「自分との約束」について [Thoughts]
自己啓発界(?)には、「自分との約束」という言い方がある。
たとえば、何かをやり遂げると自分に約束する。何かを習慣化することを自分に約束する。自分との約束を守ることで、自分自身に対する信頼を積み上げることができる、というような。
もちろん、自分と約束を交わし、それを守ることが、人生の中で重要な意味を持つ場面は確かにあると思う。
でも、何かを実行する、達成するためのいわばツールとして「自分との約束」を乱発することには注意が必要だ。
■
苦い経験にもとづく。
■
ぼくたちは、自分自身と必要もない約束を交わしてしまうことがある。それも、なぜかけっこうな負荷を自分に強いる約束を。そして自分を縛りつけ、苦しめたあげく挫折する。
今月から取引を始めた新しい外注先とかではなく、そのポテンシャルも性格もいちばんよく知っているはずの自分を相手になぜそうしてしまうのか、まったく理解に苦しむけれど、なぜかそうしてしまう。
後には、自分との約束を守れず、信頼の積み立てを切り崩してしまった自分が残る。
こういうケースの多くは、約束を守れないこと自体ではなく、そもそも約束をしていることが問題なんじゃないだろうか。
■
世の中には、締め切りがあった方が力を出せる人(締め切りがないと力を出せない人)がいる。自分の意思でやっていることでも、締め切りがないと取りかかれない/完成できないというタイプ。
実際、目標を達成するためには締め切りを設定せよと、自己啓発界(?)ではしばしば言われる。
でも、締め切りがあると力を出せない人もいる。ぼくは間違いなくこのタイプだ。
ぼくは締め切りに弱い。目の前に締め切りがあると頭が真っ白になって、本来できるはずのこともできなくなってしまう。
残念ながら、たいていの仕事には締め切りがあるから、ぼくも長年の間に締め切りと折り合いをつける方法を学んできた。
締め切りより可能な限り早い時期に60点レベルの成果物を仕上げる、というのもそのひとつだ。
最悪、それを提出すればいい(少なくとも「できませんでした」と言わずにすむ)という感覚があると、締め切りの恐怖をかなりの程度軽減することができる。結果、頭が真っ白にならずにすみ、本来の力を発揮しやすくなる。結果的には80点くらいのものを提出することができる(ことが多い)。
同種のことをしている人は、きっと多いはずだ。
でも、他人から求められてもいないのに、わざわざ自分自身で締め切りを設定して同じことをしようとは思わない。
逆に言えば、ぼくは自分の意思でやっている作業は、締め切りがなくても完成させることができる。
完成しないこともあるけど、それは締め切りがないせいではなく、能力不足や見込み違いに気づいた等の理由で見切りをつけた場合だ。
もちろん、これはあらゆる意味でプロフェッショナルなやり方ではない。
■
ここでしたいのは、両タイプの優劣比較ではない。
言いたいのは、この「締め切りが必要な人」と「締め切りが不要な人」の違いは、要するに「自分との約束」をして力を出せるタイプの人と、そうではないタイプの違いなのではないかということだ。
そりゃそうだ。締め切りとは完成についての約束なのだから。
■
自分との約束を力に変えられるタイプの人は、どんどん自分と約束すればいい。
でも、誰もがそうではない。
そうではないなら、自己啓発界(?)でしばしば推奨されるからといって、無理な約束を自分に課して縛りつけたあげく信頼を取り崩したり、好きなはずのことを強制労働に変えたりすることはないはずだ。
むしろ必要なのは、「今日はやらなくてもいい(でもやってもいい)」という苦痛のない中間的な感覚を維持することかもしれない。あるいは作業そのものに喜びを感じられるお気に入りの道具や、取りかかりをサポートする小さな条件づくり・仕組みづくりかもしれない。
■
自分と約束を交わし、それを守ることが、人生の中で重要な意味を持つ場面は確かにあると思う。
そのときが来たら、たぶんわかる。
