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シェフと歌うたい [Diary]

前にも書いたことがあるお気に入りのイタリアンのお店。

シェフとその奥さんが二人でやってる小さな店で、いつ行っても絶対に美味しいのはもちろん、お店の雰囲気自体がまるでその二人の人間性(ストイックであんまり表に出たがらないシェフと、一瞬取っつきにくそうに見えるんだけど、実はけっこう話し好きな奥さん・ちなみに美人)そのものみたいで、微笑ましくて好きです(笑)。

もっぱらランチにばっかり通って申し訳ないんだけど(十数年間でディナーを食べたのは3回くらいかな)、あまりにもランチのコストパフォーマンスが良すぎて。特にランチのデザートでディナーと全く同じものが食べられるお店って、そんなにないですよ。

で、この間例によってランチに行ったら、いつもホールに出ている奥さんの姿が見えず、無口なはずのシェフがひとりで(ぎこちなーく)注文を取っていた。

「あれ、奥さんどうしたんですか?」
「今年からお店には出ないことになったんです」



奥さんが実は歌手で、誰もが知ってる有名家電量販店のCMソングやアニメの主題歌を歌っていたこともあるということは知っていた。

しばらくの間(たぶんお店が忙しいこともあって)あんまり活動してなかったみたいだけど、今年からまた歌手活動に専念することになったと。

「えー、じゃあお店の方大変ですねー」
「土曜日のランチタイム恐怖です」

もちろんホールに人を雇うということだってあるかもしれないけど、こっちが心配になるくらいの今のコストパフォーマンスで、なかなか人を雇うことも難しいと思うし、なんといってもシェフと奥さん以外の人がお店にいたら別のお店になっちゃうような気がする。

だからシェフががんばり続けるしかないんだろうけど、がんばってほしいな。

奥さんの昔の音源がYouTubeにアップされているのをシェフに教えてもらったので、一通り全部聴いてみた。

まさにアニソン!ていうものから、スタンダードっぽいものまでいろいろあって、自分が普段聴くジャンルの曲ではないけど、いつもお店で注文を取るときのちょっと低い声とは違う、高くて伸びのある声を聴くと、確かに歌を歌う人なんだなと思う。

シェフと歌うたい。
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「マインドマップよりアウトライナー」のワケ [アウトライナー]

ある方のツイートに刺激された久々のアウトライナーネタ。

なぜライティング(文章書き)には、マインドマップよりもアウトライナーの方が有効なのか?

マインドマップ上での発想は、ビジュアル上で形になったとしても、最終的なアウトプットであるライティング(言葉の流れ=ストリーム)としては分断されたままになっている。だから、マップからストリームに変換する作業をしなければならない。

ストリームをつくるということは、個々の要素をもっとも有効な順番に配置し、滑らかに流れるように「てにおは」で接続するということだ(カジュアルなライティングであれば、敢えて流れを分断してリズムを作ったりもする)。

そして経験的に、その過程でマインドマップというビジュアル上では発想として完成していたと思ったことが、実はそうではなかったことに気づいたりすることが多い。うまくつながらないとか。滑らかに美しく流れないとか。展開に無理があるような気がするとか。

ライティングとして完成するためには、アイデアと構成だけでは充分ではなく、ストリームが同じくらい重要な要素になる。マインドマップに限らず、いわゆる「ビジュアルな」発想法を安易に使うと、その部分が抜け落ちてしまいがちだ。そこを補完できないと、うまく流れずに苦しむか、単に項目が羅列されただけのつまらないライティングになってしまう(もちろんビジュアルな手法が悪いということではない。使い方の問題ね)。

情緒的な要素のない論述文(レポートとか論文とか)であってもそれは同じで、最終的なテキストに反映されなくても、ストリームの流れ方が書き手のテンションを大きく左右する。

テンションて、大事じゃないですか(笑)。

だから、論述文であっても、敢えて最終的に削除する前提で情緒的にライティングを進めることが、意外に有効だったりする(これは木村泉「ワープロ作文技術」 (岩波新書)の中での指摘で気づいたことで、そのことは以前「作文の補助線」という記事に書きました)。

