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休みについて [Diary]

ここでいう「休み」とは「休日」という意味ではなく、文字どおり「休養」という意味。



「休む」というのは、自分の頭と心を休めることによって、この先も生きていく(ちょうたいへん!)ための体力と気力とモチベーションを復活させることだ。

だから、飲みに行くとか、パチンコに行くとか、競輪に行くとか、懐かしいけど憎むべき昭和の概念「家族サービス」をするとかはもちろん、(たとえば)勉強会に出るとか、(たとえば)ブログを書くとか、(たとえば)プログラミングをするとか、(たとえば)普段できない家事を分担するとか、(たとえば)ミッションステートメントを書くとか、そういうもう少しモダンなあり方だって、有益な休日の過ごし方の一例ではあるけれど(そして良いことではあるけれど)、本来の意味での「休み」にはなっていない。

現代の生活で、本当に「休む」ことは考えれば考えるほど極めて難しい。そのサイクルの中にいると、「休む」ということが本来どういう意味なのか、容易に忘れてしまう(ひょっとすると、何十年も休んだことがない上にそのことに気づいていない人だっているかもしれないよ?)。



先週の週末は、隣駅の近くにある、ずっと行きたいと話していたカフェにTomo.さんと行った。

コーヒーもケーキもおいしかったけど(またしても、ドトールの味に慣れきった舌に鮮烈な刺激)、何よりよかったのは、その店には大きな窓があって、一方からは行き交う電車が、もう一方からは隣にあるお寺の境内の緑が見えることだ。

Macも持っていたし文庫本も持っていたけど、気がつけばそのいずれもテーブルに出すことなく、一時間くらいぼんやりと窓から風景を眺めていた。Tomo.さんも最初は本を読んでいたけど、後半は同じように窓からの景色を眺めていた。

そして、ときどきは生活に根ざしたクリティカルな会話を。

その一時間は、ここのところ次々に降りかかってくる、アンナコトやコンナコトにまつわる痺れるような疲れを取るには充分とは言えなかったけど、確かに「休養」をした実感があった。



だから今日もふたりで同じカフェに行った。
そして先週より少し多めのクリティカルな会話を。

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電車 [Diary]

たまたま乗り合わせたわたしの人生とあなたの人生が、同じ箱に乗って運ばれている。

あなたがどこから来てどこに行くのかわたしは知らないし、わたしがどこから来てどこに行くのかあなたは知らない。

決して交わることはない。

でも、今は膝と膝が触れ合うくらいの距離で並んで座っていたり、向かい合って何かの拍子に一瞬目があったりしている。

たまらなく自由で孤独でエロい。

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アウトラインと目次 [アウトライナー]

『アウトライナー実践入門』の中で少しだけ触れ、先日のイベント「夏の知的生産&ブログ祭り」でのプレゼンでもちらっと出てきた、「アウトライン」と「目次」との関係について。



アウトライン・プロセッシングに慣れていない人が、文章を書くためにアウトライナーを使おうとすると、ほとんど必ずと言っていいほど「目次案」を作ってしまう。文章を書くことに慣れている人ほど、そうかもしれない。

でも、いろんなところで書いてる通り、アウトラインは決して「目次案」ではない。そして、アウトライナーで文章を書く作業とは、アウトラインを元に文章を書くことではない。

とはいえ、「アウトライン」と「目次」は見た目上よく似ている(すごーく似ている)。そして、世の中では、「目次案」や「構成案」というものがすでに市民権を得ている。誤解が生じるのも無理はない。

その上ややこしいことに、アウトラインと目次が一致する瞬間も、確かにあるのだ。



「アウトライン」とは、書き手がその上で「考える」ためのものだ。つまり「書き手のためのもの」だ。一方の「目次」は、読み手をナビゲートするためのガイドだ。つまり「読み手のためのもの」だ。

これが両者の違いだ。

アウトライナーの中で、発想の断片は集合離反しつつ成長し、最終的なアウトプットへと育っていく。

このプロセスを「アウトラインの性質」という観点から見ると、書き手のための「アウトライン」から、読み手のための「目次」へと、徐々に接近していく過程と捉えることができる。

頭に浮かんだこと、流れていくことを、アウトライナー上に自由に書き出す。

リスティングし、グルーピングし、ブレイクダウンし、レベルアップし、ソーティングしながら「考える」。思考を形にし、あるいは理解しようと試みる。「アウトライン」というカタチ(そしてアウトラインの折り畳みと入れ替えというアウトライナーの機能)が、この作業の助けになる。

やがて、それを人に伝える段階がくる。形にした思考が人に伝わるように、流れを工夫し、魅力的な語り口を考える。その過程で、アウトラインは書き手が考えるためのものから、読み手の理解を助けるためのものへと変化していく。最後には「目次」と完全に一致するはずだ。

(実際には、読み手のための「語り口」の影響を受けて新しいことを思いついちゃったりするので、この流れは一方通行ではないけれど)



長い文章を書く時、ぼくは作業の前半(発想〜ドラフト)にはWorkFlowyやOmniOutlinerのようなプロセス型アウトライナーを使い、後半はWordなどのプロダクト型アウトライナーを使うことが多い。

これは、上記のプロセスにそのまま対応している。アウトラインが一定以上「目次」へと接近した後に有効なのが、プロダクト型アウトライナーなのだ。そして、この段階でのプロダクト型アウトライナーは、極めて強力だ(信じない人がいるかもしれないけど、Wordは正しく使えば役に立つ)。

(プロセス型アウトライナーとは、「見出し」の概念がなく、階層関係だけで構造を表現するアウトライナー。プロダクト型アウトライナーとは、文書の「見出し」とアウトラインが対応しているアウトライナー。詳しくはこちらの記事を参照)



以上の話は、あくまでもアウトライナーを中心として考えているけど、「書き手が考えるためのガイド」から「読者をナビゲートするための目次」への接近という観点から、いろんなツール(たとえばUlyssesやScrivener)について考えてみると面白いかもしれない。

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自らに対する脳内でのささやかな称賛 [Thoughts]

何か問題や課題を抱えているとき、いつも頭の中で「そうじゃないやり方があるはずだ」とつぶやいているような気がする。

あまりにも当たり前でほとんど意識することもないけど、たぶん子どもの頃から。

「人と同じことはしたくない」とか「常識を疑ってみる」などと言えばすごくかっこいいけど、そういうのとはちょっと違う。

もっとずっと余裕がなくて、切実なニュアンスを持ったフレーズだ。

それは、昔から「普通(とされる)のやり方」や「指示されるやり方」にどうしても適応できなかったり、違和感があったりしたことと対応している。

つまり、元々はネガティブな感覚だった。

でも、最近気づいたのは、「そうじゃないやり方がきっとあるはずで、それを見つけなければならない」という感覚自体が、自分にとって何かを考えたり、前に進めようとしたりするモチベーションになってきたということだ。

「そうじゃないやり方があるはずだ」という言葉に伴う感覚は、人生のある時点で少しだけポジティブなものに変化した。心の中で起こったほんの小さなニュアンスの変化だけど、結果は小さくはない。

それがなかったら、生きることは今よりずいぶん(より一層)難しくなっていた気がする。

変化のきっかけが何かは知っているけど、誰にも言わない。ただそこに自分の「意志」が関わっていることについて、自らに対する脳内でのささやかな称賛を惜しまない。

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