だからそれまでは、必要もない約束を交わして自分を縛りつける必要はない。そんな決まりはない。
たとえば、何かをやり遂げると自分に約束する。何かを習慣化することを自分に約束する。自分との約束を守ることで、自分自身に対する信頼を積み上げることができる、というような。
もちろん、自分と約束を交わし、それを守ることが、人生の中で重要な意味を持つ場面は確かにあると思う。
でも、何かを実行する、達成するためのいわばツールとして「自分との約束」を乱発することには注意が必要だ。
■
苦い経験にもとづく。
■
ぼくたちは、自分自身と必要もない約束を交わしてしまうことがある。それも、なぜかけっこうな負荷を自分に強いる約束を。そして自分を縛りつけ、苦しめたあげく挫折する。
今月から取引を始めた新しい外注先とかではなく、そのポテンシャルも性格もいちばんよく知っているはずの自分を相手になぜそうしてしまうのか、まったく理解に苦しむけれど、なぜかそうしてしまう。
後には、自分との約束を守れず、信頼の積み立てを切り崩してしまった自分が残る。
こういうケースの多くは、約束を守れないこと自体ではなく、そもそも約束をしていることが問題なんじゃないだろうか。
■
世の中には、締め切りがあった方が力を出せる人(締め切りがないと力を出せない人)がいる。自分の意思でやっていることでも、締め切りがないと取りかかれない/完成できないというタイプ。
実際、目標を達成するためには締め切りを設定せよと、自己啓発界(?)ではしばしば言われる。
でも、締め切りがあると力を出せない人もいる。ぼくは間違いなくこのタイプだ。
ぼくは締め切りに弱い。目の前に締め切りがあると頭が真っ白になって、本来できるはずのこともできなくなってしまう。
残念ながら、たいていの仕事には締め切りがあるから、ぼくも長年の間に締め切りと折り合いをつける方法を学んできた。
締め切りより可能な限り早い時期に60点レベルの成果物を仕上げる、というのもそのひとつだ。
最悪、それを提出すればいい(少なくとも「できませんでした」と言わずにすむ)という感覚があると、締め切りの恐怖をかなりの程度軽減することができる。結果、頭が真っ白にならずにすみ、本来の力を発揮しやすくなる。結果的には80点くらいのものを提出することができる(ことが多い)。
同種のことをしている人は、きっと多いはずだ。
でも、他人から求められてもいないのに、わざわざ自分自身で締め切りを設定して同じことをしようとは思わない。
逆に言えば、ぼくは自分の意思でやっている作業は、締め切りがなくても完成させることができる。
完成しないこともあるけど、それは締め切りがないせいではなく、能力不足や見込み違いに気づいた等の理由で見切りをつけた場合だ。
もちろん、これはあらゆる意味でプロフェッショナルなやり方ではない。
■
ここでしたいのは、両タイプの優劣比較ではない。
言いたいのは、この「締め切りが必要な人」と「締め切りが不要な人」の違いは、要するに「自分との約束」をして力を出せるタイプの人と、そうではないタイプの違いなのではないかということだ。
そりゃそうだ。締め切りとは完成についての約束なのだから。
■
自分との約束を力に変えられるタイプの人は、どんどん自分と約束すればいい。
でも、誰もがそうではない。
そうではないなら、自己啓発界(?)でしばしば推奨されるからといって、無理な約束を自分に課して縛りつけたあげく信頼を取り崩したり、好きなはずのことを強制労働に変えたりすることはないはずだ。
むしろ必要なのは、「今日はやらなくてもいい(でもやってもいい)」という苦痛のない中間的な感覚を維持することかもしれない。あるいは作業そのものに喜びを感じられるお気に入りの道具や、取りかかりをサポートする小さな条件づくり・仕組みづくりかもしれない。
■
自分と約束を交わし、それを守ることが、人生の中で重要な意味を持つ場面は確かにあると思う。
そのときが来たら、たぶんわかる。
