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ジェネラルライフ [Thoughts]

人生について、あまりにも限定的な範囲での客観的な結果にこだわる態度は、役に立つ場合もあるけれど、人生に与えられた重要な希望を自ら捨てることにもつながりかねない。

政治家が重要な政治判断について「総合的に検討し、適切に判断する」としか言わなかったら、そこには言葉に対する不誠実さしか感じないけれど、それは政治家が限定的な範囲での客観的な結果に対する責任を負っているからだ。

でも、自分の人生は「総合的に」判断していい。
これが希望でなくてなんだろう。

たとえば、今日予定したタスクが終わらなかった。
達成すべきことが達成できなかった。

限定的な範囲での客観的な結果にこだわれば、その日は不満足な、不成功な一日だろう。

でも、今日を振り返って範囲や基準を限定せず「総合的に」判断すれば、実は満足できる一日だったということは充分あり得る。

もし仮に今日がどれほど「総合的に」考えたところで不満足だったとしても(そういう日だってある)、「今週」や「今月」や「今年」のスパンの中で「総合的に」振り返ってみれば、実は満足できる人生を構成する一日だったということは、やはり充分にあり得る。

人生はそもそも「総合的」なものだ。
くり返すけど、これが希望でなくてなんだろう。

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本を読まない子どもであることを再確認させてくれた記念の文鎮 [Diary]

子どもの頃から、本は好きだけど本を読まない子どもだった。

家には本がたくさんあったし、本に関しては好きなだけと言っても過言ではないくらい買ってもらえた。

でも、本を読まない子どもだった。

少なくとも、自分ではそのように認識していた。



「読書感想文」が苦手だった。だって、本を読まない子どもだったから。

本を読まない子どもだったけど、好きな本はあった。でも、どこがなぜ好きなのか、自分でもわからない。ただ何十回でも読み返しているので、きっと好きなのだろうと推察されるだけ。

その本の文章が身体を通過するときの「ある種のある感じ」を味わいたいから、と今なら説明するだろうけど、やっぱり意味わかんないね。

でも、読書感想文では、感想を述べ、理由を述べなければならない。

読んで感じたこと。読む前後で変わったこと。登場人物について思うこと。いろんなヒントが与えられたけど、何十回も読んだことがあるはずの本であっても、書くべきことはなにひとつ浮かんでこない。



まして、読んだこともない「課題図書」の感想文なんて。

だから、本当ではないことを書いた。

本当でなくてもいいと思うと、俄然楽しくなってきてしまう悪い癖が発動されて、けっこうノリノリで書いた。



その結果として、区だか市だかの小学生読書感想文コンクール(的なもの)にぼくは学校を代表して出場することになった。

各校の代表が自分の感想文を読み上げ、課題図書についての座談会のようなものが行われた。

みんな真面目で優秀で、ちゃんと自分の意見を持っていた。みんな本を読む子どもだ。ぼくとは違う。

その上、ぼく自身がちゃんと自分の意見を原稿用紙に書いてしまっており、それはコピーされてみんなに(ギャラリーの保護者たちまで含めて)配られていた。

今さら逃げることもできない。

ぼくはまた、本当ではないことを話した。そればかりか、どこかの学校の女の子と意見が対立してムキになって熱い議論までたたかわせてしまった。

女の子は少し涙ぐんでいた。

ぼくは大人げない。
大人じゃないけど。



(君のことがちょっとだけ気になってたんだ)



ぼくは嘘つきだ。



コンクールの記念品(だと思う)の文鎮は、机の上にしばらく置いてあった。本を読まない子どもであることを再確認させてくれた記念の文鎮。

考えてみれば、「文鎮」という字面はその目的によくマッチしている。

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アンクリア [Thoughts]

そのときが来たら実感(痛感)されるけれど、実感していないときにどれだけ説明しても、おそらく理解できない種類のものごと。



たとえば、
人はなぜ強くなければならないのか。
あるいはなぜ弱くてはいけないのか。



「人はみな弱いものでしょう?」



もちろん人は弱いものだし、だからこそ愛しいのだけど、ここで言ってるのはたぶんそういう弱さじゃない。

それは見た目の強さや健全さとはほとんど無関係にそこにある。
見た目や立場上の強さを作り出している場合さえある。
まるで優しさや繊細さのように見える場合もある。
でも、それは弱さなのだ。

気づかないうちに本人を支配し、じわじわと周囲に浸透して、いろんなものを壊していくタイプの弱さ。

そんなタイプの弱さがあるということを、若い頃は知らなかった。

そういう弱さを目にすると、底なし沼のような恐怖を感じる。
なぜなら、それはわたしやあなたとも無関係ではないからだ。
弱さにつけ込まれ、取り込まれてしまう可能性は誰にでもある。



そんな弱さは、たぶんアンクリアにつけこんでくる。
そしてアンクリアを餌に増殖する。

アンクリアというのは、クリアでないことだ。
たとえば
望みがクリアでないこと。
意思がクリアでないこと。
存在がクリアでないこと。



たぶん、クリアであろうとし続けるしかないのだ。
それが、個人的に実感(痛感)したことだ。



繰り返すけど、それは人間としての当たり前の弱さとは関係がない。



あ、それから
猫に学ぶべきところはとても多い。

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