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夜の野球部 [Diary]

高校時代、野球部の連中とはウマが合わなかった。野球は大好きだったけど、野球部は嫌いだった。まあ、それで言ったら母校で好きだったことなんか何もなかったけど。



夏の予選で母校の試合がテレビ中継でもされれば、必ずテレビの前で観戦した(そして応援した)けど、不思議なことにテレビに映っている「この」チームと学校にいる「あの」連中とは結びついていなかった。

ついでに言えば、テレビの中の「この」高校と、いつも通っている「あの」高校も結びついていなかった。



野球部はそこそこ強かったけど、彼らがなんとなく特別扱いされる(ように感じられる)ことも、いつも群れてる様子も気にくわなかった。

昭和40年代に1回だけ出た甲子園の写真とか初戦のウィニングボールとかが職員室の脇にいつまでも飾られてるのも。

数年前にちょっと注目されてドラフトにかかるかもしれないと言われた先輩(かからなかった)がちょくちょく顔を出して、そのたびに部員全員が直立不動でお迎えする様子も。

そして当時のぼくには(ケンカ弱いくせに)気に入らない相手を無用に挑発するという悪い癖があった。

当然、野球部の連中のほうからも僕は毛嫌いされていた。

一度だけ(文字通り体育館の裏で)10人以上の野球部員に囲まれたので、「甲子園行けなくなるよ?」という魔法の呪文を使わせてもらった。



あるとき、夜遅い時間に学校に立ち寄ることがあった。

なぜか参加することになってしまった(なりたくもなかった)海外交流行事の打ち合わせ兼壮行会みたいなものがどこかのホテルであり、顧問のI先生の車で家まで送ってもらう途中、いったん学校に立ち寄ったのだったと思う。

校舎の時計は九時すぎを指していた。そんな時間に学校に足を踏み入れるのは初めてだった。

車の中で待ってろと言われたけれど、こんな時間まで引っ張り回されて心底うんざりしていたので車から降り、真っ暗な体育館の裏(殴られそうになった場所)を通ってグラウンドの方に降りていった。

というか、一定の間隔で響く金属バットの音と照明に引き寄せられて行った。

グラウンドは明るかった。金網越しに、150人を超える巨大な野球部のおよそ半分くらいがグラウンドにいるのが見えた。

トスバッティングをしている者や、グラウンドの周囲を走っている者や、キャッチボールをしている者や、守備練習をする者がいた。ときどきコーチの怒声が響いた。残りの半分(たぶん一年生だ)は、寮の屋上でやはり黙々と素振りをしていた。

監督の姿は見えなかったから、おそらく全体練習の時間は終わって今は個人練習なのだろうと思った。個人練習にはぜんぜん見えなかったけど。

金属バットの音とかグラブにボールが収まる音とかスパイクで走る音とか甲高いかけ声とかそれに応える低い声とか、高校の野球部にしか存在しないそんな音たちが不思議に心地よいリズムを作り出していた。

いつの間にか(たぶん探しに来たのだろう)I先生が後ろに立っていっしょに練習を眺めていた。ぼくはずいぶん長い間金網に貼り付いていたようだった。

「さあ遅いぞ、帰ろう」と先生に促されるまで、ぼくは黙ってグラウンドを眺めていた。

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階層を上がる思考 [アウトライナー]

たぶんこれは少し前に書いた「時間の有限、階層の次元」の続き。

階層を上がるなんていうと(特にある世代の人は)「社会階層」をイメージするかもしれないけど、そうではないよ。「アウトライン」の階層の話。



アウトライナーについて人と話していてよく思うことは、アウトラインの中で「階層を下がる(ブレイクダウン)」や「分類(グルーピング)」はイメージしやすいけど、「階層を上がる」ことはイメージしにくいということだ。

でも、アウトライン・プロセッシングを通じて「考える」ときにいちばん大切なことのひとつは、実は「階層を上がる」ことだ(そしていちばんしんどい)。



たとえば「タスクになかなか手を付けられないときには、より細かいタスクに分解してみるといい」という。これはアウトライン的に言えば「階層を下がる」ということだ。わかりやすい。

