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[書評]ブログを10年続けて、僕が考えたこと(倉下忠憲) [書評・書籍紹介]

倉下忠憲さんの『ブログを10年続けて、僕が考えたこと』(以下本書)を読み返した。3回目だ。

ぼくは基本的に著者の倉下さんのファンなので、ほとんどの本は買っている。でも短期間に何度も通して読み返す本は珍しい。

ごく自然に繰り返し読んでしまったし、読み直すことで少しずつ印象が変わる本でもあった。

その意味ではちょっと癖があるし、誰にでもお勧めできる本ではないかもしれない。でも、ある種の人にとても強くおすすめしたい本。



「ある種の人」とは。ブログについての本だから、もちろんブロガーなのだろう。でもブロガーといっても(本書の中でも整理されている通り)いろいろある。

一言でいうと、この本はすべての「(個人)ブロガー」に読んでほしい本だ。

マネタイズを第一義としてその手段としてブログを捉えている人、つまりアクセス数を稼ぐこと、アフィリエイト収入を得ること第一の目的としている(のではない)ブロガー。

「そんなブロガーいるの?」と思った人は、おそらく読者対象からは外れる(マネタイズを目指すのが悪いことだと言ってるのではない。念のため)。



何度も読み返した理由のひとつは、その構造にとても興味をひかれたからだ。目次は以下のようになっている。
はじめに
第一章 R-style ビギニング
第二章 ブログ及びブロガーについて
第三章 人はどのようにして毎日更新するブロガーになるのか
第四章 ブログの成功法則
第五章 ブログの今と未来
おわりに

目次に並んだ見出しを見ているだけだとわかりにくいけど、とても凝った構造をしている。主観的な自分語りと、客観的なブログ論が交互に出てきて、しかも少しずつリンクしているのだ。

すごく簡略化すると[これまで(自分話→客観論→自分話→客観論)]→[これから(全体論)]という構造だ。この構造が生まれた経緯については、倉下さん自身がメルマガに書かれていた。

この構造によって、本書は自分語りのエッセイとも、ありがちなブログ論とも一線を画している。これはとても勉強になった(思わず詳細にアウトライン化しちゃった)。



最初に読んだとき、これはとても「個人的」な本だと感じた。おそらく「自分話」の部分から強い印象を受けたからだ。

でも三回読み返すとずいぶん印象が変わった。個人的なことをベースに書かれているのは間違いないけど「個人的な本」という印象はずいぶん薄くなった。



少し脱線。

この10年の、ぼく自身の「ブログ」に関する感覚の推移は、本書に書かれたものとはずいぶん異なっている。それはたぶん、デイブ・ワイナーのブログ「Scripting News」をレファレンスにしてきたからだろう。

ワイナーは(以前から当ブログを読んでいただいてる方ならご存じの通り)最初のアウトライナー「ThinkTank」を開発した人。アウトライナーの神様みたいな人。そして同時に世界最古のブロガーの一人でもある。まだブログという言葉がない頃からのブロガーだ。

「Scripting News」の特徴は、あらゆるものがミックスされていることだ。本業の開発はもちろん、映画も自転車も文章を書くこともメディア論もアメリカンおじさんジョークも政治についての見解も。

ただし、単なる「何でもあり」ではない。いずれもワイナーという個人のフィルターを通過した「パーソナル」なものごとだ。

だからこそ、一見雑多な内容でも、読んでいるうちにワイナーという個人がどんな人で何を考えているのかが(総体として)浮かび上がってくる。ワイナーの仕事の背景にあるものの姿、その厚みをありありと感じることができる。そしてワイナーの仕事を知れば知るほど、そこに密接な関係があることが感じられる。

ぼくはそういうものが(そういうことができるのが)「ブログ」だとずっと思ってきたし、そこから強い影響を受けてきた。

一口で言うなら「個人的(personal)であり、個人的(private)ではない」ということ。

そして本書の著者、倉下忠憲さんのブログ「R-style」から感じるのも、まさにそのような感覚だ。「個人的(personal)であり、個人的(private)ではない」。

そして本書、『ブログを10年続けて、僕が考えたこと』からもまったく同じ匂いを感じる。「個人的(personal)であり、個人的(private)ではない」ブログを10年続けて考えたことについて書かれた「個人的(personal)であり、個人的(private)ではない」本。



