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そこにわずかでも意思があるかぎり [アウトライナー]

この記事の前にあたる記事:
アウトライナーフリーク的タスク管理論・序説

「他人の要求に自分の時間を乗っ取られるような感覚」について。

一生懸命タスクリストを作ってみても、実行するタスクが自分の基準に基づいていなければ、時間は他人の優先順位に従ってすべて消えてしまう。これは真実です。

いくらプライオリティや重要度を設定してみたところで、その基準が自分になければ同じことです。

レオ・バボータさんのいうように、「(タスクリストを一生懸命作っても)あなたはどこにも行けない」のです。この感覚は、気持ちのいいものではありません。というか、とてもいやーな感じです。



現代の生活の中で、降りかかってくるタスクをすべてこなすのは不可能です。だから何を残すかということが重要になる。その基準は自分になければならない。そうしなければ、私たちは幸せにはなれない。

でもそれは、簡単なことではありません。それどうやってタスクの選択に反映すればいいのか。そもそも「自分の基準」って何なのか。

レオさんのように「いちばんエキサイティングなことをひとつだけ」選べれば理想ですが、それができない場合(普通できないでしょう)、どうしたらいいのでしょうか。

タスクのアウトラインを延々と作りながら、ふとヒントになるのではと思ったのは、一日が自分の思うように進まなくても、比較的満足できる日とそうでない日があるということです。



何年か前のことです。

その日は翌週に提出予定のレポートの作業を進めるつもりでした。午後はたまたまアポイントもなかったので、時間をその作業のために空けてありました。

朝からレポートのことが頭にあったので、いろいろとアイデアが浮かび、電車の中で、そして朝食を食べに入ったカフェでメモを作ったり仮アウトラインを書き出したりしていました。午後はそれを元にレポートのドラフトを書くつもりでした。

しかし職場に着くと、先に出社していた同僚がばたばたと走り回っています。聞けば、朝一番で大きなトラブルの連絡が入ったとのこと。

結局その日はトラブル対応に深夜まで忙殺されて終わりました。空けておいた午後の時間も、もちろん飛びました。

それでも、この日「他人の要求に自分の時間を乗っ取られるような感覚」はさほどなかったし、ストレスもありませんでした(いや、少しはありましたが、さほどではありませんでした)。

むしろ、予想のつかない現実と自分の意思をそれなりに両立できた日、という感覚でした。

それは、朝の電車とカフェで、レポートの作業を(少しではありますが)進めていたことと無関係ではありません。

「今日はレポートの作業を進める」というイメージ、つまり自分の「意思」は、今日という一日の中に既に反映されていたのです。



重要なのは、「今日はレポートを進める」というイメージがなかったら、たぶん電車でもカフェでも何か他のことをしていた(あるいは寝ていた)だろうということです。

そしてその日は、降りかかってくるタスクに押し流されるだけの一日になっていたかもしれません。

今日という日のイメージをあらかじめ持っていたことで、その日のタスクの選択にわずかながら「意思」がこもったわけです。

一日が終わった後の気分に違いをもたらしたのは、そのわずかな違いです。そう、そこにわずかでも意思があるかぎり



もちろん、これはたまたまうまくいった例にすぎません。でも、ここには確かにヒントがあります。必要なのは「イメージ=意思を持つこと」、そして「意思を一日に反映する」ことです。

でも多分、「今日は絶対にレポートを進める」「そのために早く出てカフェで下書きをしよう」などと決めてあったとしたら、おそらくうまくいかなかったでしょう。そこまで決めてしまうと、それ自体がタスクになってしまうし、できなかったときストレスになります。

現実は思い通りにはならない。それが大前提です。その上で、自分の意思との折り合いをつけること。それが、今日的なタスクリストの出発点ではないでしょうか。

イメージに現実を、タスクリストに意思を。アウトライン・プロセッシングを通じて、その方法を考えてみます。

「ライフ・アウトライン(仮)」より

この記事の続きに当たる記事:
イメージに現実を、タスクリストに意思を
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優先順位の基準の一部 [Thoughts]

