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三千円で変に崩れた気持ちと欲望のバランス [Diary]

ある人の告白。

仕事を通じて知り合って以来、プライベートで友達づきあいをしながら長い間こっそり片思いをしていた女性は、そんなに有名ではないけどいわゆるグラビアの仕事をしていて、写真集ではヌードにもなっている。

だから、普通なら恋が成就しないと目にできないはずの彼女の裸を、三千円くらい出して買ってきた写真集で好きなだけ眺めることができる。

得したような気もするけど、現実の彼女には告白さえできてないことを考えると、なんか不思議で切ない。

という話を聞いて、最初はふーんと思っただけだったけど、考えれば考えるほど確かに切ない話のような気がしてきた。

切ない切ないと思いながら三千円出して写真集を買わずにはいられないところが(買っちゃうよね)。

そして、本来簡単には超えられない壁を三千円で「一部分だけ」超えてしまった、その変に崩れた気持ちと欲望のバランスが。
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国家にも学校にも企業にも当てはまる単純な事実 [Thoughts]

ある「国」が好きとか嫌いとかいうことにどれだけ意味があるんだろうという話をしてたんだけど、たぶん意味はあんまりない。

でも、人と話していてその手の話題になることは多い。

で、個人的に悪い印象を持ってなかった人が、便宜的な入れ物としての国家やその政治体制と、その中に暮らす個人を同一視した物の言い方をするのを聞いてうんざりしちゃうことって、けっこうある。

そんな話題はなるべく避けようと思うんだけど、残念ながらそういう話ほど熱心にする人が多いし、一方の意志とは関係なく勝手に展開していきがちなのね。

ニュースでみたある国のあり方についてあまり気分が良くないということはもちろんあるけど、それを「好き嫌い」に直結させることの意味は、外国に行って日本についてのニュースを見てみればわかる。

ものすごくわかりやすい例でいえば、それはつまり「クジラをとるから日本はキライだ」と言われることだから。

国家としての、あるいは政治体制としての中国を個人的に好きにはなれないけど、直接知ってる中国人(数人しかいないけど)に嫌なやつは一人もいない。

アメリカは好きだけど、「アメリカが好き」というとき頭にあるのは、アメリカで出会った人々だったり経験したことだったりサンフランシスコの風景だったりカリフォルニアの空気だったり理想と原則だったりで、じゃあ国家としてのアメリカが好きかと言われれば、そんなもの好きになりようがない。

というか、そういう意味では、ほとんど全ての国家がキライだし、ついでにほとんど全ての学校がキライだし、ほとんど全ての企業がキライだ。

だけど、どの国にもどの学校にもどの企業にも、個人的に知り合えば好きになれる人が必ず存在しているに決まっている。

それは別に優等生的な発言をしているわけではなく単純な事実でしょう。
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レオ・バボータ「悩まず決断する方法」 [レオ・バボータ関連]

原文:Leo Babauta "Effortless Decision-Making" from Zen Habits
この記事は、レオ・バボータさんがブログ「Zen Habits」でUncopyrighted(コピーライトなし)として公開されている記事の日本語訳です。原文同様、この日本語訳もUncopyrighted(コピーライトなし)とします。

道が二股に分かれていて、どちらに行こうか決めかねて進めないでいるとき、どうやって決断するだろう?

二つまたはそれ以上の可能性が等しく魅力的に思えるとき、どのように判断したらいいだろう?

