『Piece shake Love』について2(配列と創作と構造) [Diary]
『Piece shake Love』の話の続き。
「本書はアウトライナーの本ではありません」と書きました。でも、実はアウトライン・プロセッシングの実験という面があります。いや、そんなに大げさなことじゃないんですが。
■
ブログのセレクション本を作るにあたって決めたのは、「構造化しようとしない」ということです。
「構造」のことはいっさい考えず、「配列」として気持ちよくなるまでひたすらアウトラインを操作すること。
「構造化」というと大げさなら「分類」または「整理」と言いかえてもいいかもしれません。
たとえば、いちばん単純なのは公開時期による構造化です。これは2008年の記事、これは2009年の記事……という具合です。まあ、ブログ自体がもともとそういう構造をしてるので、これは構造化とも言えないわけですが。
同じ時間による構造化でも、書かれた(描かれた)時期による構造化もできます。これは学生時代の話、これは子どもの頃の話、これは現在の話……という具合。
内容による構造化もできます。これは理屈系、これは物語系、これは情緒系、これはエロ系みたいな。
で、人情として、うまく「構造化」できると気持ちよくなっちゃうのです。内容が「理解」できたような気がする。
でも、こうした作った構造に従って記事を並べてみても、面白くもなんともないし(←やったんじゃないか)。
■
で、いっさい構造化をしないことに決めました。
アウトライン・プロセッシングの5つの型で言えば、ソーティングだけを、ひたすら繰り返したことになります。
具体的には、テーマに合った記事を抽出し(最初の段階では84記事ありました)、それを気持ちいい順番に「配列」することだけを考えました。
最初は記事の配列をしていたのですが、通して読んでみるとまったくダメなので、途中から元の「記事」の枠を外すことにしました。
つまり、エピソードやフレーズを元の文脈から切り離して並べ替えてもいい。元記事の原型がなくなるくらい書き直したり切り落としたりしてもいい。
やっているうちに気づいたのは、これは実質的にはブログの記事を素材にした「創作」なのだということです。
もちろん、「実話」を書いてるつもりの記事だって、フレーズを選び、リズムを整えてる時点で厳密にいえば創作なわけですが。
それならばと、昔書いた黒歴史的創作の一部を組み込む。この段階で自分でも何の本なのかよくわからなくなったけど、気にせず続ける。
説明するな。
後から照れろ。
■
そんなことを延々と続けているうちに、やがて「これちょっといい感じかも、読んでて気持ちいいかも」という「配列」ができました。
とても不思議なことに、そこにはちゃんと「構造」がありました。「配列」だけを考え続けた結果、「構造」ができたわけです。
「構造化」しようとしたなら、決して生まれなかっただろう構造です。
後はいつもと同じようにトップダウン(構造の操作)とボトムアップ(個別のフレーズ)を行き来しながら加筆修正する、つまり〈シェイク〉するだけです。
結果として、細かいところはずいぶん変わりましたが、このときできた「構造」は、基本的には変わりませんでした。
『Piece shake Love』について [Diary]
11月18日に電子書籍『Piece shake Love』を地味に出版しました。KDPによるセルフ・パブリッシングです。
詳細と目次
Amazonで見る
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本書はアウトライナーの本ではありません(というのも変な話ですが、まあ一応)。
正確にいうと「直接的には」アウトライナーの本ではありません。その辺はまた改めて書きます。
■
で、じゃあいったいなんの本なのかというと、とても困ってしまうわけですが、ストレートに書けば、Amazonの紹介文に書いた通り、過去にブログ「WordPiece」その他で公開した記事の中からセレクトしたものを、創作的に再構成したものです。
セレクトの基準となった単語は、本書のタイトルに含まれていますと、これもAmazonの紹介文で書きました。まあ、ここは自分のブログなのでもったいぶらずに書きますが、Loveです。愛です。
