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ただ「決める」しかないことの根拠(ループ) [Thoughts]

誰も教えてくれず、考えてもわからず、話し合っても結論は出ないというものごとがある(たくさんある)。それはただ「決める」しかないことなのだ。

でも、ただ「決める」ことの背景には、
関わった人とか
読んだ本とか
感じたこととか
愛とか
分からなくても考えてきたこととか
間違ってきたこととか
切り捨てたこととか
じたばたしながらなんとか生きてきたこととか
そういうものの蓄積がある。
ああ、それから自分の「意思」が。

根拠はちゃんとある。
言葉で説明できないだけだ。

その種のことを誰かに「決めてもらう」ことを繰り返していると、きっと後悔する。後悔しないとしても、そうと知らずに少しずつ不幸になる。
そのことを忘れないようにしよう。

それでもなお、「決めた」ことが正しいかどうかはわからない。誰も教えてくれない。考えてもわからない。話し合っても結論は出ない。

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アウトライナーフリーク的タスク管理論・序説 [アウトライナー]

タスクリストとは何か

タスクリストを本気で作ってみたことのある人はよくわかると思うのですが、その量にしばしば圧倒されることになります。これはどんなツールを使おうと同様です。

率直に言って、タスクリストを作っていると、他人の要求で人生の時間が全て埋まってしまうような感覚を抱きます。ちちろん、やりたいことばかりして暮らすわけにはいかないことは、大人だから知っています。それでも、釈然としないものが残ります。これは現代人の幸福に対する大きな挑戦だとさえ思います。

そして、昔から深く考えさせられてしまうのは、どんな手法を使うにしても、毎日たくさんのタスクが未完了のまま残るということです。与えられた時間の中では到底こなしきれない量の作業があるので、当たり前といえば当たり前です。

タスクリストには、書き出したまま終わらなかったものが大量にたまっています。その多くは手を付けることさえできていません。しかもその中に「重要」とか「優先度A」とかマークされたものがあったりします。

それにもかかわらず、仕事も人生は崩壊したりしないのです。ジタバタはしているけれど、なんとかなっている。そして重要だったはずの項目が、日を置いて確認すると、既に必要なくなっている。だとすると、あんなにがんばって作っているタスクリストとはいったい何なのだろう、という疑問です。

To-Doリストを捨てろ

『減らす技術』の著者であるレオ・バボータさんがブログZenHabbitsで興味深いエントリーを公開しています。「To-Doリストを捨てろ」というものです。私のサイトで拙訳を公開していますので、ぜひ読んでみてください。

(ここでいう「To-Doリスト」はそのまま「タスクリスト」に読み替えて問題ないでしょう)

まず(ZenHabbitsを読むような)人の多くはなんらかのTo-Doリストを作っているはずだ、とレオは指摘します。もし作っていないとしたら、「本当は作っていなければならない、作るべきだと感じているはず」。それほど、To-Doリスト(タスクリスト)は常識化しています。

レオはそれに待ったをかけるわけです。彼はTo-Doリストの問題点を以下のように指摘します。⁠
To-Doリストはあなたの時間を食いつぶし、モチベーションを消失させる。To-Doリストを作っている人の多くは、コンスタントにメンテナンスをしている。でなければリストはほこりをかぶって錆びつき、使い物にならなくなり、リストの管理に失敗した者は罪悪感にさいなまれ続ける。逆にリストを使い続けられる人は、多くの時間を――何か大切なことをする時間を――そのメンテナンスに割くことになる。

そして、肝心のリストはといえば、長大で、全て完了することは永遠になく、それどころか書き出されたタスクの半分は達成されることがない。完了した項目にチェックマークをつけることは気分のいいものだが、永遠にチェックされない項目がずっと残っている気分は最悪だ。こんな全てが、精神的エネルギーの無駄遣いだ。なぜなら、そうしてもあなたはどこにも行けないからだ。

レオの言うとおり、To-Doリスト(タスクリスト)を維持するためには、コンスタントなメンテナンスが必要です。

「タスクリストに終わっていないタスクがたまる」という状況は、タスクを登録した後に優先度や必要性が変化してしまい、メンテナンスが追いついていないということなのです。

一方で「でも仕事も人生も崩壊していない」というのは、私たちが現実の状況変化に(それなりに)対処しているということなのでしょう。そしてそれはおそらく正しいのです。リストをメンテナンスすることよりも現実に対処する方が重要だからです。

ここに、タスク管理の大きな矛盾があります。タスクリストを有効なものとして維持するためには、膨大な時間と手間が必要になります。しかし実際には目の前の現実に対処する方が優先するので、リストのメンテナンスは後手に回ります。

生真面目にそれを維持しようとすれば、膨大なタスクに加えてそのための時間を費やすことになります。そうまでして維持しても、リストの中身は永遠に終わることはなく、達成感を味わうことはできません。なにしろ実行するより早いペースで新しいタスクが供給されるのです。

