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押せばどこまでも広がる透明な壁 [Thoughts]

「強大な敵が目の前に立ちふさがっている」とかいう状況なら、自分がどんなふうにすればいいのかはおのずとわかる。闘うか逃げるかしかない。

でも、敵がすぐそこにいることが感じられるのに、その姿はどんよりとした雲の中に隠れていて、押しみても手応えがないし、そもそもどんな姿なのかもわからない。

しかし、放っておけばそいつに飲み込まれてしまうだろうということだけはひしひしと感じられる。そんなやつと、いったいどんなふうに闘ったらいいんだろう。

とか言ってるのはあくまでもプライベートな、個人的な問題についてだけど、それとは別に、今って誰もがそんな敵と対峙しているような感じがするのだよね。

大きいところでは放射性物質や政治の問題、小さいところでは職場で見聞きしたり感じたりする問題まで。そこに問題があることは明らかなのに、そしてそれをどうにかしなければならないことは明白なのに、具体的に何と闘っていいのかわからない、もやもやとした感じがすることが多い。

理詰めで追求しようとしても理屈が通らないし、破壊しようとしても実体がよくわからない。社会全体レベルから個人レベルまで、問題の多くにそれが当てはまるような気がする。



80年代に鴻上尚史が「天使は瞳を閉じて」で描いたのは「押せばどこまでも広がる透明な壁に囲まれた街」。どこまでも行くことはできるけど、壁の外に出ることだけはできない。80年代の状況をこれほど的確に表現した比喩は他になかったと思うけど、今の状況を同じように表現するとしたらどんな感じになるだろう、と最近よく考える。

かつて街を取り囲んでいた「押せばどこまでも広がる透明な壁」は、今は透明ではなく実体があり、目に見える形で街を取り囲んでいる。

壁の中で甘んじて暮らす人々が大多数を占める一方で、人々の一部は壁を壊さなければと考え、実際に行動を起こしている人もいる。

でも、目に見えているその壁とは別に、ひとりひとりの人間の周りにも壁がある。壁は透明で堅さも厚みもなく、押せばどこまでも広げていける。お互いの壁を介して他人とふれあうこともできる。でも、直接ふれあうことはできないし、直接声を聞くこともできない。

そして、かつての壁はシステムが創り出していた(と感じられた)けれども、いまはたぶんそうではない。

とかとか。少なくとも、今の自分にはそう感じられる。

そんな中でどんなふうに生きればいいのか、正直言ってよくわからないけど、たぶんクリアな欲望とクリアな思考とクリアな身体が絶対に必要だということは間違いない。



「天使は瞳を閉じて」は90年代以降も形を変えて何回か上演されてるし、そのときの内容を実は知らないんだけど…。今年「虚構の劇団」で「天使は瞳を閉じて」が再演されるので、そこで「壁」がどんなふうに描かれるのか、楽しみ。
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