例によって、Amazonで「ジャンル」を決めなければならず、大変困りました。これは「エッセイ」なのか。それとも「創作」なのか。
まあ仕方ないので両方チェックしましたが、たぶん「エッセイ」でも「創作」でもありません。いちばん近い説明が、「ブログ記事(等)の創作的再構成」というものです。あるいは創作的シェイク(このブログを読んでくださってる方向けの説明)。
■
本当のジャンルは、「自分が読みたい本」です。そうとしか言いようがありません。これは倉下忠憲さんから拝借した言葉です。
これは自由を感じさせる言葉であると同時に、とても厳しい言葉でもあります。だって、自分で「これなら読みたい」と感じるものにならなければならないのです。そして、自分を誤魔化すことはできません。
そんなわけで、思っていたよりずっと時間がかかりました。
■
『アウトライナー実践入門』の作業が終わった後、諸事情で進捗70%で中断したままになっている『ライフ・アウトライン(仮)』の作業を再開する予定でした。
でも、なぜかブログ記事のセレクションを始めてしまいました。たぶん、アウトライナーについて考えすぎて、一時的に頭が飽和しちゃったんだと思います。
で、ちょっと息抜きも兼ねてアウトライナーじゃないことをやって9月中くらいに仕上げたらその後は『ライフ・アウトライン』がんばる、つもりでしたが、すべてのつもりがそうであるように、以下略。
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(アウトライナー関係ではない)ブログ記事のセレクションというのは、いずれやってみたいことではありました。でも、優先順位としては高くありませんでした。だって、まあ、売れる見込みがアレだから。
でも、自分が過去に書いたものを読み返してみたとき(ふだんそういうことはほとんどしません)、この作業は今やらないと二度とできないかもしれない、という思いにとらわれました。
記事たちのうちのあるものが、自分にとって急速にリアリティを無くしつつあることに気づいたわけです。書いたときにはきわめてリアルだったにも関わらず。
「今現在」のことを書いたものが、時間の経過とともにリアルでなくなってくるのはわかります。でも、それらの記事は、書いた時点ですでに「昔」のことを書いていたのです。
自分にとっての「昔」が、それもかなり重要な「昔」が、変質し始めている。
端的に言えば、歳をとっているのです。
もちろん、まだ「老いる」年齢だと自分では思っていません。しかし自分にとっての過去(に対する見方)の変質は、変化をはっきりと示していました。少なくとも自分でそのように感じました。
そしてそれは、自分が想像していた「歳をとること」とはずいぶん違うものであり、うまく言葉にすることができないものでもありました。
過去記事を読み返しながら、考えたのはそんなことでした。
そしてふと、ならばセレクトした過去記事を(ある場合には解体して)再構成することで、その変化自体を形にしてみよう、と思いました。
それが、『Piece shake Love』の動機うちの、ひとつです。
年齢を重ねるにつれて、愛について考えることは生活について考えることに、次いで老いについて考えることに似てくる。
— Tak. (@takwordpiece) 2016年11月16日
ふむ。
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たぶん、続きます。
(『ライフ・アウトライン』もちゃんとがんばります)
間違いなく行きつけになる予定だった店 [Diary]
ときどき外でごはんを食べるというようなとき、頭の中には存在するのに、なかなか現実には存在しない理想の店というのがある。
いや、理想とは言っても、ひと昔前にはそういう店がそこら中にとまでは言わないけれど、あちこちにあったような気がする。
たとえば、その店は毎日お昼を食べるほど安くはないけれど、もちろん高すぎたりはしない。ファミリーレストランの日替わりランチでない標準メニューのどれかにドリンクバーをつけるよりは、少し安い。
たとえば、その店は客層が幅広くて老若男女いろんな人が来ているけれど、もちろん分煙だ。
たとえば、その店は長年の常連さんがたくさんいるけれど、排他的ではなく居心地がいい。