「悩まずに決断する」ための原則を私は学んできた(マスターしたわけではない)。決めかねて前に進めなくなることもなく、恐怖のあまり動けなくなることもなく、日々絶え間なくやってくる決断の場面を、流れに身を任せて切り抜けていくための方法だ。選択し、流れに乗り、気に病まない。

ここに示すのは、悩むことなく決断するための非常に簡単なガイドだ。

完璧主義を捨てよう。完璧な決断というものは存在しないし、完璧な決断を求めれば、私たちは身動きとれなくなってしまう。もっと情報を手に入れよう。情報に縛られるべきではないが、身動きがとれないときはたいてい情報が足りていないのだ。必要なのはどんな情報だろう? 簡単に入手できるものだろうか? 可能なら、今すぐ手に入れよう。情報が足りないから動けないということにはならないようにしよう。

トライ&エラーしよう。情報が不足なら——たいていは不足している——単に選ぶのだ。何を選ぶかは実は大した問題ではない。ただ選ぶことにして、正しい選択をするという発想を捨てよう。しばらくの間その選択とともに生き、何が起こるか見極めよう。これをトライ&エラーというが、多くの場合情報を得るための最適な方法だ。試して、うまくいくかどうかをみる——そうすれば、将来よりよい選択をするための情報が得られる。そういうものだと見なせば、決断は単なるトライ&エラーの連続に過ぎず、結果にこだわる必要はなくなる。どんな結果も良い情報となるからだ。

直感を試そう。先に進むための充分な情報がなければ、気にせず単に選択するのだ。どうやって? コインを投げてもいいが、ただ魂が感じるままに従うこともできる。あなたの直感はなんと言っているだろう? 耳を傾けよう——多くの場合、それは意識的に操作できない様々なファクターに根ざした無意識の選択だ。私たちの無意識の一部が処理を行い、一瞬のうちに答えが出る。直感は間違っているかもしれないが、それでいいのだ。結果がどうであろうと、私たちはその結果から学ぶことになる。ただ直感に耳を澄まし、従うことを学ぼう。

心配するのはやめよう。上の原則を身につければ、心配することなど何もないことがわかるはずだ。完璧である必要はない。その決断が世界の終わりにつながることは極めてまれだ(少なくとも、かつて世界の終わりをもたらした決断はない)。もちろん、歴史を眺めてみれば間違った選択をした者たちの屍が積み重なっているが、それ以外の何百万決断は、特に悪い結果をもたらしてはいない。死んだりはしない。ただ学ぶだけだ。だから心配せず決断すればいい。

訓練し、流れに乗ろう。訓練し、完璧主義を捨て、心配するのをやめ、決断を実験として見なせるようになるにつれて、うまくできるようになる。より上手く、より早く、より直感的にできるようになる。じきに流れに乗って、日々の選択を容易にこなせるようになる。最初のうちは上の原則を頭に置きながら、意識的にやってみよう。だんだんと楽にできるようになってくるはずだ。

決断は、私たちが一日中していることであり、難しいものである必要はない。私たちはその決断を極めて重大なものだ考えて、頭の中で構築してしまいがちだが、実際にそんな重大事であることはまれだ。これはキューバ危機ではない——国家の存亡をかけた決断をしているわけではないのだ。決断を新たな物ごとを学ぶ機会ととらえれば、あなたの前に現れる全ての選択の機会を楽しめるようになる。


レオ・バボータの電子書籍「Focus」の翻訳をRenji Talkで公開しています。
「フォーカス——雑音化時代を生きるためのシンプル化宣言」
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ニコチンによって完成する能力? [Diary]

電車の中で「なぜ禁煙することができないか」について延々と話し合ってた二人は、「頭を使う作業や集中力が必要な作業には煙草が必要だし、自分たちの能力はニコチンによって完成するから」といってお互いを肯定し合っていたけど。

でもあなたといっしょに仕事をする非喫煙者は喫煙所の中で打ち合わせをする羽目になるし、あなたが思考力と集中力を高めるために非喫煙者の思考力と集中力は劇的に低下して、しかも服についた煙草の匂いでそのあとの1日気分が台無しになるけどね。



自分は他人に対して比較的寛容なタイプの人間だと思ってるけど、どうしても寛容にも穏やかにもなれないものごとが、喫煙。

単に嫌いというだけでなく、実際に気分が悪くなってしまうことが多いから。知り合いがきちんと断ってくれればもちろん「どうぞ」と言うけど、それでも辛いものは辛い。

本当は、個人的には道路を含む全ての公共スペースは禁煙にするべきだと考えている。

もちろん煙草を吸う権利はあるけど、それは他人に迷惑をかける恐れが一切ない場所、つまり完全にプライベートな空間(個人の住宅)か、密閉された喫煙所の中に限られるべきだと思っている。