だからそれまでは、必要もない約束を交わして自分を縛りつける必要はない。そんな決まりはない。
プロセスを共有することに向かない人の共同作業 [Thoughts]
共同作業というと、いっしょに何かをつくること、プロセスを共有することと捉える人が多い気がする。
でも、世の中にはプロセスを共有することに向かない人間もいることを、ぼくは知っている。なぜなら自分がそうだから。
何かを作るときに、人と同じ道筋を通ることができない。人に合わせようとすると、あるいは特定の道筋を強制されると何もできなくなる。人と協力しながら何かを作るということがうまくできない。だいたいは全面的に人に合わせるか(ストレスたまる/力出せない)、一人で突っ走るか(嫌われる)のどちらかになる。
そんなタイプ。
でも、だからと言って自分は人との共同作業に向かないと、諦める必要はない。
プロセスを共有することに向かない人は、ひとりで何かを創り、そのアウトプットを共有すればいい。
その場合のアウトプットは、完成品である必要はないけれど、プロセスの途中段階(つまり「やりかけ」)ではなく、いったん形になったものがいい。自分の意思とその結果を形で示せるような。
プロセスは個人で行い、人にはその結果(アウトプット)を提示し、意見を求め、次のアウトプットに反映する。あるいは同じジャンルの他の人のアウトプットを踏まえ、別のアウトプットにつなげる。
これだって、立派な「人との共同作業」だ。
もちろん、それは口で言うほど簡単なことではない場合もある。世の中の、特に組織の中で共同作業をリードする立場の人は、たいていプロセスを共有することに長けた人だ。仲間と議論を交わしながらいっしょに考えることができる人だ。
でも、プロセスを共有できない人だという自覚があるなら、自分は使えない人間だと悲しい気持ちになったりする前に、「プロセスではなくアウトプットを共有する」方法がないか、考えてみる余地はある。
仮に今いる場所がそのようにできていなくても、アウトプットする場所や方法は現代ではいくらでもある。
でも、世の中にはプロセスを共有することに向かない人間もいることを、ぼくは知っている。なぜなら自分がそうだから。
何かを作るときに、人と同じ道筋を通ることができない。人に合わせようとすると、あるいは特定の道筋を強制されると何もできなくなる。人と協力しながら何かを作るということがうまくできない。だいたいは全面的に人に合わせるか(ストレスたまる/力出せない)、一人で突っ走るか(嫌われる)のどちらかになる。
そんなタイプ。
でも、だからと言って自分は人との共同作業に向かないと、諦める必要はない。
プロセスを共有することに向かない人は、ひとりで何かを創り、そのアウトプットを共有すればいい。
その場合のアウトプットは、完成品である必要はないけれど、プロセスの途中段階(つまり「やりかけ」)ではなく、いったん形になったものがいい。自分の意思とその結果を形で示せるような。
プロセスは個人で行い、人にはその結果(アウトプット)を提示し、意見を求め、次のアウトプットに反映する。あるいは同じジャンルの他の人のアウトプットを踏まえ、別のアウトプットにつなげる。
これだって、立派な「人との共同作業」だ。
もちろん、それは口で言うほど簡単なことではない場合もある。世の中の、特に組織の中で共同作業をリードする立場の人は、たいていプロセスを共有することに長けた人だ。仲間と議論を交わしながらいっしょに考えることができる人だ。
でも、プロセスを共有できない人だという自覚があるなら、自分は使えない人間だと悲しい気持ちになったりする前に、「プロセスではなくアウトプットを共有する」方法がないか、考えてみる余地はある。
仮に今いる場所がそのようにできていなくても、アウトプットする場所や方法は現代ではいくらでもある。
階層(についての)リスト [Thoughts]
アウトラインの階層は上下に無限に連なっている
人生や生活をアウトラインに乗せてみるとき
意思は今いる階層とは別の階層にある(かもしれない)