たとえば、その店の接客はフレンドリーでかつ馴れ馴れしくない。食べ終わった瞬間にホールの人が待ち構えていたようにやってきてお皿を片づけたりはしない。でも呼べばすぐに気がついてくれる。
たとえば、その店には大きな窓があって、運が良ければ窓際に座って人や車が行き交う様子を眺めることができる。店内は明るいけれど照明は強すぎない。
たとえば、その店の料理はもちろんおいしいけれど、鮮烈なとがったおいしさではなく、ひと口目は「まあ、こんなものかな」というくらい感じで、でも最後のひと口にしみじみ「うまい」と感じるようなタイプのおいしさだ。
たとえば、その店は気合いの入ったコーヒー専門店ではないけれど、ランチにもちゃんといれたての熱いコーヒーを出してくれる。
たとえば、その店は地元に根付いていて、その土地で生活している人々がその店でお茶を飲んだり食事をしたりすることにささやかな喜びを見出している様子が感じられる。
■
先々週の日曜日、はじめて入ってみたお店(Tomo.さんが見つけてきた)は、まさにここに書いた通りの店だった。
「求めてたのはこれなんだよ!」と思わず叫びそうになるような。
決して遠くにあるわけではないけれど、どういうわけか今まで開拓してみようとは思わなかった駅前に、その店は30年以上前からあったのだ。
ふたりとも、ちょっとやそっとのことで店を気に入ったりしないので、本当に好きで通っているような店は数件しかない。でもその店は、これから間違いなく行きつけになると確信させてくれるような店だった。
そんな店を見つけたのは、本当にひさしぶりのことだ。
でも同時に見つけたのは「当店は諸事情のため、11月末をもって閉店することになりました。長年のご愛顧ありがとうございました」という張り紙だった。
うん。
その「諸事情」という言葉の中に、こういう店がなかなかない、もしくは急速に減りつつある理由が集約されているのだろう。
とても繁盛している様子だったけど、残念だ。
そんなわけで、間違いなく行きつけの店になる予定だったその店に行けるのはあと1回か2回だ。
いや、理想とは言っても、ひと昔前にはそういう店がそこら中にとまでは言わないけれど、あちこちにあったような気がする。
たとえば、その店は毎日お昼を食べるほど安くはないけれど、もちろん高すぎたりはしない。ファミリーレストランの日替わりランチでない標準メニューのどれかにドリンクバーをつけるよりは、少し安い。
たとえば、その店は客層が幅広くて老若男女いろんな人が来ているけれど、もちろん分煙だ。
たとえば、その店は長年の常連さんがたくさんいるけれど、排他的ではなく居心地がいい。
たとえば、その店の接客はフレンドリーでかつ馴れ馴れしくない。食べ終わった瞬間にホールの人が待ち構えていたようにやってきてお皿を片づけたりはしない。でも呼べばすぐに気がついてくれる。
たとえば、その店には大きな窓があって、運が良ければ窓際に座って人や車が行き交う様子を眺めることができる。店内は明るいけれど照明は強すぎない。
たとえば、その店の料理はもちろんおいしいけれど、鮮烈なとがったおいしさではなく、ひと口目は「まあ、こんなものかな」というくらい感じで、でも最後のひと口にしみじみ「うまい」と感じるようなタイプのおいしさだ。
たとえば、その店は気合いの入ったコーヒー専門店ではないけれど、ランチにもちゃんといれたての熱いコーヒーを出してくれる。
たとえば、その店は地元に根付いていて、その土地で生活している人々がその店でお茶を飲んだり食事をしたりすることにささやかな喜びを見出している様子が感じられる。
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先々週の日曜日、はじめて入ってみたお店(Tomo.さんが見つけてきた)は、まさにここに書いた通りの店だった。
「求めてたのはこれなんだよ!」と思わず叫びそうになるような。
決して遠くにあるわけではないけれど、どういうわけか今まで開拓してみようとは思わなかった駅前に、その店は30年以上前からあったのだ。
ふたりとも、ちょっとやそっとのことで店を気に入ったりしないので、本当に好きで通っているような店は数件しかない。でもその店は、これから間違いなく行きつけになると確信させてくれるような店だった。
そんな店を見つけたのは、本当にひさしぶりのことだ。
でも同時に見つけたのは「当店は諸事情のため、11月末をもって閉店することになりました。長年のご愛顧ありがとうございました」という張り紙だった。
