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過去よりも未来を扱うことが得意なツール [アウトライナー]

日々のログや日記をWorkFlowyに蓄積して人生のデータベースのように使いたいのだけど、そういう使い方をしても(大量の過去データを入れても)WorkFlowyは重くならないか、という質問をメールでいただいたことがある。

ぼくはWorkFlowyの専門家ではない上に大量のデータを蓄積するような使い方もしてないので、「正確にはわからないけど、膨大なデータを入れれば相応に重くなるとは思います」という程度のお答えしかできなかったのだけど。



WorkFlowyに限らず、ぼくはアウトライナーをデータの蓄積には使わない。

ライフ・アウトライン(生活と人生を編集するアウトライン)に日々の思いつきを書き込んでいるけれど、それはあくまでも流れていく思いつきをキャッチするためで、蓄積するためではない。

キャッチされた思いつきの断片は、やがてライフ・アウトラインのどこかに位置づけられる。

そのうちのあるものは、やがて「シェイク」されて何らかの形でアウトプットされる。その段階では、元の思いつきは、原型を留めていない。

またあるものは、しばらく寝かされた後で使い道がないことが判明し、消されてしまう。

つまり、日々書き込んだ内容の大半は、やがて消えてしまう。

ライフ・アウトライン自体のサイズはかなり大きいけれど、やっぱり「仮」のものなのだ。

ちなみに、完成してアウトプットされたものは保存するけど、その場所はEvernoteだ。



アウトライナーは、どちらかというと「過去」よりも「未来」を扱うことが得意なツールだと思う。蓄積し、振り返り、引き出すのではなく、思考というフローをラップして(巻き取って)、形にすること。



なんて言いつつ、WorkFlowyのようなツールが登場してしまうと、ここに人生の記録の全てを入れ込みたいという欲望が生まれてくることはとてもよくわかる。

もしかしたらインターネット以前、80年代から90年代にかけてパソコンに出会った世代って、とりわけ「個人データベース」に憧れ(とオブセッション)があるのかもしれない。

ぼく自身も、本当は、WorkFlowyでも他のアウトライナーでも、個人の人生分のテキストくらい引き受けてほしいという願望がある。

過去を蓄積し、引き出すだけでなく「シェイク」できたら何か素敵なことが起こるのか、それはわからない。



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川と電車とカップ麺の作られたかもしれない記憶 [Diary]

三歳か四歳ぐらいのころ、父の自転車の後ろに乗せられて川沿いのサイクリング道をずっと上流まで遡っていったことがある。

どこまでも上流を目指して走り続け、いっこうに止まる気配がなくて、このまま家に帰れなくなるんじゃないかといい加減怖くなった頃、サイクリング道の脇に立つ小さな小屋の前で、父はようやく自転車を停めた。

それは売店だった。

すだれがかかっていて、薄暗い店内にお菓子(かっぱえびせんとかカールとか)が並べられた棚と瓶入りジュース(缶入りではない)の自動販売機と雪印アイスクリームの冷蔵ケースがあった気がするけれど、四歳児がそこまで詳細に記憶しているはずはないから、作られた記憶かもしれない。

そこでカップ麺を買って、売店のおばちゃんにお湯を注いでもらって、ベンチに腰かけて川を眺めながら食べた。プラスチックの透明なフォークを使った気がする。

そのカップ麺は日清カップヌードルではなく、ずっと背の低い、ちょうど雪印アイスクリームが入ってるような扁平なカップだった気がするのだが、そんなカップ麺を見た記憶はその後一度もないから、作られた記憶かもしれない。

いずれにしても、それはぼくが人生で最初に食べたカップ麺だった。そしておそらく父にとってもそうだったのではないかと思う。

それは1972年か73年頃のはずで、日清カップヌードルが発売されたのは1971年だから、そうであってもおかしくはない。

それに、三分待って蓋を剥がすときの父の表情が、後にはじめて「マクドナルド」なるもので「ビッグマック」なるものを買ってきて銀色の包み紙を剥がすときと同じだったから。

川はゆったりと流れ、対岸の線路を古めかしいチョコレート色の電車が通り過ぎていった。

家を出てからずいぶん時間がたった気がしたけれど、陽はまだまだ高かった。川面は強い日差しを反射してきらきら光り、堤防の斜面に茂る背の高い草と、その向こうに広がる畑の緑は濃かった。

だから、季節は夏だったのだと思う。

でも暑かった記憶はないし、蚊に刺された記憶もないし、何より夏のサイクリングの休憩にカップラーメンを屋外で食べるというのも変な気がする。だから、作られた記憶かもしれない。

帰り道、父の自転車の後ろでぼくは眠くて眠くて、何度も眠り込んで転げ落ちそうになった。

家にはなかなか着かなかった。道沿いに本屋を見つけるたびに、父は自転車を停めた。父は本屋の前を素通りするということができない人だった。

そのうちのひとつで、父が文庫本の棚を難しい顔で物色している間、ぼくは「サザエさん」の本を眺めていた気がするのだが、当時の四歳児が「サザエさん」を知っているはずはおそらくないので、作られた記憶かもしれない。



カップ麺を食べながら眺めた線路がどの辺りだったのかは、今ではほぼ特定できる。JR横浜線が鶴見川の右岸に沿って走る小机駅から鴨居駅にかけての区間だ。

去年、ちょっと気分転換に、いつもの散歩コースの終点から適当に乗ったバスの終点で、ぼくはそのことを発見した。

そこには川があり、堤防の上には遊歩道もある(サイクリング道ではないようだ)。周辺には大きなマンションや工場が建ち並んでいるけれど、それでも意外なほど多くの畑が残り、夏には川沿いの緑も深い。

堤防の上から、対岸の横浜線の線路が見える。今ではそこを走るのはチョコレート色の重そうな73系ではなく、ステンレスにグリーンの帯を巻いたE233系だ。それでも、川との位置関係も、線路がカーブしながら離れていく感じも、長いこと記憶していた通りだ。

だから、父の自転車で行った川と電車とカップ麺の記憶は、少なくとも総合的には作られたものではないはずだ。

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