アウトライナーを使ったフリーライティング→アウトライン組み立て→最終ライティングという方法が有効なのは、最初の段階から既にストリームの形で発想をキャッチできているからなのだ。

だから、たとえアウトライナーを使ってもキーワードだけでアウトラインを構成してしまうとうまくいかない。断片はかならず「文章」の形で捉える必要がある。



個人的に、アウトライナーはアウトラインを組み立てるものではなくストリームを組み立てるものということで、「ストリーマー」と呼びたいくらい。でも「ストリーム・エディタ」と言ったら「sed」になっちゃうな。



アウトライナーを使ったライティングについての詳細は、Renji Talk本館「Happy Outlining!」までお越しを!

北の街で普段できないことをする [Diary]

シゴトで訪れた北の街で時間に余裕があったので、いつもの「知らない都市では散歩とスタバと公共交通」の方針に従う。

ホテルから仕事先まで地下鉄2駅分歩いて(寒かった)、スタバで一休みし、帰りは逆に地下鉄3路線乗り継ぐ遠回りルートでホテルに戻る。短時間だけど、これだけでけっこう街の空気を感じられる。

北の街の地下鉄は、東京とも大阪とも名古屋とも違う独特の雰囲気がある。

そして一日の終わりに、普段はなかなかできないことをする。 要は日付の変わる前にベッドに入って8時まで寝ただけだけど(笑)。そんなこと普段はまずできないから。

人によっては出張先の夜なんて羽目を外すものと決まってるみたいだけど(そう言われた)、ましてすぐ目の前はススキノなわけだけど。そうでないとつまらんと感じる人とは、最初から話が合わないからいいんだ。

そして今回初めて利用した「スーパーホテル」、シンプルでクリアで、意外なほど気に入りました。

テレビ塔のそばで会った雪だるま兄弟。翌朝はいなくなってた。
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書店の鉄則? [Diary]

昔、書店で見つけた本が欲しいんだけど買う決心をつけられずに、それでも書店のそばを通りがかるとついついその棚のところに行って眺め回すということがよくあった。

書店にしてみれば迷惑な客だろうけど、何ヶ月もそんなことを繰り返した本は、最終的に購入することが多かったし、そうして買った本は、20年以上経った今でもちゃんと自分の本棚に入っている。

何ヶ月も自分のフィルターの中で濾過されて結果として残った本だから、当たり前といえば当たり前。

そういう本て、そもそも書店の棚にあるときから自分のものだったんだなと思う(ぼくをアウトライナーフリークにした奥出直人の「思考のエンジン」も、そんな本のひとつ)。

以前のように書店にときめかなくなってしまった理由のひとつは、そういう「その本に会うために通う」ようなことがなくなったから。

今は、たとえ興味をひかれる本に出会ったとしても、次回行ったとき同じ棚に同じ本が入っているということはまずない。

棚の回転を良くして売れない本で場所をふさがないというのは書店の鉄則なんだろうけど、長い目で見て本当にそうなのかな。

なんて疑問は青臭いかもしれないけど、でも個人的な経験から言えば、強くひかれるけどなかなか買う決心ができない本て、自分にとって新しい内容のことが多くて、その本を買うことで一気に新しい世界が開けて、関連の本を次々に(今度は迷わずに)買いまくるというのがパターンだった気がする。

だから本当に真剣に思う。長い目で見て本当にそうなのかな。

実際に自分は本屋に行かなくなっちゃったからね。本も買わなくなっちゃったからね(雑誌も買わないけど)。

土日は休みだったけど、一度も書店に足を踏み入れなかった。以前ならそんなことは絶対になかった。
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確か尾崎はミュージシャンだったはず。 [Diary]

今さらだけど、成人の日にいろんなところで話題になっていた朝日新聞の尾崎豊についての社説「成人の日に―尾崎豊を知っているか」

「これは大新聞の社説のレベルとしてあんまりなんじゃないか」とか「オヤジが若い奴に尾崎を強要する風潮をなんとかしろ」とかいろいろと話題があったけど、それは置いておいて。

