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ビューポイントの残留物 [Thoughts]

自分の中に「ひょっとしたら自分は冷たいのではないか」「自分は傲慢なのではないか」という感情があったとして、それが内省的なようでありながら、単に他人からそう見えることを気にしているという面があることは否めないだろう。

人からどう見えるかを判断の基準にすると、後で絶対に後悔する。たとえ多少不愉快な思いをしたり残念な思いをすることがあるとしても。

でも、自分が今どちらに立ってものを見ているのか。どうしたらそれがわかるのか。



「メモはポイントだけ書け」と教わった。

でも、たとえばインタビュー中にメモをとるとして、そのとき「ポイントだけ」まとめないことの重要性をずっと感じてきた。たとえばその人の言葉の使い方や語尾。

「この製品は良いと思います」
「いやあ、これはいい」
「いや、ちょー最高ですよ!」
「いいと思います」

データ的にはいずれも「評価5」なのだが、何かが大きく違う。そのニュアンスはレポートからはもちろん削られている。

その大きな違いを表現する必要はないし、表現するべきではない。でもその空気や気配は自分の中に不思議なほど残る。



たとえばたまたま座れた職場に向かう電車の中。
待ち合わせの場所に早く着いた20分。
会議で全員が揃うまでの5分。

ある時期から、そういう名前のない時間に「隙間時間」と名前をつけて活用することが奨励されるようになった(その言葉を最初に使ったのが誰か知らない)。

でも、名前をつけて「活用」しようとした瞬間に、名前のない時間だった何かは、別のものへと変質する。

そしてあるとき、名前がない時間の大切さを痛感する。

電車の中で、特に意味のあることをせず、人を眺めたり景色を眺めたりしているとよくわかる。そういう時間に目にしたものや耳にしたものや感じた物ごとが、意外なほど自分の中に残っている。



元気に前向きにやっていくしかない。
この言葉の力と意味がわかるようになってきた。
いつかどこかで誰かが口にした、月並みな言葉。

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(痛み)とその提出 [Thoughts]

不思議なことに、人は自分の知っている何かを他人に知ってもらいたいと思うし、知ることを要求しさえする。その何かに痛みが伴う場合は特にそうだ。
→「わたしの(痛み)が、あなたにならわかるはず」

一方でこれも不思議なことに、人は自分の知っている何かを他人は知らないし、また知り得ないと思いがちだ。その何かに痛みが伴う場合は特にそうだ。
→「わたしの(痛み)が、あなたにわかるはずがない」

両者はたぶん、同じ意味なのだろう。



ある種の(痛み)については、他人に理解を求めようとしない方がいい。それが自分にとってどれほど切実な問題だとしても、あるいは切実な問題だからこそ、他人はそれを同じように切実な問題とは受け取らないだろう。

同時に、ある種の(痛み)については、他人よりもよく知っていると思わない方がいい。それは個人の内部で完結するものだ。それは他人とは関係なく、自分が「ただ知っている」ことなのだ。



それでも、ある種の(痛み)を形にすることにはやっぱり意味があると思う。矛盾するようだけど。

(痛み)を、他人が手を触れられる、感じられる、形あるもの——広い意味で——に変換して提出することは、芸術的行為のひとつの形でさえあるはずだし、何よりも人との関わりの中でそれをすることは、生活(=生きる活動)の重要な要素のひとつでもある。

それはたぶん、表現の問題だ。



(痛み)は、たぶん別の何かとも置き換え可能だ。

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