タスクリストの維持は常に自分にプレッシャーをかけ続け、やがてはモチベーション自体を低下させてしまう、とレオは言います。だから「To-Doリストなど捨ててしまえ」というのです。
To-Doリストを捨てよう。そして、「やらなければならない」ことも忘れよう。必要なのは、今この瞬間にあなたが情熱を持てる「ひとつのこと」だけだ。

To-Doリストの代わりにレオが提案するのは「ひとつのこと」システムです。朝起きて、自分がいちばんエキサイトすることをひとつ選び、ひたすらそれをやる。残りのことはその「ひとつのこと」が終わってからやればいい。それが「ひとつのこと」システムです。

全てを取ることはできない

どう思ったでしょうか。私は「言いたいことはわかるけれど、現実には無理だ」と思いました。多くの人も同じように思ったのではないでしょうか。

確かに、レオの主張は若干過激すぎるかもしれません。実際にこの通りに実行できる人は、多くはないでしょう。普通の会社員が、自分の情熱を傾けられるタスクだけに集中するということは現実的に無理です。

しかし、非常に示唆的な提案でもあります。タスク管理をする人の多くが内心で感じている問題とつながっているからです。それに私自身「できることならこのように生きたい」と思うことも事実です。

そしてよく考えてみると、この提案は印象ほど突飛なものではありません。一見過激に見えるものの、よく見ると「ひとつのこと」システムは、タスク管理でよくある「プライオリティ」の考え方を先鋭化したものです。

プライオリティとは優先度です。いろいろありますが、たとえばタスクを「A(今日中にマストで行うこと)」、「B(できれば今日中に行うこと)」、「C(今日でなくてもいいこと)」に分類し、プライオリティの高い順に実行するというような方法です(システム手帳のリフィルなとによくありますね)。「ひとつのこと」というのは「今日中にマストで行うこと」をひとつに絞っているにすぎないのです。

示唆的というのは、この提案がプライオリティというものの意味を教えてくれるからです。

プライオリティ型のタスク管理には、ひとつ大きな問題があります。「重要なこと」をどうやって選ぶのかという問題です。一口に「重要」といっても、それは会社にとって重要なことなのか。家族にとって重要なことなのか。自分がやりたいことなのか。それは全て「重要なこと」です。しかも多くの場合それらは対立し、矛盾します。この問題を解決してプライオリティを適切に設定できているという人は、どのくらいいるでしょうか。

レオは「ひとつのこと」を選ぶ根拠を一言「エキサイティングなこと」と表現しています。つまり自分がワクワクするかどうかを唯一の基準として選定しているのです。タスクを「ひとつ」に絞るだけでなく、基準を「ひとつ」に絞っているのです。

「そんなの無理でしょ」という言葉をぐっと飲み込んで素直に考えると、ここで示されているのは、意味のある優先順位を決めるには「基準」が必要だということです。そしてその基準は自分が決める、ということです。

他人の要求に人生を乗っ取られるような感覚は、「自分で決めた基準」がないことから来ています。自分の中の基準がはっきりしていない場合、他人の要請は常に自分の気持ちに優先します。自分自身が設けた基準で重要なことを選択し、プライオリティを与え、実際にそれを行う。そうしなければ、時間は他人の優先順位に従ってすべて消えてしまいます。これは真実です。まさに「(タスクリストを一生懸命作っても)あなたはどこにも行けない」のです。

現代の生活の中で「やるべきこと」と「やりたいこと」のすべてを行うことは不可能です。全てをやることはできない。全てを手に入れることはできない。全てを自分の時間の中に押し込めることはできない。それがスタート地点です。

今日的なタスクリスト

「To-Doリストを捨てろ」というレオのメッセージは、逆説的ですがタスクリストが(本当は)必要なことを示唆しています。

スペースが有限ならば、重要なのは何を残すかということです。つまり選ぶことです。選ぶとは、それ以外を切り落とすということです。それでは何を基準に、何を残し、何を切り落とすか。今日的なタスクリストとは、本当はそれを「考える」ためのものでなければならないのではないか。

そのことを意識しさえすれば、きっとやり方があるはずです。私自身、ずいぶん長いことそれを考えてきました。今は、上下に無限に連なるアウトラインの階層性にヒントがあると考えています。

そのためのアウトラインを「ライフ・アウトライン」と呼んでいます。生活(ライフ)と人生(ライフ)を扱うためのアウトラインです。その途中経過が、『アウトライン・プロセッシング入門』の中で「生活のアウトライン」と呼んでいたものです。

——『ライフ・アウトライン(仮)』より

関連記事:イメージに現実を、タスクリストに意思を

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物を書く仕事をめぐる会話 [Diary]

