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名前のない遊び [Thoughts]

前も書いたような気がするけど、雑談していて、聞かれて困る質問のひとつが「休みの日とか、何してるの?」とか「ふだん何して遊ぶの?」というものです。

特に、あんまり付き合いのない人(たとえば仕事で付き合いのある人)との当たり障りのない雑談の中で、こういう話題になることが多い。

なぜ困るかというと、うまく説明することができないからです。別の嫌じゃないんだけど。

だいたいこういうときの答えとしては、名のある遊びや趣味(買い物とかゴルフとか釣りとか食べ歩きとか撮りためたドラマをみるとかDS三昧とか)が期待されています。

でも、自分が楽しいと思う「遊び」には、だいたい名前がついてない。

だから「いやー、特に何もしないですねー」みたいな回答をしがちなんだけど、そうすると多くの場合、「何か楽しみとかないの?」と聞かれるか、ただ無言で「つまんねえ奴だな」という目で見られる(笑)。

それに、偏見かもしれないけど、そういう人に限って「多くの(名のある)遊びを知ってることが、魅力的な人間の証」みたいに考えてる傾向があるような気がする(実際そう力説し、もっといろんなことに積極的にチャレンジするように勧めてくれた方が、この間いました)。

でも、お金を払って、他人が作った商品やサービスを消費したり、何かするために出かけたりするんじゃなくて、そこらへんにある何でもないものの中に、楽しみを見いだせる人の方が、魅力的だと思う。個人的には。


この分野の心の師匠、韓国のアーティストSnowcat(クォン・ユンジュ)さんの数少ない日本語訳本「スノーキャットのひとりあそび」。名前のない遊びが好きな全ての人におすすめです。

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透明な機器 [Diary]

もちろんまだiPadは買ってないし、当面買う予定はないんだけど、その予定が危うくなるような、ぐさっと刺さってしまったiPadについての文章。

If you want to understand what makes the iPad special, you cannot look at what it has, but what it doesn’t have. The iPad is so thin and light, it becomes the display, and the display becomes the application. No input devices. The device vanishes and turns into the application you are using. The technology is transparent.
Things Blogより(強調原文)


「iPadの何がそんなに特別なのかを理解したかったら、そこに有るものではなく、無いものに目を向けるべきだ。iPadはとても薄くて軽く、それはディスプレイそのものとなり、ディスプレイはアプリそのものとなる。インプットのための機器は存在しない。機器の存在自体が消滅し、今あなたが使っているアプリそのものが残る。テクノロジーは透明なのだ。」

これ以上の的確(そして欲望を喚起する)な表現は見たことがない。やばいな−。

ユーザーにとって、ソフトウェアは「透明」であることが理想。出来のよいソフトは、使っているとソフトの存在が背景に消えていって、純粋に書いたり考えたりしている内容だけが意識に残るようなところがある(たとえばマックのOPALはそう)。

それでも、物理的実体(=ハードウェア)としてのコンピューターの存在は感じられるけど、iPadはそれさえも透明に感じられる、ということなんだと思う。

やろうとすることを邪魔するように前面に出てきて自己主張するソフトが幅をきかせていて、「パソコン」というのはそもそもそういうものなんだと大多数の人に思われてしまっている、とても不幸な時代の中で、「普通の人」にこれだけ注目されるiPadが、どのくらい物事を変えるか。

企業としてのアップルの姿勢に対する疑念はともかくね。
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目を開くこと、目を閉じること [Diary]

Tomo.さんがたまたまつけた「世界に響け 僕の音色~ピアニスト・辻井伸行21歳の挑戦~」(NHK総合)を最後まで見てしまう。

全盲のピアニストの辻井伸行さんが、アメリカツアーにのぞんで、「絵」をテーマにしたムソルグスキーの「展覧会の絵」を苦しみながら自分のものにする。

なにしろ辻井さんは「絵」というものを見たことがないんだから。

専門的なことはわからないけど、見たことのない「絵」とその世界を自分の中に描き、表現することがどれほど難しいことかは、想像がつく。

見えないものを見ようとする辻井さんを見ながら、目の見える音楽家がしばしば演奏中に目を閉じることを考えて、不思議な気持ちになる。

辻井さんはヴァン・クライバーンコンクールのときよりもずいぶん大人っぽくなったように見える。
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ラッシャー木村さん [Diary]

中学生の頃、ラッシャー木村さんに握手してもらったことがある。確か横浜文化体育館のそばだった。

アニマル浜口、寺西勇との「国際軍団」として新日本プロレスのリングに上がっていたころ。

ヒール(悪役)だったけど、どうみても優しそうにしか見えないところがよかった(まだマイクパフォーマンスが有名になる前で、まじめにヒールをやってたんだけど)。

「木村さん、がんばってください」と声をかけると、「おぅ」みたいな感じで、ぶっきらぼうに、でもけっこうしっかりと握手してくれた。

ご冥福をお祈りします。
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平成3年の東京地下鉄 [Diary]

