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レオ・バボータ「仕事に気持ちを込めることについて」 [レオ・バボータ関連]

レオ・バボータさんの記事「The Case for Caring About Your Work」の日本語訳を「仕事に気持ちを込めることについて」として公開しました。ひさびさ!
まだ十年も経っていないと思うのだが、「不労収入」を生み出しつつ、いろんなことをできる限りアウトソーシングして、ビーチにいながら口座にお金がどんどん貯まっていくような生き方がトレンドになるかのように思えた時期があった。

労働は少ないほど良く、目指すべきは自動化だという考え方だ。

私自身もその発想に魅惑されていた時期があったので、同じような人を非難するつもりはない。

しかし、別の考え方もある。それが私が今言いたいことだ。それは、自分自身で手をかけ、気持ちを込めて仕事をするということだ。
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理由もなく説明もできないもの [Thoughts]

理由もなく説明もできないけど惹かれるものというのがあって。

個人的にあげるなら、
たとえばそれは
バスや路面電車が行き交う様子だったり、
市場やスーパーで行き来する人だったり、
坂道の多い街並みだったり、
人のいない元旦のビジネス街だったり、
70年代の殺風景なオフィスビルだったり、
夜中に誰かの家から窓越しに漏れてくる灯りだったり、
キーボードをリズミカルに叩く音だったり、
美しいアウトラインだったり、
整理されたファイルキャビネットだったり、
分厚いリングのバインダーだったり、
万年筆で書いた文字だったり、
台所から名もない料理が生まれる様子だったりする。

自分のしていることが正しいのかどうかわからなくなったら、思い出すといい。
理由もなく説明もできないものは、自分の本質に近い何かだ。

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アウトラインの外へ [アウトライナー]

こちらの記事を読んで。
Escape from that outline (そのアウトラインをすてろ)

ここでは文章を書くこと、特にアウトライナーを使って文章を書くことを考える上で、とても重要な指摘がされている。それは、アウトライナーの恩恵を受けながら、アウトラインの存在を忘れることの重要性だ(大変興味深い記事です)。



ずいぶん前のことだけど、何人かのアウトライナー嫌いの人(いちおうアウトライナーのなんたるかは知っている人)と話をする機会があった。

多くの人は「アウトラインに引きずられて自由に書けなくなる」感覚をいちばん嫌っている、あるいは違和感を感じているようだった。

これはまったくその通りで、少なくとも文章を書くという作業に関するかぎり、アウトライナーをうまく使うポイントは、いかにアウトラインに縛られないかということなのだ。

響きとしてとても矛盾しているようだけど、アウトライナー使いの方なら、特に長文をアウトライナーで書く方なら、たぶん納得してもらえるんじゃないかという気がする。

文章に力を与えるのは、あるいはブレイクスルーさせてくれるのは、論理や計画を飛び越えた何かであることが多い。それはたとえ論理的な構造を持った文章であっても同じことだ。

冒頭で紹介したgofujitaさんの記事では、アウトラインをベースにしながら「一度アウトラインの形を外してみる」ことが提案されている。これはまさにアウトライナーの恩恵を受けながら、論理や計画を飛び越えた何かを取り込むための方法なのだと思う。

ぼく自身でいえば、ボトムアップとトップダウンを意識的に繰り返す(「シェイク」する)ことがそのための方法だ。



そこで思い出したのは、昔ライターの山名一郎さんが『マックユーザーのための「知」のコンピュータ活用術』という本で紹介していた方法だ。

山名さんはアウトライナーのヘビーユーザーであり、もちろん原稿書きにもアウトライナーを活用している(ただし同書は1995年の本なので、現在の山名さんがどのような環境で執筆されているのかはわからない)。

山名さんのアウトライナーの使い方でとても興味深く思ったのは、原稿を書くときにアウトライナーのウィンドウとワープロのウィンドウを並べて開き、アウトラインを横目で見つつ、ゼロからワープロで書き起こしていくということだ。それもブログ記事とかではなく、書籍一冊分の原稿だ。

そして、山名さんのアウトラインは見出しやキーワードだけではない。かなり書き込まれた、限りなく原稿そのものに近いアウトラインだ。一見するとそのままで(あるいはちょっと手直しすれば)原稿になりそうに思える。それでも山名さんはそうしない。

ちょっと考えると効率が悪いような気がするし、時代を逆行しているようにも思える。でも、今考えるととてもよくわかるけど、これもまた「アウトラインから逃げる」ための方法なのだ。

アウトラインはあくまでもガイドラインであり、決して文章そのものではない。文章が(ベースとなる何かを修正することではなく)、文章としてゼロから書き起こされたときにしか生まれない粘りやうねり、勢いというものは、確かに存在する。