気持ちいい道と近い道で迷ったら気持ちいい道。

意外としたたかな方を選ぶ。

意外と欲望ドリブンな方を選ぶ。

許可を待つか待たないか迷ったら待たない。
(ただし、それを自分に強要しない)

人を待つか待たないか迷ったら待つ。
(ただし、それを自分に強要しない)

強か弱か迷ったら強。
(ただし、それを自分に強要しない)

人のいない方へ。

好きな人の方へ。

願いはかなう前提。
(ただし、かなわなくても終わらない)

何が楽しいかは自分が決める。

優先順位の基準は自分が決める。

※Clear2016

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記録することと考えることの分離、あるいはアウトライナー・Evernote問題 [アウトライナー]

自分がEvernoteを思うように使えない理由のひとつは、「記録」することと「考える」ことをうまく分離できないからではないかという仮説を持っている。

昔、情報カード(京大型)を使っていて困ったのも、記録としてカードを取っているとき、途中から自分の考えていることに転移してしまい、区別がつかなくなることだった。

もちろんカードを分ければいいのだが、記録中に何か思いつくと芋づる式にいろんなことを思いついてしまい、それを忘れないように書きとめようとすると最初のカードに戻れなくなってしまう(これが複数回起こると、致命的に迷子になる)。

後にカードもある程度実用できるようになったのだが、その方法は「1枚にまとまった内容を書くのではなく、断片、フレーズごとにカードを変えていく」というもので、つまり『知的生産の技術』でいえばカードではなく「こざね」的な使い方だったと後で気がついた。

(好きなだけ書いた後で、「記録」として扱うべきことと「考えたこと」として扱うべきことを分け、それぞれの山の中でソートする)

結局、本来の情報カードとしての使い方は今までできたことがない気がする。そしてこの傾向がそのままEvernoteとの関係にも反映されている。

Evernoteに何か記録しようとしても、どうしても何か別のことを思いついてしまうのだが、それを同じノートの中に書いてしまうと後から区別できなくなる(そして、自分はそれを区別したい)。

といって、こざね的に断片レベルでノートを作ろうとすると、「Evernoteはノートの順番を自由に入れ替えられない」という大問題にぶつかる。

おそらくこういう場合は、ノートを分けてタグで分類しておくのがいちばんいいのだろうが、その「ノートを分ける」ことがうまくできない。

これは生まれついての傾向もあるし、「引用」を扱う訓練をきちんと受けていないということもある、かもしれない(引用を客体として扱えない、とでも言ったらいいだろうか)。

つまりEvernoteの問題ではなく、使う側の問題が大きい。



とにかくそういう理由で、その気になればフレーズ単位で操作できるプロセス型アウトライナー(WorkFlowyやOmniOutlinerのような、見出しと内容を区別しないタイプのアウトライナー)が自分には合っている。

Evernoteは情報カード的な道具であり、プロセス型アウトライナーは「こざね」的な道具なのだ。

ただし、アウトライナーが「こざね」と決定的に違うのは、階層を活かすことで「こざね」としての役割を果たしつつ、まとまった情報の単位を扱うこともできる、つまりカードとしての性質を同時に果たせるということだ。

「こざね」はあくまでも考えをまとめたり、文章化する段階で利用するものだったけど、アウトライナーの用途はそれだけではない。

とはいえ、記録したことを後から拾い出す能力はEvernoteが圧倒的に優れている。アウトライナーのトピック単位の検索では、その機能は代替できない(※注)。もちろん、記録したい内容にはテキスト以外の情報もあり、Evernoteならそれらも同時に扱うことができる。

だから、Evernoteをうまく使いこなせず、その恩恵をなかなか受けられないことは、やっぱり残念なのだ。

(※注)この点に関しては、検索にヒットした項目が、その上位項目とともに一覧表示されるWorkFlowyの方式が、ひとつの回答にはなっていると思う。

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少しずつ読む本、著者と読者の経験が不思議に絡み合う場所 [Diary]