うん。
その「諸事情」という言葉の中に、こういう店がなかなかない、もしくは急速に減りつつある理由が集約されているのだろう。
とても繁盛している様子だったけど、残念だ。
そんなわけで、間違いなく行きつけの店になる予定だったその店に行けるのはあと1回か2回だ。
ぜんぶ頭に入れるから [Thoughts]
書こうとする文章が一定以上に長くなると、全体像を頭の中で組み立てることはできなくなる。
以前、倉下忠憲さんにインタビューさせてもらったときには、2000字くらいなら頭の中で組み立てられるけれど、4000字を超えると厳しくなってきて万単位になったら難しい、とおっしゃっていた。
ぼく自身は、400字を超えると心許なく、1000文字を超えるとまず無理。これはかなり短い方だと思うけど。
長さ自体よりも、要素間の関係が急速に複雑さを増すことが問題だ。
文字数が増えれば要素が増え、要素が増えれば要素間の関係が複雑になり、その一貫性・統一性を頭の中に保持しておくことは不可能になる。
どの地点に「頭の中で考えられる」限界があるかは人によるけれど、どこかに限界があることだけは間違いない。モーツァルトみたいな人は別として。
対策としては、「とりあえず書く」しかない。とりあえず書くことを格好良く表現した言葉が「下書き」や「ドラフト」だ。
とりあえず書いてみて、はじめて何をどう書けばいいのがわかる。より正確にいうと、何をどう書けばいいのか考える素材を手に入れることができる。
カードや付箋やアウトライナーは、素材を操作しやすくするツール、とも言える。
■
文章と同じで、やるべきことがあまりに複雑になると、頭の中は処理できなくなる。要素が増えれば要素間の関係が複雑になり、その一貫性・統一性を頭の中に保持しておくことは不可能になる。
■
ずっと昔勤めていた会社の上司は「書かない」人だった。
ぜんぶ頭に入れるからいい、という。
唯一の例外は能率手帳に書きとめるアポイントで、それすらも「頭に入ってるから書かなくてもいいんだけどね」と言う。
自分のやるべきことぐらい、ぜんぶ頭に入れられるようじゃなきゃダメだ、というのが口癖だった。
仕事をする上で、頭に入れておくべきことというのは、もちろんあると思う。でもね。
最初はとても驚いたのだが、後に上司と同世代で、同じようなことを言う人に何人か会って、もっと驚いた。
一般化はできないけれど、もしかすると「ぜんぶ頭に入れる」ことに価値を見出す(もっとはっきり言えば能力の指標とする)考え方が、かつてあったのかもしれない。
もちろん、上司はぼくより頭がいい。でも、今の時代の仕事の、量と速度と要素間の関係の複雑さからすれば、当然限界はある。
限界点が多少高いか低いかの違いだ。
■
作業Aをやるためには作業Bができていることが必要で、作業BをやるためにはC社の承認が必要で、でもC社は作業Aの完成を待って判断するつもりで、あらら無限ループだ。そしてC社からは、なぜAがまだできていないんだとクレームが入っている。
相互に依存しあう物ごとが同時に動いていて、しかも時系列的な依存関係と立場上の依存関係が一致していない。状況は見た目よりもずっとずっと複雑だ。
だから、大判のポストイットに要素を書き出して、並べ替えて、どうすればいいか考える(残念ながら、その会社でアウトライナーを使うことは不可能だった)。
まず手順を。
そしてC社への説明を。
失敗したときのリカバー策を。
作業の計画ができる。
なんとか間に合うだろうぎりぎりのスケジュール。
上司に報告する。
スケジュールひとつ決めるのにいつまでかかってるんだと言いながら、上司はスケジュールに目を通す。そして「ここは3日じゃなくて2日でいこう」と言う。
それをすると、万一作業Bで問題が生じたときにリカバーできなくなって、より致命的な事態になる可能性がある、とぼくは言う。
「あ、そうかもな」と上司は言う。
■
上司は「ぜんぶ頭に入って」いたのだろうか。
わからない。
わからないけど、ひとつ言えるのは、これは90年代半ばの話であり、その量も速度も複雑さも「今」から見れば古き良き時代のそれだったということだ。
そして、どんなに頭が良くても、量と速度と要素間の関係の複雑さに対しては、当然限界はあるということだ。
■