目的は今いる階層とは別の階層にある(かもしれない)
意味は今いる階層とは別の階層にある(かもしれない)
動機は今いる階層とは別の階層にある(かもしれない)
理由は今いる階層とは別の階層にある(かもしれない)
喜びは今いる階層とは別の階層にある(かもしれない)
傷は今いる階層とは別の階層にある(かもしれない)
今いる階層から見えることがすべてではない
今いる階層での動きは別の階層に影響を与える(上下を問わず)
わたしたちは複数の階層に生きている
表現は複数の階層を同時に扱う
人生や生活をアウトラインに乗せてみるとき
意思は今いる階層とは別の階層にある(かもしれない)
目的は今いる階層とは別の階層にある(かもしれない)
意味は今いる階層とは別の階層にある(かもしれない)
動機は今いる階層とは別の階層にある(かもしれない)
理由は今いる階層とは別の階層にある(かもしれない)
喜びは今いる階層とは別の階層にある(かもしれない)
傷は今いる階層とは別の階層にある(かもしれない)
今いる階層から見えることがすべてではない
今いる階層での動きは別の階層に影響を与える(上下を問わず)
わたしたちは複数の階層に生きている
表現は複数の階層を同時に扱う
秋のリスト(あるいは品性2.0) [Thoughts]
たとえば、
意味のある労力に敬意を払うこと
実際に行うことに敬意を払うこと
完成することに敬意を払うこと
言葉に敬意を払うこと
過去に敬意を払うこと
個人で立つことに敬意を払うこと
ちょろいお金を疑うこと
正すことに快楽を見出さないこと
もの申すことに快楽を見出さないこと
一員であることに快楽を見出さないこと
見せることだけを目的として行動しないこと
システムの向こう側を想像すること
内側を向いて笑わないこと
外側の風景を想像すること
批判や異議表明に汚い言葉を使わないこと
心の操作をビジネスと呼ばないこと
など
意味のある労力に敬意を払うこと
実際に行うことに敬意を払うこと
完成することに敬意を払うこと
言葉に敬意を払うこと
過去に敬意を払うこと
個人で立つことに敬意を払うこと
ちょろいお金を疑うこと
正すことに快楽を見出さないこと
もの申すことに快楽を見出さないこと
一員であることに快楽を見出さないこと
見せることだけを目的として行動しないこと
システムの向こう側を想像すること
内側を向いて笑わないこと
外側の風景を想像すること
批判や異議表明に汚い言葉を使わないこと
心の操作をビジネスと呼ばないこと
など
ジェネラルライフ [Thoughts]
人生について、あまりにも限定的な範囲での客観的な結果にこだわる態度は、役に立つ場合もあるけれど、人生に与えられた重要な希望を自ら捨てることにもつながりかねない。
政治家が重要な政治判断について「総合的に検討し、適切に判断する」としか言わなかったら、そこには言葉に対する不誠実さしか感じないけれど、それは政治家が限定的な範囲での客観的な結果に対する責任を負っているからだ。
でも、自分の人生は「総合的に」判断していい。
これが希望でなくてなんだろう。
たとえば、今日予定したタスクが終わらなかった。
達成すべきことが達成できなかった。
限定的な範囲での客観的な結果にこだわれば、その日は不満足な、不成功な一日だろう。
でも、今日を振り返って範囲や基準を限定せず「総合的に」判断すれば、実は満足できる一日だったということは充分あり得る。
もし仮に今日がどれほど「総合的に」考えたところで不満足だったとしても(そういう日だってある)、「今週」や「今月」や「今年」のスパンの中で「総合的に」振り返ってみれば、実は満足できる人生を構成する一日だったということは、やはり充分にあり得る。
人生はそもそも「総合的」なものだ。
くり返すけど、これが希望でなくてなんだろう。
政治家が重要な政治判断について「総合的に検討し、適切に判断する」としか言わなかったら、そこには言葉に対する不誠実さしか感じないけれど、それは政治家が限定的な範囲での客観的な結果に対する責任を負っているからだ。