父親から借りた英和辞典に、昔の東京の地下鉄路線図がはさまっていました。よく見ると、副都心線はもちろん、大江戸線も南北線もない。そして裏側には「平成3年1月1日より、東京の局番の最初に3が追加になり、4ケタになります」の一文が。

ますます便利(クリックすると拡大します)。
metro.jpg

WARP!
metroura.jpg
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アウトライナーについての研究書 [アウトライナー]

Renji Talk「アウトライナー情報源」の「書籍(1980年代〜90年代)」のページに、Jonathan Priceという人の「Outlining Goes Electronic」という本を追加したんですけど、この本、タイトル通り、アウトライナーについての専門的な研究書です。

まさかそんな本があるとは思わなかったんで、数年前に見つけたときは驚喜しました。

内容は、チーム内のコラボレーションでのアウトライナーの利用に比重を置きつつ、コンピューター以前の時代に遡り、文章作成におけるアウトラインというものの位置づけから、コンピューター上のアウトライナーで可能になること、そしてそれが広い意味でのドキュメント作成と、コラボレーションの中で持つ意味について、非常に詳細かつ専門的に述べられています。

アウトライナー関連の書籍としては、ちょっと次元の違う内容だし、アウトラインを利用した文章作成に関して、数十年前まで遡る膨大な参考文献が示されているのは、なんといっても貴重です。

個人的にこの本をちょっとずつ訳したりもしてます(もちろん発表のあてなんかありませんとも)。内容が内容だけに、簡単には歯が立たないですが。でも、そのうちRenji Talkで内容の紹介もしてみようと思ってます。

ところで、Renji Talkのアウトライナー関連コンテンツには、けっこう大学からのアクセスが多いんですが、ノウハウレベルじゃなくて、アウトライナーそのものを研究対象にするのであれば、入り口として外せない文献だと思います(そんな人いるのかしら)。

有限感 [Diary]

30代のときは無限の未来があるように思えたけど、40代になったとたんに、突然人生が有限なものに思えてくる、と上司が言いました。この上司はへらへらと重たいことを言う人ですが。

先週同僚(♀)が30才になったんで、この上司夫妻とお祝いをしたんだけど、そこで

「30才になって何か変わった?」
「なんにもかわらないです」

というような会話の流れで、冒頭の言葉が出てきたわけです。

個人的にも、ここのところ「時間を無駄にできない」という気持ちがすごく強くて、いろんなところでそう言いまくってるし、このブログにも何度もそう書いています。

それは、人生は無限ではないと思い知らされる、いくつか直接的な出来事が公私に続いているということもあるけれど、上司の言う通り、その気持ちが40才になったあたりから特に強くなってきているのも確かで、だから年齢的な要素もあるんだろうと思う。

で、ぼくはこの「有限感」が実はとても気に入っています。

ほんの数年前まで、仕事が忙しくてそれ以外のことをやる時間なんてとても取れない、なんて思っていたことが嘘のように、最近いろんなことができるようになっていて、もちろん実際にはやりたいことの3割もできていないけど、それでもゼロではない。ゼロと3割弱は、とてもとても大きな違いです。特に長い時間の間には。

それはたぶん、「有限感」のおかげです。

20代と言わず、30代半ばからでもこんなふうにできていたら、という後悔はあるけれど、とにかく40代になってからの方が確実に楽しいし、ある意味ではきついけど、とても気分よくもあります。より普遍的な言い方をすれば、充実している。

ここで、あの古典的な質問を思い出します。

「もし明日死ぬとしたら、今日何をしますか?」

これはたぶん、意識的に「有限感」を作り出すための質問だったんだな。

この質問に本気で答えることは、実はかなりしんどいことだけど(ほとんどの人にとって、それは毎日の生活を否定することになるから)、もしその答えに基づいて毎日生きることができたら、それこそTo-Doリストなんか必要なくなるだろう。そしてたぶん、20代より30代、30代より40代の方が確実に楽しくなる。

何よりも、文字通り駆け抜けるように生きて、20代で亡くなってしまった友人たちのことを思うと、生きている間はそんな風に生きる義務がある、と思う。

ぼくは怠惰な人間だから、完璧にその義務を果たすことはできそうにないけど、半分でも、3割でも、そこに近づきたいと思うのは嘘じゃない。そして、ほんの少しだけでも、そこに近づけているとしたら、「有限感」はぜんぜん悪いものじゃないのです。
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今週のテーマ曲 [Diary]

"One of Us" by Joan Osborne


もし神様に顔があったら
それはどんな顔だろう
あなたは目にしたいだろうか
目にすることが信じることだとしたら
天国とかキリストとか聖人たちとか数々の預言なんかを

そう、神様は偉大だね
神様は立派だね

でももし神様が私たちみたいだったら
私たちみたいな間抜けだったら
帰りのバスがわからず
途方にくれた旅人だったら

彼は帰る道を探している
ひとりぼっちで天国に帰る
誰からも電話はかかってこない
ローマあたりから以外は
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それは人生の問題。 [Thoughts]