「複雑なものを複雑なまま理解するのではなく、複雑なことをクリアに」(通りすがりの男)
「クリアとは単純という意味ではない」(通りすがりの男の弟)
以前、倉下忠憲さんにインタビューさせてもらったときには、2000字くらいなら頭の中で組み立てられるけれど、4000字を超えると厳しくなってきて万単位になったら難しい、とおっしゃっていた。
ぼく自身は、400字を超えると心許なく、1000文字を超えるとまず無理。これはかなり短い方だと思うけど。
長さ自体よりも、要素間の関係が急速に複雑さを増すことが問題だ。
文字数が増えれば要素が増え、要素が増えれば要素間の関係が複雑になり、その一貫性・統一性を頭の中に保持しておくことは不可能になる。
どの地点に「頭の中で考えられる」限界があるかは人によるけれど、どこかに限界があることだけは間違いない。モーツァルトみたいな人は別として。
対策としては、「とりあえず書く」しかない。とりあえず書くことを格好良く表現した言葉が「下書き」や「ドラフト」だ。
とりあえず書いてみて、はじめて何をどう書けばいいのがわかる。より正確にいうと、何をどう書けばいいのか考える素材を手に入れることができる。
カードや付箋やアウトライナーは、素材を操作しやすくするツール、とも言える。
■
文章と同じで、やるべきことがあまりに複雑になると、頭の中は処理できなくなる。要素が増えれば要素間の関係が複雑になり、その一貫性・統一性を頭の中に保持しておくことは不可能になる。
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ずっと昔勤めていた会社の上司は「書かない」人だった。
ぜんぶ頭に入れるからいい、という。
唯一の例外は能率手帳に書きとめるアポイントで、それすらも「頭に入ってるから書かなくてもいいんだけどね」と言う。
自分のやるべきことぐらい、ぜんぶ頭に入れられるようじゃなきゃダメだ、というのが口癖だった。
仕事をする上で、頭に入れておくべきことというのは、もちろんあると思う。でもね。
最初はとても驚いたのだが、後に上司と同世代で、同じようなことを言う人に何人か会って、もっと驚いた。
一般化はできないけれど、もしかすると「ぜんぶ頭に入れる」ことに価値を見出す(もっとはっきり言えば能力の指標とする)考え方が、かつてあったのかもしれない。
もちろん、上司はぼくより頭がいい。でも、今の時代の仕事の、量と速度と要素間の関係の複雑さからすれば、当然限界はある。
限界点が多少高いか低いかの違いだ。
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作業Aをやるためには作業Bができていることが必要で、作業BをやるためにはC社の承認が必要で、でもC社は作業Aの完成を待って判断するつもりで、あらら無限ループだ。そしてC社からは、なぜAがまだできていないんだとクレームが入っている。
相互に依存しあう物ごとが同時に動いていて、しかも時系列的な依存関係と立場上の依存関係が一致していない。状況は見た目よりもずっとずっと複雑だ。
だから、大判のポストイットに要素を書き出して、並べ替えて、どうすればいいか考える(残念ながら、その会社でアウトライナーを使うことは不可能だった)。
まず手順を。
そしてC社への説明を。
失敗したときのリカバー策を。
作業の計画ができる。
なんとか間に合うだろうぎりぎりのスケジュール。
上司に報告する。
スケジュールひとつ決めるのにいつまでかかってるんだと言いながら、上司はスケジュールに目を通す。そして「ここは3日じゃなくて2日でいこう」と言う。
それをすると、万一作業Bで問題が生じたときにリカバーできなくなって、より致命的な事態になる可能性がある、とぼくは言う。
「あ、そうかもな」と上司は言う。
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上司は「ぜんぶ頭に入って」いたのだろうか。
わからない。
わからないけど、ひとつ言えるのは、これは90年代半ばの話であり、その量も速度も複雑さも「今」から見れば古き良き時代のそれだったということだ。
そして、どんなに頭が良くても、量と速度と要素間の関係の複雑さに対しては、当然限界はあるということだ。