そして何よりも、山名さんはこの方法によって、アウトラインを使いながら、自覚的にアウトラインの外に出ている。
原稿は書きながら考えるみたいなところがあり、筆の運び方によってはアウトラインプロセッサを作成した段階には想定もされていなかった予想外の展開になることも大いにありうる。そういった勢いや流れを拒否せずむしろ身を委ねるべきだろう。

ならばここでのアウトラインは無駄なのかというと、そんなことはない。アウトラインがなければ、その文章は書かれなかったはずの文章なのだ。


ちなみに、同じような方法を林信行さんも書かれていたと思う。

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同じネタの差分、日記に書かれないコア [Diary]

最近あるきっかけで、自分でもすっかり忘れていた数年前のエントリーを数ヶ月分読み直してみたら、呆れるくらい同じことを繰り返し書いていた(うすうすわかってはいたけどちゃんと確認したことはなかった)。

ついこの間のエントリーでも、ほとんど同じことを書いたものが2009年にあった。他にも3回4回と繰り返しているネタがいくつかある。別に使い回しをしてるわけではなく、毎回新鮮な気持ちで書いてるんだけど(以前書いたことを忘れているともいう)。

そして興味深かったのは、同じネタを扱ってるエントリーの同じでない部分。その「差分」に着目すると、この数年間に自分が何をなくして何を得たのかということが、ありありとわかる。

それを知ることは、もしかしたらすごく意味のあることかもしれない。良くも悪くも。



こういう役割って本来は「日記」が担うものだ。でも人に見せる前提で書かれた文章には、不思議なことに「日記」には決して書かない自分のコアに直結するようなことを書いていたりする。

それはおそらくリズムとメロディを編集すること、そして「伝えたい」にとても近いけど少し違うある種の意思の存在に関係しているはずだ。

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プログラマーのエディタのような物書きのエディタ [アウトライナー]

「テキストエディタ」と「文章エディタ」は似ているけれど同じではない、と思う。ここでいう「文章エディタ」というのは、密かな憧れを込めた造語です。

テキストエディタはテキストファイルを編集するためのもの。文章エディタは文章を編集するためのもの。そして「テキストファイル」と「文章」は似て非なるものだ。

本来はワードプロセッサーが「テキストエディタ」に対する「文章エディタ」の役割を果たすはずだったのだと思う。でも現状のワープロソフトが文章エディタになってるかというと。

プログラミングのためのテキストエディタは、コードの編集に特化したかゆいところに手が届く機能をたくさん持っている。

この種のエディタって、それ自体に内蔵した言語で拡張できるようになってることが多い。そして自身がプログラマーであるユーザーが欲しい機能を自分で書いて、良い機能は広まり、取り込まれていく。もしくはそれをベースにさらに改良されていく。

こういう「プログラマーが作ったプログラマーのためのエディタの機能」に相当する「物書きが作った物書きのためのエディタの機能」ってどんなものなんだろうとよく考える。

もっと具体的にいうと、物書きユーザーが自由にプログラミングができたら「文章エディタ」ってどんなものになっていくのだろう。少なくとも今の「ワープロ」の機能ではない気がする(今のワープロの需要はそれはそれであるとは思うけど)。

もちろんエディタのマクロやスクリプトを活用して自分自身で必要な機能を作成している物書きユーザーだっている。

でもプログラマーたちがプログラミング用エディタを磨き上げていくような意味で、物書きユーザーたちが文章エディタを磨き上げるということには残念ながらなっていない、と思う。

なんといっても自分を含む大多数の物書きユーザーはプログラムが書けない。しかもコンピューターでできることを想像することもできないので、要望を開発者に伝えられない。

そして開発者(=プログラマー)の多くは自身が物書きではないので、物書きユーザーが本当は何を求めているのか理解できない。真剣に声を聞こうとしても、そもそも物書きユーザーが要望をきちんと言語化できないという上の問題に戻ってしまう。

※いや訂正。プログラマーであり優れた物書きでもある人はたくさんいる。でもそういう人はプログラミング用のエディタを物書き用に使いこなしてしまうのだ、たぶん。結城浩さんのVimとかまつもとゆきひろさんのEmacsとか。

ぼくにとってはOmniOutlinerとかWorkFlowyとかFargoに代表されるプロセス型アウトライナーが「文章エディタ」(の姿を垣間見せてくれる存在)だけど、その原型を生み出したデイブ・ワイナーさんは優れた物書きでもある。それは物書きの思いを形にできた数少ないケースのひとつだったのだ。



その垣根を越えることは難しいのかなと思っていたけど、シンプルきわまりないWorkFlowyの機能の上に、みんなが次々と思いもよらない使い方を生み出していく様子を目の当たりにして(思考のOS!)、もしかしたらこういうところにヒントがあるのかもしれないとも思った。

関連記事:
文章書きはプログラマーの想像力に縛られている

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