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Word Piece引っ越します [Diary]

年明けから暫定的にnoteに記事を投稿してきましたが、Word Pieceの正式な引っ越し先は以下に決めました。 

Word Piece 3

Word Piece 2はどうしたって?
ふふふふ。 

なお、当ブログ(旧Word Piece)は当面このまま残します。

よろしければ今後はWord Piece 3でお会いしましょう。

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新しい記事の公開をnoteに移行しています [Diary]

思うところあって、2018年1月1日から新しい記事の公開はnoteに移行しています。


Tak.(Word Piece)のnote
https://note.mu/takwordpiece

よろしかったら、引き続きnoteの方でお会いしましょう。
よろしくお願いします。

このまま完全にnoteに引っ越すか、ここに戻ってくるか、あるいは別のブログを作るか、今のところ未定です。当面はnoteを続けます。

すでにいくつかの記事を公開していますが、不思議と数年前のWord Pieceの雰囲気(あるいはそこから若干年齢があがった雰囲気)がある気がします。理由はわかりません。

変わらないのは、すべての記事がピース(piece)だということです。

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おとなだからできること [Diary]

こちらのツイートを読んで思い出したこと。




昔バイトしていた店では、老社長の奥さんが社員とバイトの給与計算を担当していた。しかし、高齢だった奥さんの計算は、ある時期からまったく信頼できるものではなくなった。

当時29歳の店長が、すべての計算をだまってやり直していた(バイトに給与を手渡すのは店長の役目だった)。結果として給与を渡すタイミングが毎月遅れることになった。半日、月によっては一日。

そのことは基本的には伏せられていたけれど、狭いバックヤードで店長が電卓をたたいては給料袋にお金を入れ直している様子、そして毎月「いつまでもぐずぐずしている」ことを奥さんから叱責されている様子を見れば、嫌でもわかった。店長はひと言も言い訳せず、黙って叱られていた。奥さんの最後の「仕事」を奪わないためだ。

学生だったぼくは、店長が29歳という「おとな」だからそういうことができるのだと思っていた。もちろん、今はそうではないことを知っている。

このときの店長の行いが「良いこと」だったのかどうか、そういうことをする「べき」だったのかどうかは、単純には決められないと思う(業務に、まして給与の支払いに支障が出ているのだから)。ただ、誰にでもできることではないのは確かだ。そしてぼくは「りっぱだな」と思った。

そのすぐ後にぼくはバイトをやめてしまったので、その後どうなったのか、その状況がいつまで続いたのかは知らない。

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降車ボタン [Diary]

バスで家に帰る途中、自宅最寄りのバス停に近づいて降車ボタンを押そうとしたところで、別の人がボタンを押そうとしていることに気づき、思わず押すのを遠慮してしまうことはありませんか?

わたしはあります。

小さな男の子がボタンを押したそうにしていることに気づき、押すのをためらっているうちに結局誰もブザーを押さず(「ゆうたくん、ボタンにさわっちゃだめでしょ!」)、降車予定のバス停を通過したこともあるタイプ。



子どもって、ボタン押したいよね。



昔、どこに行く途中だったか、両親に連れられてバスに乗っていた幼稚園児のぼくは、あのボタンが押したくてたまらなかった。

ブザーが鳴り、あちこちにランプが点灯する。すげえかっこいい。

ボタンを押すのはぼくの役目だと早い段階で宣言し、そのタイミングが来たら確実に押せるよう常にスタンバイしていたけれど(しくじってはいけない)、「ねえ、まだおりないの?」と何度目かに確認しても「まだよ」という答え。

窓から見える道路沿いの風景は商店街から住宅街、畑から雑木林へと変化し、それでもまだ目的地には着かず、道路は次第に細く曲がりくねり、車内は暑く(夏だったのか冬の暖房がきつかったのかは覚えていない)、眠くなってきたし、なんだかちょっと気持ち悪いかも。



突然、後ろから肩をとんとんと叩かれ、驚いて振り向くと、それは白いひげをはやしたおじいさんだった。

「次の停留所で降りたいんだけど、ここからはボタンに届かないから、ボク押してくれるかな?」とおじいさんは言った。

もちろん、ぼくはブザーを押してあげた。

「いいよ!」と元気よく答えたのか、「はい」と賢そうに答えたのか、何も答えなかったのか(たぶんこれだ)、覚えていない。ただ速やかに、即座に力を込めてぼくはボタンを押した。