先週の金曜日の午後のこと。その日はここ何ヶ月か続けてきた仕事の最後の報告会の日でした。最終報告の内容をクライアントの担当者と、その上司にプレゼンします。

といっても、別に大プロジェクトとかではなくて、どっちかといえばちっちゃな仕事で、担当も自分ひとり。何ヶ月も続いたというのも、だらだらと続いてきたという感じ。まあ、それはどうでもいいんだけど。

その日は準備のために朝四時半に起きて、六時半には職場に着いて、プレゼン資料を作って、ひとりリハーサルして、ハンドアウトをプリントアウトして、ノートPCの動作チェックをして、他の人が出社し始める頃には作業はほとんど完了。プレゼンあんまり得意じゃないけど、とりあえずその日はとてもうまくいって、小さいけど長い仕事は無事完了しました。

なんていうと、なんだか仕事ができる人みたいに聞こえるな。でも、別の角度からみると、話は少し違って見えます。

このプレゼンの準備、実は月曜からずっとやろうとしていながら、まったく手をつけられないまま、金曜日の当日に至ったものでした。つまり、ぎりぎりのところに追い込まれてたわけです。

何度もそういう経験はあるけど、当日の朝になって何の準備もできてないというのは、いつもスリリングです。それが気持ちよくなってきてしまえば明白なアドレナリン中毒だけど、幸か不幸かぼくにはちっとも気持ちよくない。すごーく気持ち悪い。

仕事に手をつけられなかった理由は、ご多分にもれず、外出と打ち合わせと電話対応と急ぎのメールと突発的な仕事と、その他もろもろの、いちいち覚えてもいないような雑務で時間が細切れにされてしまって、ひとつの作業を集中して行うことができないからです。

多くの人は残業によってこの状況をカバーしています。それがうちの職場をかなり残業時間の長い職場にしている理由のひとつだと思う。

で、ぼくはなるべくなら深夜残業はしたくないので(するけど)、どうしてもまとまった作業時間が必要になると、どんどん出社時間が早くなっていきます。早朝の二時間は、昼間はもちろん、深夜と比べても圧倒的に密度が高いから。

今回も、朝の時間密度に助けられたんだけど、これは早起きの効用を説いているわけではなく、まして「朝活」のすすめなんかではありません。

問題なのは、集中さえすれば二時間で終わる仕事を、月曜日からずーっとTo-Doリスト(残念ながらまだ捨ててないんだ)のトップに入れておきながら、一週間かかって手もつけられない、という状況が普通になっていることです。そして本来仕事をするはずの営業時間内に、なぜかいちばん肝心な仕事ができないという状況を、多くの人が受け入れてしまっているように思えることです。

これは現代では多かれ少なかれ誰もが抱えている問題だと思うし、繰り返し指摘されてもいます。その対策として電話を取り次がない「集中タイム」みたいなものを設けている会社だってある。でも全体としてみれば一向に改善されていないし、状況はむしろ悪くなっています。

なんで、誰も本気でなんとかしようとしない(ように見える)のか、そのことがずっと不思議だったんだけど、ある人から「Tak.くんは朝の時間を効率的に使ってるね」と言われてその理由に思い当たりました。

有効性とか効率性とか生産性というのは、そもそも企業側から見た発想です。あるいは、人を使う側の発想です。その人はぼくのことを誉めてくれたのかもしれないけど、そこから抜け落ちている視点は、そこで「効率的」使われたのは、ぼくの人生の一部だということです。

個人としての時間の使い方を考えるとき、それは効率性や生産性の問題ではなくて、人生の問題です。人生とは時間のことだから。企業はもちろん、個人の側からもその視点が抜け落ちて、「効率性」とか「生産性」の観点から語ってしまうことが、問題をどんどん悪くしてるんじゃないかと。

だからこそ「To-Doリストを捨てろ」というレオ・バボータさんの主張はとても重要です。
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本日の引用 [Diary]

「ルイジアナ州のフランス語を話す黒人たちの民族音楽であったザディコが、アメリカで人気が出てきたのは一九八〇年代に入ったころであった。アコーディオンを弾く変なブルースシンガーのクリフトン・シュニエが実はブルースとは別のザディコという音楽の演奏家だと認識され、ザディコブームとなっていった。僕はニューオリンズで調査しているとき友人と連れだってわりと頻繁にクラブにこの音楽を聞き、踊りにいった。

シュニエがスミソニアン研究所によって、民俗芸能保存者として表彰を受けたのは一九八四年のことだった。ワシントンDCのフォード劇場で他の芸能者たちとともにガラ・コンサートを行った。2ステップのザディコからしっとりとワルツまで演奏したが、あまり受けなかった。ところか、R&Bやブルースをザディコ風に演奏すると、観客はわきにわいた。経済的にブルースを演奏しないとやっていけないシュニエは結局ザディコを認められても、その音を聞いてくれる観客が増えたわけではなかった。情けない話である。」

奥出直人「物書きがコンピューターに出会うとき」p.163


奥出直人は、ぼくをアウトライナー中毒にした本を書いた人だけど、ぼくがザディコという音楽の存在を知ったのも、同じ本だった。不思議。
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