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「複雑なものを複雑なまま理解するのではなく、複雑なことをクリアに」(通りすがりの男)
「クリアとは単純という意味ではない」(通りすがりの男の弟)
アウトライナーについての2つの質問 [アウトライナー]
『アウトライナー実践入門』で、ぱうぜさん(@kfpause)こと横田明美先生にインタビューさせてもらった縁で、千葉大学アカデミック・リンク・センター主催の「あかりんアワー」という学内イベントに登壇してきました。
イベントといっても、毎週火・金曜日のお昼に、同大図書館に併設されたプレゼンテーションスペースで開催される、こぢんまりした定期イベントです。
タイトルは「論文をシェイクする〜アウトライナーのすすめ」。30分のうち、ぼくがお話ししたのは約15分で、後はぱうぜさんによる説明、そして質疑応答でした。
メインのオーディエンスが学生、しかも4年生が卒論を本格的に書き始めるシーズンということで、「シェイク」の話を中心に、レポートや卒論に少し寄せた感じで話をしました。
アウトラインを先に作ってから文章を書くのではなく、トップダウン(アウトライン)とボトムアップ(詳細)を行き来しながらアウトラインを育てていく、という話。
時間が短いこともあって、本の中で紹介したような「実例」は見せられなかったのですが、そこはばうぜさんの「学生の卒論のアウトライン」や、ご自身が勉強に使った情報カード(超貴重)など、貴重な現物の紹介でカバーしてもらいました。
終了後に何人かの先生や、熱心な学生さんとお話させてもらい、これはとても嬉しかったです。
で、アウトライナーに関するとても良い質問をいくつかいただいたので、2つ紹介しつつ、現場では話しきれなかったことも含めて回答してみます。
■
Q1)
課題などで、比較的短い、字数制限(1200字とか2000字とか)のある文章を書く機会があります。こうした場合のアウトライナーの使い方って、あるでしょうか?(※質問のニュアンスがちょっと違ったらごめんなさい)
A1)
これ、実はぼく自身得意ではありません。なので、得意でない人間がアウトライナーでそれをカバーする方法として見てくださいね。
文字数が定められているときって、どうやってその文字数を稼ぐかという問題と、どうやってその文字数に収めるかという問題の2つがあると思います。で、この質問で問題になってるのは後者でしょう。
もし、与えられたテーマについてどうしても1200文字書けないとしたら、アウトライナーの使い方とは別の問題があるはずです。
なので、ここではどうやって字数に収めるかということを考えます。
文字数制限に慣れていない場合は、字数のことはあまり考えずにとにかく書いてしまうのがいちばん楽です。
最初から1200字に収めようとせず、2000字とか2500字になってもかまわないので、とにかく書いてしまう。導入部と結論部も一応つけておきます。
だいたい形になったら、読み返しながら見出しをつけて、アウトライン化します(細かめに見出しを付けるのがコツです)。
見出しをつけたらアウトラインを折りたたみ、見出しだけ眺めながら、優先度が低いと思われる項目を削っていきます(すぐに削除せず、末尾に「未使用」という見出しを立てて、その下に落としていくと後で後悔しません)。
優先度が低いとは、決して重要度が低いという意味ではなく、与えられた内容とスペースにそぐわないもの、という意味です。あと、同じくらいの大きさのネタが2つ入っていたりした場合、片方を削るということもあるでしょう。
制限に収まるまで削ったら、全体の流れに齟齬が生じていないかどうか確認しつつ、細部を整えて仕上げます。
手書きと違って、1200字と2000字に、それほど労力の差はありません。個人的には、書きながら同時に字数を収めようとするよりも、この方がずっと楽です(ただし限度はあります。10000字になるまで書き続けてはいけません)。
もちろん、書き慣れてくれば、1200字だとだいたいこんな感じかな、と当たりをつけることができるようになります。また、そういう訓練をすることは役に立つと思います。
ちなみに、Wordのアウトラインモードだと、アウトラインを折りたたんだ状態で項目を選択すると、下位に含まれる文字数がステータスバーに表示されるので便利です(何も選択しないと、アウトライン全体の文字数が表示されます)。