煙草を吸わない自分にとっては、禁煙がどれくらい辛いことかは想像するしかないけど、大学時代のバイト先の先輩は「性欲に置きかえてみればわかる」と言った。

「煙草をやめろということは、身体に悪いから一生禁欲しろと言われるのと同じだ。そう言われてお前はやめられるか?」

「禁欲しなくても他人に迷惑かけないけど、喫煙はそうじゃない。そんなアホな例えは聞いたことがない」と言い返したら危うく店の中で殴り合いのケンカになりそうになったのは美しい思い出。

ちなみにそれ以来喫煙を性欲に例えた人は見たことはないけど。



とは言っても、一時期の自分のコーヒーの飲み方から考えれば、自分自身がヘビースモーカーになった可能性だって充分にあった(実際父親はかつて超ヘビースモーカーだった)。

そうならなかったのは、70年代のアメリカで行われていた強烈な禁煙教育のために、放射性物質と同じくらい煙草(そしてその煙)を忌避するようにすり込まれてしまったから。

「喫煙により肺ガンになった○○さん」という人が小学校を巡回してきて、自分の肺のレントゲン写真を見せながら「私のようになりたくなかったら決して煙草は吸ってはいけない」と涙ながらに話す。数ヶ月後、先生から「あのときの○○さんは先週亡くなりました」と聞かされる。

その体験があまりにも強烈で、今思うと「あれは本当に本当だったのか」という疑問が全くないわけではないけど、とにかくあそこまでやられて、煙草を吸えるはずがない。



だから日本の中学校で、たまたま歩いていた体育館裏に新しい吸い殻が落ちていたというだけの理由で喫煙の疑いをかけられたとき、非常に反抗的な態度を取ったのはそういうわけです、Y先生。吸うはずないってのに。

あそこまでやることの是非は議論があるかもしれないけど、アメリカの禁煙教育は間違いなく自分がこれまでに受けた「学校教育」の中でもっとも効果的かつ意味があるものだった。

日本の学校は、トイレや体育館裏での喫煙を摘発はするけれど、子どもを根本的なところで煙草に近づけないための効果的な対策を本気でやってるかというと、やってないような気がする(少なくとも70年代〜80年代にはやってなかった。今はどうなんだろう)。

広告の手法に恐怖訴求というのがあるけど(「ニオイに気づいてないのはあなただけ!」みたいな)、本当の恐怖訴求ってもっと別の使い道があるんじゃないかと思う。



少し前のことだけど、デイブ・ワイナーが自らの禁煙9周年について書いていた。

「2002年6月14日は、私の人生の中で大きな意味を持つ日だ。その日私は死んで、新しい人間として生まれ変わった」

1日に数箱のマルボロライトを空けるヘビースモーカーだったワイナーは、その日発作を起こして心臓バイパス手術を受けた。

幸い命を取り留めたワイナーにとって、それが煙草を吸った最後の日になった。

で、今回ワイナーが書いているのは「今年は(も)その記念日を忘れていた」ということ。

「それこそが、自分はもうニコチン中毒ではないことの証明だ。かつて煙草を吸わないことには自制心が必要だったが、今はもうそうではない」

こういうのを読むと、自分のことみたいにうれしくなるな。

そして、かつて独創的なプログラマー・UIデザイナーであり、魅力的な文筆家でもあったワイナーは、煙草を止めた今でも独創的なプログラマー・UIデザイナーであり、魅力的な文筆家でもあり続けているという事実をもって、「自分たちの能力はニコチンによって完成するから」という言葉への反論とします。
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本日のイルカポイント [Diary]

長い坂をずーっとイルカについて降りる。
逆を下った先にはプールがあります。
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本日のネコポイント [Diary]