わかるなあと思う(そしてそう思えるのがうれしい)。私見では、村上春樹『遠い太鼓』ほどちょっとずつ読み進めるのに適した本はない。



『遠い太鼓』を最初に読んだときのことはよく覚えている。大学生の頃、発売直後に平積みになっていたのを伊勢佐木町の有隣堂本店で買った。そして馬車道交差点の角にあった「珈琲屋」でハンバーガーをかじりながら出だしのところを読んだ(今はなき「珈琲屋」は日本で最初にハンバーガーを出した_と言われている_店だ)。

それから二週間くらいかけていろんなところで少しずつ読んだ。

ぼくはふだん「時間をかけて読む」ことはまずなくて、特に学生の頃は最小限の中断(バイト、授業、食事、睡眠、ある種のワルイコト)を除けば終わるまでひたすら読み続けるタイプだった。そこまでの駆動力を感じない本は途中で読むのを止めた。

でも不思議なことに『遠い太鼓』だけは、とても時間をかけて、いろんなところで少しずつ読んだ記憶がある。

「珈琲屋」のカウンターに始まって、公園のベンチ、電車の中、大学の教室、バイト先休憩時間、電車の中、喫茶店、自分の部屋、彼女の部屋。

時間を惜しんでよんだというわけではなく、思い出したように本を開いてひとかたまりずつ。急いで読み進めようという気持ちでもなくて、でも毎回しおりを挟んだページを開くのが楽しみだった。

そしてまた不思議なことに、『遠い太鼓』は読み終わった後もずっと「思い出したように開いては、ひとかたまりずつ読む本」であり続けた。分厚くて持ち歩くのに不便だったので、文庫が出るとすぐに買い換えた。

就職しても大学院に入っても再就職しても結婚してもフリーになっても再々就職しても、いちばん長い間鞄に入っていた本だと思う。

2013年に完全に分解してしまったので買い換えた。でも分解した方も捨てられず、今でも本棚に入っている。



『遠い太鼓』は読んでいるととても楽しい本だけど、著者本人としては決して無条件で楽しい気持ちで書いたわけではないようだ。

なにしろ「疲弊」がテーマの文章で始まり、途中スランプのように書けなくなった空白期間もある。

去年出た『ラオスにいったい何があるというんですか?』では、『遠い太鼓』が長編小説の印税のアドバンス(前渡し金)を受け取る条件として約束し、書かれたものだということが明かされている。

そういうことを知っても、ときどき適当に開いて何ページか読むときの楽しさが色あせることはない。

いや「楽しさ」というのとはちょっと違う。例えていうならそれは、旅行が道中うんざりすることばかりだったはずなのに、後から思い出すとそのうんざりする感覚も含めてまた味わいたくなる、あの感じに似ている。

著者自身の経験と、それを読んでいた当時の自分自身の経験が不思議に絡み合う場所への郷愁みたいなもの。

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意味と接続 [Thoughts]

(._. )

ときどき、自分にとって重要な、でもその理由をうまく説明できないものたちを書き出してみる。

そして「これは何か?」と考える。共通点でもいいし、その奥にある意味でもいい。それはもしかすると、極めて重要な何かに関連しているかもしれない。そんな予感。

( ._.)

偶然であるはずのいろんな出来事に、隠された意味があるかのように感じることがある。それはポジティブである場合もあればネガティブである場合もある。

(._. )

ある人に2時間もインタビューさせてもらってまとめた原稿がある。

よくまとまっていると自分で思うけど、だからこそこれは果たしてリアルなのかという不安がぬぐえない。

筋が通った議論は、気持ちのいい展開は果たして本当なのか。一連の流れは本当に関連があるのか。編集の毒に侵されていないか。

いつからそんなに恐がりになったのだろう。

( ._.)

アウトラインの中からあるキーワードで釣りあげた、お互いまったく関連がない断片を集めて、なんとなくつながる(気がする)ように並べ替え、接続してみる。

そこに確かに浮かび上がってくる(気がする)、自分のある要素について考える。そこには確かに簡単には言葉にできない重要な何かがある(気がする)。

指先にほんの少し触れる上位階層。

( ._. )

そしてこの記事もまた。

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