Q2)
自分はアウトラインを作ることも、アウトラインに沿って書いていくことも比較的得意なのですが、ときどきアウトラインに縛られて、アウトラインに書かれたことしか書けない感じがすることがあります。そういうときはどうすればいいですか?(※またまた、質問のニュアンスが違ってたらごめんなさい)
A2)
アウトラインの縛りから抜け出すためにいちばんいいのは、いったんアウトラインの外に出ることです。
作ったアウトラインは脇に置いておいて、真っ白い画面に書いてみる。
アウトラインが作れるくらいだから、テーマや関連する知識は頭に入っているはずです。
だから、アウトラインを見ないで頭の中身だけで自由に書いてみる。構成は考えず、抑制せず、気持ちよく、テーマについて自由に書けることを書く。これをフリーライティングといいます。
アウトラインはアウトラインでちゃんと残してあるので、いくら自由に書いてみても大丈夫です。
しばらくフリーライティングしてみた後で、書き出した内容に見出しを立て、既存のアウトラインの中で該当すると思う部分に振り分けてみます(必ずコピーを取ってください)。
そのとき、もし既存のアウトラインに収まらない断片があったら、それがアウトラインの縛りから抜け出すヒントになります。
どれだけ精密にアウトラインを作っていても、アウトラインを見ずに自由に書いてみると、何かしらアウトラインに収まらない内容が出てくるものです。
使える内容だと思ったら、その内容に絞って更にフリーライティングしてもいいし、その内容を組み込めるようアウトラインを修正してもいいでしょう。
自分でも、これがブレイクスルーになった経験が何回もあります。
■
いかがでしょうか。回答になってるといいのですが。といいつつ、以上はもちろん「アウトライナーの使い方の一例」であり、唯一の回答ではありません。
■
「あかりんアワー」当日は冷たい雨、その上電車が遅延し(向かう方向の電車が次々に止まっていくという悪夢)、どうなることかと思いましたが、なんとかギリギリで間に合いました。
1時間前に着くように出ていた俺、えらい。
案内してもらった千葉大の図書館はとても素敵な場所で、思わず「ここで仕事がしたい」と思ったり。
うん、楽しかった。
イベントといっても、毎週火・金曜日のお昼に、同大図書館に併設されたプレゼンテーションスペースで開催される、こぢんまりした定期イベントです。
タイトルは「論文をシェイクする〜アウトライナーのすすめ」。30分のうち、ぼくがお話ししたのは約15分で、後はぱうぜさんによる説明、そして質疑応答でした。
メインのオーディエンスが学生、しかも4年生が卒論を本格的に書き始めるシーズンということで、「シェイク」の話を中心に、レポートや卒論に少し寄せた感じで話をしました。
アウトラインを先に作ってから文章を書くのではなく、トップダウン(アウトライン)とボトムアップ(詳細)を行き来しながらアウトラインを育てていく、という話。
時間が短いこともあって、本の中で紹介したような「実例」は見せられなかったのですが、そこはばうぜさんの「学生の卒論のアウトライン」や、ご自身が勉強に使った情報カード(超貴重)など、貴重な現物の紹介でカバーしてもらいました。
終了後に何人かの先生や、熱心な学生さんとお話させてもらい、これはとても嬉しかったです。
で、アウトライナーに関するとても良い質問をいくつかいただいたので、2つ紹介しつつ、現場では話しきれなかったことも含めて回答してみます。
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Q1)
課題などで、比較的短い、字数制限(1200字とか2000字とか)のある文章を書く機会があります。こうした場合のアウトライナーの使い方って、あるでしょうか?(※質問のニュアンスがちょっと違ったらごめんなさい)
A1)
これ、実はぼく自身得意ではありません。なので、得意でない人間がアウトライナーでそれをカバーする方法として見てくださいね。
文字数が定められているときって、どうやってその文字数を稼ぐかという問題と、どうやってその文字数に収めるかという問題の2つがあると思います。で、この質問で問題になってるのは後者でしょう。
もし、与えられたテーマについてどうしても1200文字書けないとしたら、アウトライナーの使い方とは別の問題があるはずです。