馬車道のそばを歩いてたら、車の下から前足の先がのぞいてるのが見えた。
大きくて毛並みがよくて、遊ばないけど逃げもしない。
「この人たち何みてるんだろうなあ」と思いつつそんなにイヤでもない感じ。
また会えるといいな。
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恋愛のとき無視してはいけない本能 [Thoughts]

  1. 危険さはしばしば魅力の裏返しではあるけれど
  2. ある人がどれだけ魅力的に感じたとしても
  3. その人の存在にほんのわずかでも「怖さ」を感じたら
  4. 必要以上に近づいてはいけない
  5. 「怖さ」は自分を傷つける可能性のある存在に対する本能の警告なのだ
  6. そして経験的にこの種の本能は無視してはいけない
  7. これはものすごく大切なことです

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慣性 [Diary]

ひさしぶりの完全な休み。

深夜のみなとみらい、海辺の公園に二人で腰掛けて一時間くらい夜風を浴びてぼんやりする。

例によってカップルたちが、あんなこととかこんなこととかしてたりしなかったり、単に話をしてたりする中に混じって。

ずっと走り続けてると、何もしないでただ座っているということ自体に身体と精神が慣れるまでに時間がかかる。

慣性の法則みたい。

30分くらい夜風に吹かれているうちに、ようやく身体にスピード感が馴染んでくる。

馴染んでくると、今まで見えなかった星が見えるようになってくる。

かわいらしい形をした雲が西の方から並んでやってくる様子にも気づくようになる。

木の間を吹き抜ける風の音が、喜びとか悲しみとか安らぎとか不安とか繋がりとか孤独とかそんな相反する感情を同時に喚起することもわかるようになってくる。

いったん馴染んでしまうと、今度は現実のスピードの方が嘘のような気がしてくる。

そこまで来て、はじめて感覚が正常に戻ったことがわかる。
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レオ・バボータ「カオスと生きる」 [レオ・バボータ関連]

原文:Leo Babauta "Living With Chaos" from Zen Habits
この記事は、レオ・バボータさんがブログ「Zen Habits」でUncopyrighted(コピーライトなし)として公開されている記事の日本語訳です。原文同様、この日本語訳もUncopyrighted(コピーライトなし)とします。

「カオスの中にこそ肥沃さがある」(アナイス・ニン)


最近私はコントロール幻想について、そして目標を持たずに生きることについて書いた。

「コントロール幻想」を手放し、計画を可能な限り排除するにはどうすればいいか、私はまだ考え続けている。

目標も立てない、計画もしない人生というのは、どんなものだろう? どのようにしてカオスと付き合えばいいのだろう?

私も全ての答えを持っているわけではないが、たくさんのことを学びつつある。

今月、私はポートランドで開かれたWDS(World Domination Summit)に参加したが、そのときいくつかの計画していたことがあった。スピーチをひとつ、もう少し小規模なセッションがふたつ、そして自転車ツアー、それに航空券とホテル。それでも、その週末の多くの部分をオープンのままにしてあった。

それはとても自由なものだった。スピーチをすることは構わなかったし、自転車ツアーは素晴らしかったが、予想もしない人と出会い、初めて会う人々とあれこれ話し、群衆に混じって移動することは楽しい経験だった。次に何が起こるのか最後まで予想できず、それは不安でもあるのだが、そこには不思議に自由な感覚があった。

この文章を書いている今、私は一ヶ月を過ごす予定のグアムに向かう飛行機の中にいる。たくさんの家族や友人たちが待っている——みんなEvaや私、そして子供たちと会うことを楽しみにしてくれている(もちろん私たちも楽しみにしている)。しかし、四週間のうちの二週間滞在する場所以外、私たちは何も計画していない。移動手段も決めていない。毎日何をするのかも決めていない。そして後半の二週間どこに滞在することになるのかもわからない。怖いことだが、悪いようにはならないことはわかっている。

どのようにしてカオスと生きればいいのだろう?

