない。構成案かもしれない。今書いてる文章とはまったく関係ないアイデアかもしれない。

通常のワープロやエディタを使っている場合、それは今開いているファイルのどこかに書くべきことなのか、別のファイルを開いてそこに書くべきことなのか、メモ用のファイル(あるいは用紙)に書くべきことなのか。いちいち判断が必要になる。

ちょっとしたことだけど、この「判断」がばかにならない。一瞬考えたために、何を書こうとしていたか忘れることもある。判断を間違って後から見つからなくなることもある。

なぜそういうことが起こるかというと、「ファイル」に縛られているからだ。

全てが一つのアウトラインに入っていれば、思い付いたことは新しいトピックを立ててただ書けばいい。新規ファイルを作る必要もなければ保存先を決める必要もない。ただ書いておいて、後で適切な場所に動かせばいい。

全体の構造を俯瞰して「適切な場所」を見つけ出し、「後で適切な場所に動かす」ことこそ、アウトライナーが最も得意とする作業だ。長大なテキストファイルをスクロールして、コピー&ペーストするのとは比べものにならないほど楽だ。

思ったことをすぐに記録し、高速でつなぎ替える感覚。これが、アウトライナーを使っているときに感じる「速さ」の正体だ。

関連記事:
アウトライナーの「速さ」



もうひとつは、文章を構成する最小単位のパーツが集合離散することによる効果。

「ファイル」という壁に分断されていた個別のトピックが、内容問わず、分け隔て無く、ぎっしり詰め込まれたアウトライン。

ちょっとシェイクすればトピック同士が互いにふれ合い、引き寄せ合い、反発する。時には異質なもの同士が化学反応を起こし、発火し、新たなトピックを生む。そしてまた他のトピックと接触する。分裂と増殖、死と再生を繰り返す細胞みたいに。

やがてトピック同士の固まりが自然に成長を始める。自立性・有機性を帯びてくる。これはひとまとまりの文章なのだという感覚が生まれる。

そうしたら仮でいいのでタイトルをつけて、塊全体をその下にくくる。内容を仕分けし、見出しで分類し、最適な流れに並べ替える。それは時と場合によって、ロジカルな順番だったり気持ちいい順番だった意外な順番だったり敢えてランダムだったりするけれど、アウトライナーなら見出し部分のみを表示させた状態で組み立て作業ができるから楽だ。

流れが決まったら、文章として仕上げていく。

好みにもよるけど、トビックをできるだけ細かく区切っておくと(決まりはないけれど、個人的には呼吸のリズムくらいがちょうどいい)、センテンスを組み立てる作業にもアウトライナーの機能が使える。多くのアウトライナーにはショートカットキーで項目を並び替える機能があるから、それで文章のリズムとメロディを調整する。

つまり、小さな思いつきの断片をキャッチし、発酵させ、組み立て、最終的な文章に仕上げていくプロセスのほとんどを、ひとつのアウトラインの中でシームレスに行っていることになる。

複数のファイルに分かれていたら、こういうふうにはならない。

アウトライナーの持つこうした本質には、アウトライナーを開発する側でも気づいていないことが多いのではないかと思う。完全に自覚的なのは、ファイルの概念を完全に捨てたWorkFlowyだ。



じゃあ、何でもアウトライナーで済むのか、というとそうでもない(これはるうさんの指摘であらためて気づいたこと)。

アウトプットした「完成品」の文章をアウトラインの中に入れたままにしておけば、再びトピックの集合離反が始まる。

アウトラインは永久に完成しない。なぜならアウトラインは流動的だからだ。だからこそ「未完成」なものを扱うには最適だけど、完成したものを扱うには向いていないのかもしれない。

るうさんの指摘する通り、完成品を完成品として保管し活用するためには、ファイル単位、あるいはEvernoteのような「ノート」単位になっている方がおそらく都合がいい。

ことあるごとに、Evernoteにシンプルなアウトライナーの機能がついたらと発言してきたけど、「全てを記憶する」をキャッチフレーズとしてきたEvernoteに、アウトライナーは必要ないのかもしれない。



あれ、でもEvernoteのキャッチフレーズ、最近変わったよね。

記憶の場所から「ワークスペース」へ。

だとすると、やっぱり…。



以下は、この記事の元になったTwitter上のやり取りです。何の気なしに、即興的に始まるブレスト。Twitterのサニーサイド。