なので、ここではどうやって字数に収めるかということを考えます。
文字数制限に慣れていない場合は、字数のことはあまり考えずにとにかく書いてしまうのがいちばん楽です。
最初から1200字に収めようとせず、2000字とか2500字になってもかまわないので、とにかく書いてしまう。導入部と結論部も一応つけておきます。
だいたい形になったら、読み返しながら見出しをつけて、アウトライン化します(細かめに見出しを付けるのがコツです)。
見出しをつけたらアウトラインを折りたたみ、見出しだけ眺めながら、優先度が低いと思われる項目を削っていきます(すぐに削除せず、末尾に「未使用」という見出しを立てて、その下に落としていくと後で後悔しません)。
優先度が低いとは、決して重要度が低いという意味ではなく、与えられた内容とスペースにそぐわないもの、という意味です。あと、同じくらいの大きさのネタが2つ入っていたりした場合、片方を削るということもあるでしょう。
制限に収まるまで削ったら、全体の流れに齟齬が生じていないかどうか確認しつつ、細部を整えて仕上げます。
手書きと違って、1200字と2000字に、それほど労力の差はありません。個人的には、書きながら同時に字数を収めようとするよりも、この方がずっと楽です(ただし限度はあります。10000字になるまで書き続けてはいけません)。
もちろん、書き慣れてくれば、1200字だとだいたいこんな感じかな、と当たりをつけることができるようになります。また、そういう訓練をすることは役に立つと思います。
ちなみに、Wordのアウトラインモードだと、アウトラインを折りたたんだ状態で項目を選択すると、下位に含まれる文字数がステータスバーに表示されるので便利です(何も選択しないと、アウトライン全体の文字数が表示されます)。
Q2)
自分はアウトラインを作ることも、アウトラインに沿って書いていくことも比較的得意なのですが、ときどきアウトラインに縛られて、アウトラインに書かれたことしか書けない感じがすることがあります。そういうときはどうすればいいですか?(※またまた、質問のニュアンスが違ってたらごめんなさい)
A2)
アウトラインの縛りから抜け出すためにいちばんいいのは、いったんアウトラインの外に出ることです。
作ったアウトラインは脇に置いておいて、真っ白い画面に書いてみる。
アウトラインが作れるくらいだから、テーマや関連する知識は頭に入っているはずです。
だから、アウトラインを見ないで頭の中身だけで自由に書いてみる。構成は考えず、抑制せず、気持ちよく、テーマについて自由に書けることを書く。これをフリーライティングといいます。
アウトラインはアウトラインでちゃんと残してあるので、いくら自由に書いてみても大丈夫です。
しばらくフリーライティングしてみた後で、書き出した内容に見出しを立て、既存のアウトラインの中で該当すると思う部分に振り分けてみます(必ずコピーを取ってください)。
そのとき、もし既存のアウトラインに収まらない断片があったら、それがアウトラインの縛りから抜け出すヒントになります。
どれだけ精密にアウトラインを作っていても、アウトラインを見ずに自由に書いてみると、何かしらアウトラインに収まらない内容が出てくるものです。
使える内容だと思ったら、その内容に絞って更にフリーライティングしてもいいし、その内容を組み込めるようアウトラインを修正してもいいでしょう。
自分でも、これがブレイクスルーになった経験が何回もあります。
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いかがでしょうか。回答になってるといいのですが。といいつつ、以上はもちろん「アウトライナーの使い方の一例」であり、唯一の回答ではありません。
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「あかりんアワー」当日は冷たい雨、その上電車が遅延し(向かう方向の電車が次々に止まっていくという悪夢)、どうなることかと思いましたが、なんとかギリギリで間に合いました。
1時間前に着くように出ていた俺、えらい。
案内してもらった千葉大の図書館はとても素敵な場所で、思わず「ここで仕事がしたい」と思ったり。
うん、楽しかった。