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予定されていない羅針盤 [アウトライナー]

20代の頃に彼女が住んでいた街の小さな駅前商店街に、とても魅力的な喫茶店があった(いわゆる昔ながらの「喫茶店」よりもう少しモダンな感じだったけど、当時「カフェ」という言い方はしなかった)。

同じ小さな商店街の小さな書店で買った本を持ってその喫茶店に入り、窓際の席に落ち着くときの感覚は、20年以上たった今でも、個人的にとても大きな意味を持っている。

それが具体的にどんな意味なのか言語化しろと言われるととても困るけど。

同じような「とても大きな意味があるけどその意味を言語化できない」類の記憶は、他にもたくさんある。

国立の大学通りにある紀ノ国屋の中から、通りすぎていくバスを並木越しに眺めていたことととか。

ロンドンのパディントン駅で、仕事帰りのかっこいいおねーさんが、列車の席に落ち着くなりバッグの中からポテトチップスの袋を取り出してつまみはじめる様子とか。

それらは、客観的に見れば取るに足らない末端の出来事の記憶にすぎない。にもかかわらず、ぼくが今ここでこのように生きていることと確実につながっている。それらの記憶を持たない自分は、今ある自分とは少しだけど確実に違う自分だろうという確かな感触がある。

「人生設計」とは何の関係もない。「価値観」とも「ミッション」とも「目標」とも関係ない。それでも、自分がなにがしかの判断や選択をするとき、微妙に、しかし確実に影響を与えている。生きる上でのかすかな羅針盤(変な日本語)のような役割を果たしている。

重要なのは、それらの記憶に人生の羅針盤としての役割は予定も期待もされていなかったということだ。事前に「設計」したり「宣言」したりできない種類の羅針盤なのだ。そういうものを、ぼくらはけっこう頼りにしている(それなりに年齢を重ねてからそのことに気づいた)。

タスク(と呼ばれるもの)やプロジェクト(と呼ばれるもの)を考えるときには、その種の記憶をいっしょに扱いたいと思う。予定されていないかすかな羅針盤となる記憶。

特別なツールや機能は必要ない。

もちろん、ぼくならアウトライナーを使うけど、別にアウトライナーである必要はない。Evernoteでも紙のノートでもいい。ただ、かすかな羅針盤となる記憶の存在にふと気づいたとき、それを自由に書き出し、位置づけられるスペースと汎用性があればいい。
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