本書は「マネタイズを第一義としてその手段としてブログを捉えている人、つまりアクセス数を稼ぐこと、アフィリエイト収入を得ること第一の目的としている(のではない)ブロガー」を対象にしていると書いた。

でも逆説的だけど、ブログを通じたマネタイズ(もしくはもっと広い意味での「利益を得ること」)についてのヒント、あるいは少なくともそのことについて考えるきっかけが、本書にはたくさん含まれている。

当たり前だけど、倉下さんはブロガーであると同時にプロの物書きだ。つまり書くことを通じてお金を稼ぐ(稼がなければならない)人だ。しかもブログをきっかけに物書きになり、物書きになった後も毎日ブログを更新している人だ。

その意味では、とても厳しい場所からブログというものを見ているのだ。

同時に、セルフブランディングについての本を書いていることからもわかるように、今日的なマーケティングについても造詣が深い。

マネタイズが第一義でないからといって「お金のことなんか知らない」本ではないということ。そのことも、何度も読み返していて強く感じたことだ。



今の本書の個人的印象は、「日本のブログの過去・現在・未来を冷徹に、そして希望を持って考えた本」だ。

だからこそ、すべての「(個人)ブロガー」におすすめしたい本なのだ。

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weのスイッチ [Diary]

アメリカに住んでいた頃(70年代後半)は冷戦のまっただ中で、でもベトナム戦争はもう終わっているという時期だった。

敵は、ソビエトだった(日常会話の中ではロシア人Russiansと呼んでいた)。

細かい政治的な話はよくわからなかったけど、とにかく世界には自分たちが属するこっち側(we)とソビエトに代表されるあっち側(they)があって、いちおう日本も「こっち側」に属している、くらいに認識していた。

学校の授業とかでソビエトの話が出てくるときには不思議とweで思考していた。つまりアメリカ(が属する陣営)を代表して思考していたのだ。theyに対してweはどのように行動するべきか、というように。

ところで面白いことに、日本のことをアメリカ人に対して説明するときにもやっぱりweで思考してるのだった。もちろんこの場合は日本人を代表しているのだ。

自分がどの集団のモードで思考しているかによって、同じweでも代表するサイドが自然にスイッチする。

もちろん意識はしていない。



アル中のおじいさんが亡くなった後、隣の家には若い男三人組が引っ越してきた。長髪で騒々しくて、いつも大きな音量でレコードをかけるので(イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」とかはそれで覚えた)両親はあまり良くは思っていなかったみたいだ。

あるとき家の前の芝生に水をやっていると、そのうちの一人が話かけてきた。「ヘイ坊主」みたいな感じで。

「坊主、お前んちはチャイニーズか?」
「ジャパニーズだ」
「おお、ジャパニーズか。最近の日本はどんな感じだ?」
「大きな台風が来て大変だよ」

ちょうど台風で大きな被害が出たことを、日本語ニュースで見て知っていたからだ。

「 (We) have lots of typhoons」

日本を代表してそういうと、彼は大きく頷いた。

「(You) guys sure have lots of typhoons」

しばらくの間オキナワにいたんだと彼らは言った。

オキナワには台風たくさん来たよ。せっかくの休暇のときに限って来るんだ。すごい風の中を意地でも遊びに行くんだけど店はみんな閉まっててさ。

ぼくは頷く。オキナワに台風が多いのは理科で習って知ってる。

「(They) sure have lots of typhoons」

そのときのぼくにとって、オキナワはweではなかった。
もちろん意識はしていない。



そのオキナワ帰りの長髪にーちゃんとこれからもよろしくな、と握手したことをたぶん両親は知らない。

あ、それから声をひそめて「イーグルスみたいな音楽をみんなが聴けば戦争なんか必要なくなるんだぜ……」と教えてくれたことも。

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アウトラインの中の切り捨てられた可能性たちとその死 [アウトライナー]

文章を書くとき(あるいは文章を書くことを通じて考えるとき)、考えていることや頭に浮かんだことのうち、言葉にできることはほんのわずかだろう。そして、アウトプットできるのはそのまたほんのわずかだ。

