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表現したいことがあるときに使う大人のための道具 [アウトライナー]

アウトライナーに対する情熱がどこから来たか、その原型をずーっとたどっていくと、おそらくデボラさんのカードに行き着く。デボラさんとカードの話は、以前に書いたことがある。

知的生産と能率の風景

デボラさんのカードの使い方は、パーツを組み合わせて文章の骨子と流れを組み立てていくもので、文字通り「アウトライン」のレベルだったと思う。

それが学校の事務室という、面白くもなんともなさそうな場所に見事に調和して存在していたあの風景が、ぼくとっての「アメリカ」の、そして「知性」の原風景だ。

そしてぼくにとっては「構造が手に触れられる」ということがとても重要だった。それは組み立てて、操作していくことができるものだという感覚が。

なぜかそのとき「自分にも文章が書ける」と勝手に確信して開けた視界は、日本語学校の作文の時間に原稿用紙を前に硬直してしまったときの絶望的な感じと対になっている。



その後、ことあるごとにデボラさんのオフィスを訪れては、デスクに散らばったインデックスカード(青いのと黄色いのと赤いのがあった)を眺めていた。いくら見ていても飽きなかった。

文章を書くために使うのは青いカードだった。黄色はメモ用紙代わり、赤の用途は最後までわからなかった(きっと大事な場面で使うに違いない)。

以前に見たときはカードを並べてそのままタイプを打っていたけど、もっと長い文章を書くときなどには黄色いメモパッド(リーガルパッドというのだと後で知った)にカードの内容をいったんペンで書き写してからタイプを打っていることにも気づいた(あれはアウトラインだったのかパラグラフの下書きだったのか)。

あるとき、ぼくがオフィスのカウンターに貼り付いて仕事の様子(というよりもカードを操作する様子)を食い入るように眺めているのに気づいたデボラさんは、黄色いカードを何枚かくれた。

そして「何か表現したいことがあるようね?(I guess you have something to say, huh?)」と言ってにっこり笑った。

そうか、これは「something to say(言いたいこと、伝えたいこと、表現したいこと)」があるときに使う大人のための道具なのだ、と思った。

大人ではなかったのでぼくにはそれを使う用事がなかったし、どう使っていいのかもわからなかった。ただ、このカードを使えるようになれば「something to say」を自由に手の中で操作して思いどおりに書くことができるんだ、という感覚だけが強い憧れとして残った。

リーガル・パッドのリーガルとは、経線のあり方よりもはるかに、物事のとらえかた、ものの考えかた、論理の展開のさせかたなどを、意味する。自分の論理を強めたり補完したりする可能性のあるものは、ひとつ残らず書き出して列挙し、それらを作戦的にいろんな方向から観察し、取捨選択しつつ修正をほどこし、論理の筋道を作り、それに沿って論理を組み上げていく。リーガル・マインドの基本はこれであり、これはアメリカ社会のあらゆる細部にまで、徹底して浸透している。自分の頭の中にあるもの、資料のなかにあるもの、あるいは他の人たちから手に入れるものなど、使えそうなものはすべて書きとめておき、机の上に広げて何度も観察しては、論理の筋道を探すための基礎材料となるもの、それがびっしりと手書きされた何枚ものリーガル・パッドの紙なのだ。

インデックス・カードが断片を書きとめておくものなら、そのいくつかを使って組み立てたひとつのパラグラフを書くのが、ジュニア・リーガル・パッドの一ページではないか。そしてそのワン・パラグラフを推敲していくためのスペースが、リーガル・パッドという大きなスペースだ。
——片岡義男『文房具を買いに』


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猫の神様2 [Diary]

生き方をこれまでとは違う形であらためて真剣に考えなくてはならないフェイズに入ってきたことを痛感する出来事が、ここのところ続いていた。

仕事が変わったことも合わせ、過渡期にまつわるストレスフルな状況がいろいろ続いていたし、そんなときは夫婦間でもこれまでうまくいっていたやり方がうまくいかなかったりする。

そういうときは、とりあえず歩くのがいい。それさえできないこともあるけれど、歩けるときには歩く。特別な場所ではなく、近所のなんでもない普通の道をふたりで散歩すること。

(これは何かの秘訣だと思う)



去年の10月頃を境に、散歩コースのトモダチだった三毛猫を見かけなくなった。

コースの途中にある一軒家でエサをもらっていたノラ猫。ノラといっても、玄関の横に専用の水飲み場だって用意してもらっている。

世の中には二種類の猫がいる。
遊ぶ猫と遊ばない猫だ。
それは遊ぶ方の猫だった。

いつ行っても、ぼくらの姿を見かけると、いつものお気に入りの場所(エアコンの室外機の上)で一回伸びをしてから、飛び降りてこちらにやってくる。そして足の周りを回ったり触らせてくれたりちょっと会話したりする。

だから、その方角に用事があるときには遠回りをしてでもその家の前を通るくらいには、ぼくらはその猫に会うのを楽しみにしていた。

その猫を、もう数ヶ月見かけていない。

まあ、ノラだから別にいなくなったって不思議はないのだが、今日もいないな、今日もいないなと思いながらなんとなくその家の前を通りすぎることを続けていた。

今日もきっといないんだろうなと思いつつ、いつもと同じようにその家の前を通った。

思った通り今日も猫はいなかった。そしてもうひとつ気づいたのは、専用の水飲み場とお気に入りの室外機がなくなっていたことだった。

だからと言ってなんらかの結論を出す必要はない。もしかすると、その家の正式な飼い猫にグレードアップしたのかもしれない。

でもとにかく、あのフレンドリーな猫は(少なくともこの場所には)もういないんだな、と思った。



それもまた、変化の一部だ。



そのまま近所のデニーズに晩ごはんを食べに行くことにした。

そのデニーズは店の作りが意外に居心地いいし、長居できるし、コーヒーだっておかわりできる。そして平和だ。

変化の渦中では、心は平和と凡庸を求める。



散歩コースからデニーズのある街道筋に抜ける近道を、散歩の延長でぶらぷらと歩く。近所だけど、普段はあまり歩かない道。

途中、見覚えのない駐車場があった。最近駐車場になったのかもしれないし、以前からここにあった(けど印象に残っていない)のかもしれない。なんの変哲もない、おそらく近所の人が利用する月極の駐車場。

その駐車場の前で、妻が唐突に立ち止まった。何かと思って顔を上げると(うつむいて歩いてたのだ)、いちばん手前に駐まっている白いアクアのボンネットの上に、美しい白猫がきちっと座り、街灯の光の中の下、まるでスポットライトを浴びたように浮かび上がっていた。

幻かと思った。



幻じゃなかった。



世の中には二種類の猫がいる。
遊ぶ猫と遊ばない猫だ。

その美しい白猫は、遊ぶ方の猫だった。
それも、ものすごく遊ぶ方の猫だった。
足に顔をこすりつけた勢いで前方に一回転するくらい。

近くでよく見ると、それは最初に思ったような白く美しい猫ではなかった。白いことは白いけれど、まあなんというか、そんなにきれいじゃない。

でも、すごくよく遊ぶ、白くて気のいいおっさん猫だった。

きっと次もそのまた次も、
この駐車場の前を通ったらそこにいて、
きっとこんなふうに遊んでくれることを
確信させてくれるような、
白くて気のいいおっさん猫。



(猫の神様。)

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