では「階層を上がる」はどうか。ほとんどの人は、ここで上位の見出しで括る=グルーピングすることをイメージする。共通性の断片を集めて、見出しを立てて整理していくこと。

たとえばランダムに書き出したタスクがあるとして、それを「仕事」と「プライベート」に分類する。「仕事」に分類したタスクをさらにプロジェクトごとに、あるいはクライアントごとに分類する。これがグルーピングだ。そして確かにそこには元にトピックに対して上位のトピックが立っている。

さて、これは「階層を上がる」ことだろうか。



書きたいことや思い付いたことをランダムに書き出していってそれをグルーピングし、振り分けていく。混沌としていたアイデアが、みるみる整理されてくる感覚がある。これだけでも充分強力だし、便利だ。 

でも最初のうちは好調に使っていても、ふと気づくと行き詰まっていることがある。どれだけグループ化して整理してみても、何もアウトプットできない。あるいは結論を導き出すことができない。あるいは本当にやるべきタスクを絞り込むことができない。

そんな経験をした人は多いんじゃないだろうか(アウトライナーに少し慣れてきて、使いこなしている感覚が出てきた頃)。簡単にいうと「整理はできたよ。で?」という状態。ちなみにぼくはよくあります。

そしてそんな状態を自覚したら、実際には「整理」はおこなわれているけれど、「階層を上がる」思考は行われていないと考えていい。



「階層を上がる思考」のイメージ。

上位の階層は下位の階層を規定する。階層を上がり、上位の階層を明確にすることによって、下位階層から必然的に切り落とされていくものがある。下位の階層にある無限の可能性が限定され、絞られてくる。

「可能性が限定される」なんていうと悪いことみたいだけど、可能性が限定されるからこそ、無限の可能性とともに流れ続けるアウトラインの中から「アウトプット」や「結論」が生まれてくるのだ。

逆に言えば、階層を上がってみなければ、アウトラインは完成しない。

(もちろんアウトラインは常に変化し続ける性質を持っているから、ここでいう「完成」とはその一時的なスナップショットのことだ)



とか書いておきながら、では「階層を上がる」というのが具体的にどんなことなのかと言われると、うまく言葉にすることができない。

ジャンルや属性とは違う形で下位の項目を統合する何か。下位の項目を何らかの形で規定する上位の意思またはコンテクストを見つけること、というのがいちばん近い気がするけど、よくわかんないよね。

難しいのは、上位階層が下位階層を規定するだけでなく、下位階層もまた上位階層に影響を与えるということ。一方通行の上下関係ではないのだ。これはアウトライナーでアウトラインを操作しているといつも実感することだ。



自分の中でも完全には消化できていないし、完全に言葉にもできていないけれど、どうすれば「階層を上がる」ことができるのかということはずっと考えていて、その途中経過は『アウトライン・プロセッシング入門』にも書いた。

たとえば、フリーライティングからテーマや目的を見つけ出し、「シェイク(トップダウン思考とボトムアップ思考を相互にフィードバックしながら行き来すること)」を繰り返しながら更新していく方法がそのひとつだ。

あるいは以前、仮に「フローラップ」と名前をつけた方法もきっとそうだ。

それからこれは最近Go Fujitaさんの記事をきっかけにあらためて意識したことだけど、「一度アウトラインの外に出る」というのもたぶんそうだ。



「階層を上がる」思考は、別にアウトライナーを使わなくてもおそらく自然に行われてきたことだ。「結論を出す」とか「選択する」とか「決意する」というのは、まさにそういうことだからだ。

ただ、アウトライナーというツールの性質が、それをカタチとして意識させてくれるのだということ(マンダラートもそうだ)。



アウトライナーとか思考とかとは直接関係ないようにも思えるけど、「階層を上がる」といえば思い出すのは、これもGo Fujitaさんの「生きる覚悟の階層性」という記事。

何度読んでも素晴らしいし、アウトラインの「階層を上がる思考」と一見関係ないようにも見えながら、実はやっぱり関係あるんだな。

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