受け入れることだ。

日々を計画せずに生きる

私は可能な限りスケジュールを決めないようにする。日々の目標は設けない。朝起きたら、自分に「今日わくわくすることは何だろう?」と問いかける。答えは毎日異なっている。

もちろん、私には果たさなければならない義務がある。しかし、そのほとんどが楽しみでもある。あまり楽しめないことでもやるが、それはどうしても回避できない場合だ。

私は常にその瞬間瞬間を意識的に生きるよう努めている。そして自分自身に問いかける……「私が情熱を抱けることはなんだろう? 一瞬一瞬を自分の価値観を損なわないで過ごすにはどうすればいいだろう?」。

私はジャイナ教を実践するロンドン在住の友人のSurajとこのことについて話し続けている。彼は、自分自身の価値観を明快に見いだしている。友情、感謝、思いやり、そして平静だ。素晴らしい価値観だと私は思う。

私の価値観は思いやりだ。それは様々な形を取って現れる。愛、親切さ、共感、感謝。何かあるたびに私は自分に「この状況に思いやりをもって対処するにはどうすればいいだろう?」と問いかける。

この点については、私はまだ学びの途上にある。それを完全に身につけたとは言わない。これから先何年もの間探求を続けることになだろう。

なぜ、計画は幻想なのか

計画を立てずに生きることは、ほとんどの人にとって馬鹿げているか、あるいは非現実的に思えるかもしれない。もちろんそれでもいい。しかし、現実的でありたいと言うなら、あなたの立てる計画は純粋なコントロール幻想であることを理解する必要がある。

簡単な例をあげよう。今日あなたはレポートの執筆(あるいはブログや本の一章分でもいいが)と、同僚か取引先の人とのミーティングを計画している。午前9時からレポートを書き始め、ミーティングは11時からだ。

ここでは実際に予定通りにものごとが進むものと仮定しよう。多くの場合、様々な想定外のことが起こってコントロール幻想は簡単に打ち砕かれてしまう。しかし時には運に恵まれた日もあって、望んだ通りに計画が進む。

あなたは予定通り机に向かって書き始める。ひょっとしたらレポートのアウトラインを作ってあるかもしれない。しかし、書き進めるにつれて、予定外のアイデアがあなたの頭に浮かぶ。文章について考え抜くほど、書き始める前には予見できなかった問題に突き当たる。実際、よく考えてみれば、書き始める前に文章の内容を決めておくことなど不可能だということがわかる。それは書き進めるうちに姿を現してくるものだからだ。なぜなら、ものごとは実際にやってみることで初めて考え抜くことができるのだし、自分自身が考えつくことを事前に予測する方法はないからだ(他人の考えについては放っておこう)。

そして、自分自身が書いたことから、予想もしないことが生まれ出てくる。実際、そのことに対してオープンでさえあるなら、自分では想像もしなかったような素晴らしい文章を書いてしまうこともあり得るのだ。もし事前に作ったアウトラインにこだわるなら、この素晴らしい可能性を無視することになる。

そして11時になる。ミーティングの時間だ。予定通りあなたは同僚か取引相手と会って話し始める。もちろん会談の内容を事前に計画することはできない。話しながら何が出てくるのか予想する方法はない。事前にアジェンダを作っているかもしれないが、アジェンダに沿って話を進めるにつれて、新しいアイデアが浮かぶだろう。どちらかが新しいアイデアを提示すれば、触発されてもう一方にもアイデアが浮かび、そして……という具合に、アイデアというのは互いに触発しあうものであり、あらかじめ計画しておくことなどできない。

つまり新しいアイデアやプロジェクトやコラボレーションというのは、このような計画不能な会話から生まれるのだ。そして、それは素晴らしいことだ。

あなたが計画していたこの二つの出来事は、計画通り行われはしたものの、内容は完全に予測不可能であり、コントロール不可能なものだった。このカオスを受け入れるほど、そこにある素晴らしい可能性を受け入れることになる。逆に一日の行動を計画によってコントロールしようとするほど、自分自身を制限してしまうことになる。

姿を現していく今この瞬間に心を開く

コントロール幻想に私たちはこだわろうとするが、カオスを受け入れるようにしたら何が起こるだろう? 変化しながら姿を現していく今この瞬間と、決して計画できない可能性に対して心を開いたらどうなるだろう?