でも、自分の人生は「総合的に」判断していい。
これが希望でなくてなんだろう。
たとえば、今日予定したタスクが終わらなかった。
達成すべきことが達成できなかった。
限定的な範囲での客観的な結果にこだわれば、その日は不満足な、不成功な一日だろう。
でも、今日を振り返って範囲や基準を限定せず「総合的に」判断すれば、実は満足できる一日だったということは充分あり得る。
もし仮に今日がどれほど「総合的に」考えたところで不満足だったとしても(そういう日だってある)、「今週」や「今月」や「今年」のスパンの中で「総合的に」振り返ってみれば、実は満足できる人生を構成する一日だったということは、やはり充分にあり得る。
人生はそもそも「総合的」なものだ。
くり返すけど、これが希望でなくてなんだろう。
アンクリア [Thoughts]
そのときが来たら実感(痛感)されるけれど、実感していないときにどれだけ説明しても、おそらく理解できない種類のものごと。
■
たとえば、
人はなぜ強くなければならないのか。
あるいはなぜ弱くてはいけないのか。
■
「人はみな弱いものでしょう?」
■
もちろん人は弱いものだし、だからこそ愛しいのだけど、ここで言ってるのはたぶんそういう弱さじゃない。
それは見た目の強さや健全さとはほとんど無関係にそこにある。
見た目や立場上の強さを作り出している場合さえある。
まるで優しさや繊細さのように見える場合もある。
でも、それは弱さなのだ。
気づかないうちに本人を支配し、じわじわと周囲に浸透して、いろんなものを壊していくタイプの弱さ。
そんなタイプの弱さがあるということを、若い頃は知らなかった。
そういう弱さを目にすると、底なし沼のような恐怖を感じる。
なぜなら、それはわたしやあなたとも無関係ではないからだ。
弱さにつけ込まれ、取り込まれてしまう可能性は誰にでもある。
■
そんな弱さは、たぶんアンクリアにつけこんでくる。
そしてアンクリアを餌に増殖する。
アンクリアというのは、クリアでないことだ。
たとえば
望みがクリアでないこと。
意思がクリアでないこと。
存在がクリアでないこと。
■
たぶん、クリアであろうとし続けるしかないのだ。
それが、個人的に実感(痛感)したことだ。
■
繰り返すけど、それは人間としての当たり前の弱さとは関係がない。
■
あ、それから
猫に学ぶべきところはとても多い。
■
たとえば、
人はなぜ強くなければならないのか。
あるいはなぜ弱くてはいけないのか。
■
「人はみな弱いものでしょう?」
■
もちろん人は弱いものだし、だからこそ愛しいのだけど、ここで言ってるのはたぶんそういう弱さじゃない。
それは見た目の強さや健全さとはほとんど無関係にそこにある。
見た目や立場上の強さを作り出している場合さえある。
まるで優しさや繊細さのように見える場合もある。
でも、それは弱さなのだ。
気づかないうちに本人を支配し、じわじわと周囲に浸透して、いろんなものを壊していくタイプの弱さ。
そんなタイプの弱さがあるということを、若い頃は知らなかった。
そういう弱さを目にすると、底なし沼のような恐怖を感じる。
なぜなら、それはわたしやあなたとも無関係ではないからだ。
弱さにつけ込まれ、取り込まれてしまう可能性は誰にでもある。
■
そんな弱さは、たぶんアンクリアにつけこんでくる。
そしてアンクリアを餌に増殖する。
アンクリアというのは、クリアでないことだ。
たとえば
望みがクリアでないこと。
意思がクリアでないこと。
存在がクリアでないこと。
■
たぶん、クリアであろうとし続けるしかないのだ。
それが、個人的に実感(痛感)したことだ。
■
繰り返すけど、それは人間としての当たり前の弱さとは関係がない。
■
あ、それから
猫に学ぶべきところはとても多い。
雑な言葉を使わないように努力することぐらいしかない [Thoughts]
刃のつもりで相手に投げつけたわけじゃない言葉が相手を、そして相手を通して自分を、ざっくり切り裂く。