その中間領域にある「言葉にはしたけどアウトプットされなかったもの」にとても興味がある。自分についても他人についても。

背景にある「アウトプットを前提に言葉にはしたけれどアウトプットされなかったもの」が多いほど、アウトプットされたものの奥行きが増すという理屈を思いついたけど、実際にそうなのかどうかはわからない。



未完成の文章やその断片は、すべてひとつの巨大なアウトラインに入れておく。アウトラインを操作しているうちに、思いついたことや考えたことの断片が集合離反し、成長を始める。そして人に見せられるまでに形になった部分がアウトプットされる。

アウトラインの中には、言葉にはされたけれど最終的なアウトプットから切り落とされた「中間領域の言葉」が残る。それは文章にする過程で、あるいは何か結論を求めて思考する過程で切り落とされた可能性たちだ。

切り落とされたからと言って、それらに価値がないわけではない。文章(もしくは結論を持った思考)というリニアな性質を持ったものを完成させるために、たまたま選ばれなかったというだけだ。

実際、そんな「中間領域の言葉」を眺めていると、もしこちらを採用していたら(アウトプットは)ずいぶん違う形になったかもしれないと思うこともある。アウトプットしてから時間が経ったものについては、今だったらこちらを選ぶのにと感じるものも。

中には、それがかつてアウトプットに際して切り落とされた「中間領域の言葉」だということ自体を忘れてしまって(別に記録を取ってるわけじゃないから)、アウトラインの中で再度成長を始め、最終的にアウトプットされるものもある。

このブログに複数ある「同じことを書いてる微妙に内容の違う記事」は、そうして生まれることが多い。



あるいはまた、可能性をはらんだままずっとアウトラインの中に入ったままの「中間領域の言葉」もある。いつか何かの形でアウトプットされるのか、最後まで可能性のままなのかはわからない。

ところでこの場合の「最後」っていったいなんなのだろう、とずっと思ってたのだけど。



ついこの間、アウトラインの中のずーっと末尾の方に溜まっていた古い断片をまとめて消した。

おそらく5年以上前のもので、読んでいてどう考えてもこの先成長を始めることはないだろうと思えたもの。つまりもう何の可能性もはらんでいないもの。

ほんの数年前には自分にとってリアリティがあった(はずの)言葉が、この先自分の人生に意味を持たないだろうと確信できたり。
今の自分の考えと明白に違っていたり。
今の自分なら使わないだろう言葉だったり。
もうその段階には戻れない(つまり若い)と感じる内容だったり。

「ひとつのアウトライン」を長年維持し続けることではじめて見えてきたこと。そしてそのことを通じて、自分にとっての時間の経過(とその意味)をひしひしと感じてみたりも。


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ひとつの人生、ひとつのアウトライン、有限な選択 [アウトライナー]

いわゆる「タスク管理」を含む、生活や行動に関するアウトラインをつくって、アウトライナーで整理するとき。

たとえば税金や社会保険料の支払いも、その金額の高さについて浮かんでくる愚痴も、今月のお金のやり繰りも、次の仕事の計画も、今日のおかずも、行ってみたいレストランも、夫婦ともにひと目で気に入ってしまった素敵な椅子も、同じアウトラインの中に入っていること。

普通は目的別に分けたくなると思うけど、分けない。どれもがひとつの人生、ひとつの生活に関することだからだ。

当たり前だけど、今月入ってくるお金と、税金の額と、次にやるべき仕事と、買い物や外食や家具を買うための予算は密接に関係している。単に予算の配分という意味だけではなく、もっと根本的な部分で。



「ワークライフバランス」という言葉が好きじゃない。

ワークとライフはバランスを取るものなんかじゃない。ワークはライフの中にあるものだ。それを同時に考えることが大切なのだ。すべてはひとつの人生の中で行われることだから。

だからひとつのアウトライン。

そして重要なのは、有限なひとつの人生の中に入りきらないものは、こぼれ落ちていくということだ。すべてを取ることはできない。そのことを理解した上で、では何を取るのかという選択が生きることだ。

その視点なしで、タスク管理や優先順位についていくら考えても、きっとすぐに限界にぶつかってしまう。

あ、つまりその選択のための判断材料、基準、根拠もやはりひとつのアウトラインの中に必要なのだ。

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