ビーという大きなブザーの音が鳴り響き(昔のバスのそれは、今のバスのマイルドな「ピンポン」よりずいぶん強い音だった)、赤いランプが一斉に点灯した。

「ありがとう、たすかったよ」

おじいさんぼくの肩をもう一度ポンと叩き、降りていった。

自分の力でおじいさんのためにバスを止めた。そのときの誇らしい気持ちを、ぼくは今でも覚えている。



もちろん、今思えばあれはおじいさんがぼくにブザーを押させてくれたのだ。

あるいは、ぼくと同じように、他人がボタンを押そうとしているとつい遠慮してしまうタイプだったかもしれない、おじいさん。
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オールドトーク [Diary]

実家は古い家だ。

文化財級の古さというわけではないけれど、昭和20年代に祖母が10代の母を連れて引っ越してきた時点で「ずいぶん古い家だな」と思ったというから、「古い家だ」と言い切って構わないだろう。

その上、もともとは誰かの仮住まい用の別宅として建てられたものらしく、家族が恒久的に生活をすることを前提に建てられたものではなかった。

つまりは安普請だった。
安普請で、古い。

風の強い日には二階がぐらぐら揺れた。
くみ取り式の便所に落としたものは二度と戻ってこなかった。
風呂場は別棟で(後日増築したから)、タオルを巻いたまま庭を横切っていく必要があった。
その様子は外からよく見えた。
雪見障子があったけれど、開けても隣の部屋が見えるだけだった。
大叔父と祖父の本が詰め込まれた納戸は、一目でそれとわかるほど傾いていた。

祖母にしたところで、ずっとその家に住むつもりではなかったらしい。ただいろんな事情で、気がついたらそうなってしまったのだ(そういうことって、ある)。

子どもの頃から、実家を尋ねてきた人が必ずと言っていいほど「風情がありますね」とか「レトロでいいですなあ」とか言うので、「じゃあ、住んでみやがれ」と言ったりはしなかったけど。



中学生になったとき、いちおう「自室」的なものを与えられた。かつては母の従兄弟が使っていたという部屋。それまでは父が書斎(的なもの)として使っていた。

部屋といっても、玄関に続く廊下の先端を区切って作られた、机と本棚を置いたら何も入らない二畳半ほどのスペースを「部屋」と呼べればの話(布団を敷くこともできないので、ぼくは祖母と同じ部屋で寝ていた)。

閉められるドアはなかったので(部屋の内外を区切るのは「のれん」だった)、思春期の男子が強く希求するところのある種のアクティビティ下におけるプライバシーは保証されなかった。

石油ストーブやファンヒーターを置く場所がないので、暖房は足下の小型ヒーターとホットカーペットだけだった。
窓枠がゆがんでいて、上の方がぴたっと閉まっているのに下の方は3センチくらい開いていた。冬の朝の室温は外気とほぼ変わらなかった。
窓辺に雪だって積もるんだ。
掃除機をかけるそばから壁土が落ちてきた。
本棚を置いていた場所の床は陥没していた(本の重みではなく本棚の重みで)。
家の前を車が通るとレコードがハリ飛びした。
ごく常識的な音量で聴く音楽も外に漏れた。
そして彼女ができてもこの部屋では何もできないという危機感。



ひとりっ子だったからこそ、息子のためにそのスペースを割いてもらえたのだった。小さな書斎を失った父の気持ちは、当時はわからなかった。



その部屋のひとつだけ優れていた点は、猫たちから高く評価されていたことだった。

自由に出入りできて、狭くて、登れるもの(本棚)があって、ホットカーペットがあるその部屋は、猫たちに大人気だった。最盛期に6匹いた猫たちは、好きなときにやってきては思い思いの時間をその部屋で過ごしていった。

ああ、それから車が通るたびにレコードがハリ飛びするので、友だちより早い時期にCDプレーヤーを買ってもらえたこと。



今では母がひとりで暮らしている実家に、その部屋はない。数十年の時を経て、元の廊下に戻されたのだ。
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本を読まない子どもであることを再確認させてくれた記念の文鎮 [Diary]

子どもの頃から、本は好きだけど本を読まない子どもだった。

家には本がたくさんあったし、本に関しては好きなだけと言っても過言ではないくらい買ってもらえた。

でも、本を読まない子どもだった。

少なくとも、自分ではそのように認識していた。



「読書感想文」が苦手だった。だって、本を読まない子どもだったから。

本を読まない子どもだったけど、好きな本はあった。でも、どこがなぜ好きなのか、自分でもわからない。ただ何十回でも読み返しているので、きっと好きなのだろうと推察されるだけ。