■
(本当に切れるんだよね)
■
その言葉が不適切な力や作用を持つことが判明しても、一度世界に放たれてしまった言葉は二度と回収できない。
どれほど真剣かつ真摯に選んだ(つもりの)言葉であっても、選択のプロセスは考慮されない。放った言葉を編集して、本来込めたつもりの願いを現前させる感覚がはっきりあったとしても。
■
(それはフリーライティングではない)
■
人と人との間の激しいインタラクション(別の言い方もある)という、その成り立ちからして厳密さを欠く上にリニアな状況の中で言葉に対してできることは、せめて雑な言葉を使わないように努力することぐらいしかない。
■
「ぐらいしかない」けど、その手間と努力を厭わないことは、とても大きな違いを生む。
■
(本当に切れるんだよね)
■
その言葉が不適切な力や作用を持つことが判明しても、一度世界に放たれてしまった言葉は二度と回収できない。
どれほど真剣かつ真摯に選んだ(つもりの)言葉であっても、選択のプロセスは考慮されない。放った言葉を編集して、本来込めたつもりの願いを現前させる感覚がはっきりあったとしても。
■
(それはフリーライティングではない)
■
人と人との間の激しいインタラクション(別の言い方もある)という、その成り立ちからして厳密さを欠く上にリニアな状況の中で言葉に対してできることは、せめて雑な言葉を使わないように努力することぐらいしかない。
■
「ぐらいしかない」けど、その手間と努力を厭わないことは、とても大きな違いを生む。
そうじゃない人 [Thoughts]
1)
そうじゃない人になりたいと願っていた。
逃げ切れるような気がしていたときもあった。
2)
そうじゃない人になることは、思うほど難しいことじゃなかった。
逃げ切ることは、思うほど意味のあることじゃなかった。
そうじゃない人になりたいと願っていた。
逃げ切れるような気がしていたときもあった。
2)
そうじゃない人になることは、思うほど難しいことじゃなかった。
逃げ切ることは、思うほど意味のあることじゃなかった。
自分の場所にあってひとり [Thoughts]
自分の場所(だと思える場所)があるというのは大事なことだ。
でも、オトナになったら自分の場所に他人を巻き込むべきではないし、他人の場所に巻き込まれるべきでもない、と思う。
あなたもわたしも、それぞれの自分の場所にあってひとりだ。
ひとりだからこそ、(※)でいられる。
※
=ふたり
=みんな
=なかま
=ともだち
etc.
でも、オトナになったら自分の場所に他人を巻き込むべきではないし、他人の場所に巻き込まれるべきでもない、と思う。
あなたもわたしも、それぞれの自分の場所にあってひとりだ。
ひとりだからこそ、(※)でいられる。
※
=ふたり
=みんな
=なかま
=ともだち
etc.
フリーライティングについてのフリーライティング(生)と成果 [Thoughts]
頭を使うな。体を動かせ。心を動かせ。指を動かせ。何をするべきかは体が知っている。だから体を動かせ。なぜなのか考えてはいけない。答えてくれという言葉は人には届かない。答えてほしくても誰も答えてはくれない。本当に答えがほしいときには誰も答えてくれない。そもそもそこには誰もいないはずだ。答えが欲しいときどうすればいいか考えろ。考えれば何か頭には浮かぶ。答えかどうかはわからないけれど。頭に何か浮かべば動くことができる。そこから何かが動き出す。動き出せば何かが変わる。変われば少なくとも今ある状態ではなくなる。それを求めているだろう。今ある状態ではなくなればどうなる。答えを探すことが必要だ。探すとどうなるということではない。探すその行為が重要だ。意図しなくても動いていれば何かが見つかる。今があるのはそうやって見つけてきたからだ。見つけようとして見つかったものがどれだけある。
成果:
見つけようとして見つかったものがどれだけある?
成果:
見つけようとして見つかったものがどれだけある?