「お前は今、何か物を書く仕事をしているのか」
「書くことがメインではあるけど、いわゆる物を書くというのでは」
「お前の祖父さんも曾祖父さんも物を書く仕事をしていた」
「知ってる」
「俺は、物を書く仕事をしなかった」
「知ってる」
「でも、お前は物を書く仕事をしている」
「いや、物を書くとは言っても」
「がんばれ」
「わかった」

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はやくなるのがはやい [Diary]

電車の中で見かけたお母さんと男の子(おそらく5〜6歳くらい)の会話。

子「この電車、はやくなるのがはやいね」
母「はやくなるのがはやい?」
子「うん、はやくなるのがはやい」
母「日本語変でしょう。はやい、だけでいいのよ」
子「はやくなるのがはやいよ」
母「それじゃ同じことを二度言ってるでしょう。はやいだけでいいの」
子「はやいんじゃなくて」
母「それにこれは普通だからはやくないでしょう。はやいのは急行や特急」

思わず声をかけようかと思ったけど、オトナなのでやめておいた。でも、ちょっとだけ悲しい気持ちになった。

このお母さんは、おそらく男の子の言ったことの意味を誤解している。あるいはまったく理解できていない。

この子はおそらく電車の「速度」の話ではなく「加速力」の話をしていたのだ。



「鉄」系の人ならご承知の通り、一口に「電車」と言っても、実ははかなり性能差がある。

そのときの車両は東急の5050系というやつなのだが、この車両は、たとえば同じ横浜駅を発着するJR線、あるいは相鉄線の車両と比較するとかなり加速性能が良い(逆に京急の車両と比較すると劣る)。

おそらくこの男の子は電車が好きで、ふだんから電車の走りに注意を向けているので、加速性能の差に気がつき、それを「はやくなるのがはやい」と表現したのだ。そう考えれば、語彙の範囲内で実に的確な表現をしていると思う。

しかしお母さんの方は、ふだん乗る電車に性能差があるとは想像せず、それを「変な日本語」としか受け取らなかった。その上「はやい」のは急行や特急だという強固な先入観があった。

だから、自分の子どもが注意深く世界を観察し、違いに気づき、それを自分の言葉にした(すばらしいことだ)ことに、気づくことができなかったのだ。

どんな人でも先入観を持っているし、自分の認識の外に出ることは簡単にはできないので、このお母さんを責めることはできないけれど、やっぱり少し悲しい気がする。



ぼく自身も、子どもの頃同じような経験をしたことがある。

塾に通うのに、最寄り駅から当時の国鉄京浜東北線に乗るのではなく、ちょっと余分に歩いて京急に乗っていくことを主張した(回数券を買ってもらうので主張する必要があった)。

その理由として、京急の方が高性能であり、乗っていて気分がいいからと説明したところ、「電車なんかみんな同じだ」「めずらしいから(子どもは)そう感じるんだろう」で片付けられてしまい、(子どもだから)ムキになって説明したけれど最後まで理解されなかった。

当時は国鉄より京急の方が安かったので文句はないはずなのだが(実際に京急の回数券を買ってもらった。最初からそう言えばよかったのだ)、ぼくからすれば言っていることが理解されないのがどうにも納得いかなかった。

いや、理解されないことそのものよりも、「電車なんかみんな同じ」であり、それに違いを見出すのは「子どもだから」という発想の内側からしか自分を見てくれないことが。

もちろん些細なことであり、責める気なんかぜんぜんないけれど、こういうことは不思議とよく覚えている。



でね、国鉄103系と京急800型の低速域での加速は雲泥の差だったんですよ。

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春のリスト [Thoughts]

理由を問わず
説明しようとせず
証明しようとせず
心配せず
答えを探さず
勝とうとせず
損得を考えず
懐かしまず
好かれようとせず
謝ろうとせず
わかってもらおうとせず
ひとりで
しずかに
注意ぶかく
確実に

→ 結果的に →

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フリーライティングからある基準で抜粋した何か [Thoughts]

選べばひとつは手に入る(もしかすると)。
選ばなければひとつも手に入らない(確実に)。
選んでも選ばなくても人は老いる。
そして選ぶことは捨てることだ。



もうワクワクするという理由だけで何かを始めることは困難だ。
だからと言ってこれから何も始めずに生きていくという意味ではない。
始めるということは選択するということであり、捨てるということだ。
そして捨てることにはいろんな形がある。
見た目は変わらなくても、
そのことを強く意識するようになった自分とそれ以前の自分は違う。



不向きなことはしない姿勢と
新しい何かを求める姿勢は
見た目ほど矛盾していない。
新しい挑戦を避けるということではないし、
苦手なことを避けるということでもない。



はじめて曲がってみた川沿いの道は、
想像していたよりずっと気持のちのいい道だっただけでなく、
ずっと行ってみたいと思っていた
(けれどもどこにあるのかわからなかった)
お店は実はその道沿いにあった。



知り合いの名言「おれは坂道があったら下る」
そこに同居しているある種の意思と姿勢。

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