その本の文章が身体を通過するときの「ある種のある感じ」を味わいたいから、と今なら説明するだろうけど、やっぱり意味わかんないね。

でも、読書感想文では、感想を述べ、理由を述べなければならない。

読んで感じたこと。読む前後で変わったこと。登場人物について思うこと。いろんなヒントが与えられたけど、何十回も読んだことがあるはずの本であっても、書くべきことはなにひとつ浮かんでこない。



まして、読んだこともない「課題図書」の感想文なんて。

だから、本当ではないことを書いた。

本当でなくてもいいと思うと、俄然楽しくなってきてしまう悪い癖が発動されて、けっこうノリノリで書いた。



その結果として、区だか市だかの小学生読書感想文コンクール(的なもの)にぼくは学校を代表して出場することになった。

各校の代表が自分の感想文を読み上げ、課題図書についての座談会のようなものが行われた。

みんな真面目で優秀で、ちゃんと自分の意見を持っていた。みんな本を読む子どもだ。ぼくとは違う。

その上、ぼく自身がちゃんと自分の意見を原稿用紙に書いてしまっており、それはコピーされてみんなに(ギャラリーの保護者たちまで含めて)配られていた。

今さら逃げることもできない。

ぼくはまた、本当ではないことを話した。そればかりか、どこかの学校の女の子と意見が対立してムキになって熱い議論までたたかわせてしまった。

女の子は少し涙ぐんでいた。

ぼくは大人げない。
大人じゃないけど。



(君のことがちょっとだけ気になってたんだ)



ぼくは嘘つきだ。



コンクールの記念品(だと思う)の文鎮は、机の上にしばらく置いてあった。本を読まない子どもであることを再確認させてくれた記念の文鎮。

考えてみれば、「文鎮」という字面はその目的によくマッチしている。

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川と電車とカップ麺の作られたかもしれない記憶 [Diary]

三歳か四歳ぐらいのころ、父の自転車の後ろに乗せられて川沿いのサイクリング道をずっと上流まで遡っていったことがある。

どこまでも上流を目指して走り続け、いっこうに止まる気配がなくて、このまま家に帰れなくなるんじゃないかといい加減怖くなった頃、サイクリング道の脇に立つ小さな小屋の前で、父はようやく自転車を停めた。

それは売店だった。

すだれがかかっていて、薄暗い店内にお菓子(かっぱえびせんとかカールとか)が並べられた棚と瓶入りジュース(缶入りではない)の自動販売機と雪印アイスクリームの冷蔵ケースがあった気がするけれど、四歳児がそこまで詳細に記憶しているはずはないから、作られた記憶かもしれない。

そこでカップ麺を買って、売店のおばちゃんにお湯を注いでもらって、ベンチに腰かけて川を眺めながら食べた。プラスチックの透明なフォークを使った気がする。

そのカップ麺は日清カップヌードルではなく、ずっと背の低い、ちょうど雪印アイスクリームが入ってるような扁平なカップだった気がするのだが、そんなカップ麺を見た記憶はその後一度もないから、作られた記憶かもしれない。

いずれにしても、それはぼくが人生で最初に食べたカップ麺だった。そしておそらく父にとってもそうだったのではないかと思う。

それは1972年か73年頃のはずで、日清カップヌードルが発売されたのは1971年だから、そうであってもおかしくはない。

それに、三分待って蓋を剥がすときの父の表情が、後にはじめて「マクドナルド」なるもので「ビッグマック」なるものを買ってきて銀色の包み紙を剥がすときと同じだったから。

川はゆったりと流れ、対岸の線路を古めかしいチョコレート色の電車が通り過ぎていった。

家を出てからずいぶん時間がたった気がしたけれど、陽はまだまだ高かった。川面は強い日差しを反射してきらきら光り、堤防の斜面に茂る背の高い草と、その向こうに広がる畑の緑は濃かった。

だから、季節は夏だったのだと思う。

でも暑かった記憶はないし、蚊に刺された記憶もないし、何より夏のサイクリングの休憩にカップラーメンを屋外で食べるというのも変な気がする。だから、作られた記憶かもしれない。

帰り道、父の自転車の後ろでぼくは眠くて眠くて、何度も眠り込んで転げ落ちそうになった。

家にはなかなか着かなかった。道沿いに本屋を見つけるたびに、父は自転車を停めた。父は本屋の前を素通りするということができない人だった。

そのうちのひとつで、父が文庫本の棚を難しい顔で物色している間、ぼくは「サザエさん」の本を眺めていた気がするのだが、当時の四歳児が「サザエさん」を知っているはずはおそらくないので、作られた記憶かもしれない。