素晴らしいことが起こる。

試してみよう。これから一時間の間、計画を捨ててみよう。そして一瞬一瞬、何が起こるか観察してみよう。自分をわくわくさせてくれること、自分の価値観に合致しているものごとについて考えよう。

わくわくすること、価値観に合ったことを始めてから、どんな新しいことが姿を現してくるか観察しよう。目的を持たすに人と話して、そのやりとりの中から、どんなアイデアが出てくるか見てみよう。人との関係の中から生まれた新しいアイデアや、あなた自身の考えの中からどんな可能性が生まれてくるかを観察しよう。

雲をつかむような話に聞こえるかもしれないが、これはどんなことよりもはっきりしたことだ。ここまで見てきたように、私たちは計画することで、ものごとをきっちりと決めたつもりになっている。しかしそうではない。ものごとは常に流れの中にある——きちんと決まっていると、私たちが考えようとしているだけなのだ。

人生の流動性を認めれば、その流動性を自身のために生かせるようになる。そして流れに乗れるようになる。変化する状況に対して心を開くことができる。世界を計画や目標に当てはめようとするかわりに、ものごとに対して目を開けるようになる。

私は全ての答えを持っているわけではない。このように生きることによって私や他の誰かにどんなことが起こるか予想できるなどと言ったら、私は偽善者ということになる。

何が起こるかは私にもわからない。ただ、このシンプルな言葉の持つ無限の可能性について考えてみよう。

「カオスは友である」(ボブ・ディラン)




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可能性と希望を一撃で潰す魔法の言葉 [Thoughts]

いろいろあるけど、たとえば、

やればできる。
それはおまえだけ(自分だけ)じゃない。

きっと誰もが言われたことがあるはずの(そして言われて納得したことがあるはずの)言葉。

そして多くの場合口にしたこともあるはずの言葉。

だよね?

一般的にこれらの言葉たちは、善い言葉として受け止められている。先輩から後輩へ。大人から子どもへ。年配の人から若者へかけられる言葉として。考えが甘かったり物ごとの仕組みを知らない若い奴に向ける言葉として。

もちろん場面によってはそのとおりなんだけど。でもこの種の言葉って、使われ方と状況によってとても危険なものにもなる。

それは、物ごとがもっと良くなる可能性があるとき、その可能性と希望を一撃で潰してしまう魔法の(そして悪魔の)言葉でもあるから。

今ますます強く思うのは、こうした言葉たちを無条件で使うこと、そして無条件に納得してしまうことを止めなければならない、ということ。

きっとこう言っても「やればできる」のどこが悪いのかわからないという人の方が多いんじゃないかな。

「やればできる」が人にとって善い言葉として機能するのは、例えば人が自分の意思で何かしようとするとき、自分自身に対して言い聞かせるような状況でのとき。

「おまえだけじゃないから」が人にとって善い言葉として機能するのは、例えばみんなが同じ目標に向かってがんばっているような状況で壁にぶつかったとき、自分自身に対して言い聞かせるような状況のとき。

しかし、そこにシステムがあり、人がシステムに合わせる状況下で、システム側から出るその言葉は、害悪以外の何物でもない。

これは、今の日本を作ってきた精神構造の病的な部分を象徴する言葉たちだ。

深く考えずに、当たり前のようにそんな言葉を口にすることがどれだけ人を不幸にしているか。そして、その言葉を納得して受け入れることが、どれだけ自分を不幸にしているか。

だって、
仕事があるだけでも感謝しないとね。
文句言ってられるうちが華だよ。
自分がどれだけ恵まれてると思ってるの?
そんなこと言ってても仕方ないでしょう。
みんなそう思いながらかんばってるんだから。
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