カップ麺を食べながら眺めた線路がどの辺りだったのかは、今ではほぼ特定できる。JR横浜線が鶴見川の右岸に沿って走る小机駅から鴨居駅にかけての区間だ。

去年、ちょっと気分転換に、いつもの散歩コースの終点から適当に乗ったバスの終点で、ぼくはそのことを発見した。

そこには川があり、堤防の上には遊歩道もある(サイクリング道ではないようだ)。周辺には大きなマンションや工場が建ち並んでいるけれど、それでも意外なほど多くの畑が残り、夏には川沿いの緑も深い。

堤防の上から、対岸の横浜線の線路が見える。今ではそこを走るのはチョコレート色の重そうな73系ではなく、ステンレスにグリーンの帯を巻いたE233系だ。それでも、川との位置関係も、線路がカーブしながら離れていく感じも、長いこと記憶していた通りだ。

だから、父の自転車で行った川と電車とカップ麺の記憶は、少なくとも総合的には作られたものではないはずだ。

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マジなりたくねー40代問題 [Diary]

電車の中で
「40代とかになってみっともなく生きてるくらいなら若いうちに死んだ方がマシだと思う」
「そうだな」
という挑発的な会話を展開している学生二人組。



これこれ、そんなこと言うもんじゃありません。



「みっともなく生きている」かどうかは年齢じゃなく君自身が決めるんだぜ。



焼鮭弁当と焼き肉弁当を持って夕方の電車に乗る40代はみっともないかみっともなくないか問題の解明が待たれる。



少なくともおばちゃん達が手作りしている最高においしいお弁当屋さんを知っている、東急5050系の滑らかな加速を楽しむことを知っている、走行中の電車から河川敷にいる猫を見つけられる、かつて年上にモテたけど今やすっかり周囲に年上がいなくなったけど尊敬できる年下の友人が何人かいる、飽きない結婚20年目の、とか言ってるうちにけっこう残り少ない40代。



「40代とかマジなりたくねーし」
「生活感とか出てきたら終わりだよな」



生活感が魅力的じゃなかったら、生きてて楽しくないと思うな。



生活とは「生きる活動」のことだし、その結果として身にまとう「感」がどんなものになるかは人によって違う。そしてそれは「今」と確実につながっている。



魅力的な生活感を身にまとう責任を負っているような気がする40代。



学生のうちのひとりが、途中から乗ってきたお年寄りに、迷いなく当たり前に自然な身のこなしで「どうぞ」と席を譲る。



そう、マジなりたくねー40代になるかどうかは、その日々の「生きる活動」の蓄積で決まるんだ。



健闘を祈る。

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成長すると良いでしょう [Diary]

「成長」について考えている。

ビジネスの成長とか経済成長とかアウトラインの成長(!)とかではなく、文字どおり人間として「成長」することについて。

(おそらく)過労とストレスで体調を崩したぼくに対して、Y先生は言った。

「人生には辛いことが多いです。それは当たり前のことですから、そのようなことの影響を受けないよう、より一層成長すると良いでしょう」

日本語が少し不思議な感じなのは、Y先生が台湾の人だからだ。

この歳になって、フツーの人にそんなことを言われてもふふんと思うだけだけど、Y先生は違う。こんな(ある意味陳腐でさえある)言葉を、これほどの説得力と重みを持って口にできる人は、そんなにはいない。

Y先生から見たら、ぼくなんか本当に未熟なのだろう。

だから、素直にその言葉を受け止めた。

それ以来、体調を回復するべく徐行運転しながら、「成長」について考えている。

「成長」するとは、どうなることなのだろう。

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桜の森の満開のタクシー [Diary]

去年の今ごろ、父を病院に送り迎えするタクシーの中から、たくさんの桜を見た。
 
満開の桜について会話ができる。それだけのことにずいぶん救われた。

桜はもちろん公園にある。
それから学校、河川敷。
そして工場。

そう、工場の敷地には、意外なほど多くの桜が植えられているのだ。

実家は京浜工業地帯のど真ん中にある。たくさんの工場がある。そこに桜が咲くことを、この歳になるまでぼくは知らなかった。

「工場には、桜がたくさんある」

タクシーの中で、父がそのことを指摘した。

父からの最後の指摘だ。

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