この社説自体にも、いろんなところで見聞きしたこの社説についての話題の多くにも、個人的に違和感を感じたのは、ミュージシャン・尾崎豊について語っているはずなのに、「音楽」について一切触れていないものが多かったこと。

それって単純に変じゃないですか。

ぼくはリアルタイム尾崎世代だけど、特に尾崎が好きだったわけではないし、共感したわけでもない。自分でCDを買ったことは一度もないし、借りたこともない。教祖のようにあがめるべき存在だとは全く思わない。

それでも細そうで強い、かすれそうで伸びる、出なさそうで出るあの声が、自分の中でのミュージシャン・尾崎豊を規定している。そして、彼の作った何曲かのメロディは、文句なく美しいと思う。

評価するとかしないとか、共感するとかしないとか、若者の反抗だとか代弁者だとか、そんなことよりもまず尾崎の「音楽」について何も触れてないものは、そもそもピントはずれじゃないのかと。
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クリアで単純で実は合理的な [Thoughts]

自分の中で、あらゆることがシンプルであるということが、今までになく重要になってきている。シンプルでない物ごとに耐えられなくなってきたといっても過言ではないかも。

トシのせいもあるかもしれないし、レオ・バボータの影響もあるかもしれないし、そして偶然世の中的なトレンドとも合致してるのかもしれないけど、何よりもその変化が夫婦同時に起こっているところに、生活の必然性を感じたり。

とはいえ、そもそも求める「シンプル」って具体的にどんなことなのか、自分でもなかなかうまく説明できない。

「断捨離」とかそういうことではないしな。断捨離が必要なほどうちにはモノがないし、そもそも「断捨離」と名前をつけられた瞬間それはマーケティングタームになってしまい、シンプルとはかけ離れた存在になってしまうような気がする。別に悪いことじゃないと思うけど。



変な例かもしれないけど、震災直後に電車が間引き運転になっていたときの感じって、イメージしてる「シンプル」に近かったかもしれない。

普段利用している東急東横線は、確か日中の運転本数が8割くらい、各駅停車だけの運転になっていた、そのときの感じ。

ホームで待っていて、何も考えずに最初に来た電車に乗ればいい。乗ったら目的の駅に着くまでただ乗っていればいい。

今乗った電車が目的の駅に停車するかどうか気にする必要はない。特急や急行に乗り換えることも気にしなくていい。

乗車率も均等化するから、ある電車が極端に混みあうこともないし、押し合うことも少ない。

ちょっと想像するほど時間もかからない。なぜなら、全て各駅停車ということは途中駅での急行・特急の待ち合わせがないから(普段思ってる各駅停車の時間て、速い列車に抜かれる前提の時間なんだよね)。

「意外なほど悪くない」と思ったその感じって、今自分が思っている「シンプル」にすごく近いものだった。

電車のシンプル運転は、震災と原発事故という不幸な出来事に起因するものだったけど、不便を強いられていたようで、実はクリアで単純で効果的だったその感じが、自分たちだけでなく世の中のいろんな物ごとが今必要としているものなんじゃないかと。
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やっぱり時間は流れている [Diary]

ずいぶん前に書いたことがあるけど、長いこと通勤してると、毎朝同じ時間に同じ場所で顔を合わせるという人がいて、別にあいさつなんかしないけど互いに顔は知っているというような人が何人かできる。

あまりにも狂いがないので、そのうち時計よりも正確に時間やタイミングが計れるようになったり。
(ラッシュ時の電車は数分遅れてるくらいが普通なので、正確な時刻よりも、いつも乗り合わせるあの人が整列乗車の列にいるかどうかで、乗るべき電車が来てるのか来てないのか判断できる)

かつてそんな存在だった一人で、数年前からばったり顔を合わせなくなった女の人を久しぶりに見かけた。たぶん2年ぶりくらい。

今の職場に通勤するようになったときからずっと同じ電車で顔を合わせ続けているうちに、ある日左手の薬指に指輪が光るようになり、ある日バッグに「Baby in Me」のバッジがつき、やがて一目でわかるほどお腹が大きくなり、そしてある日を境に顔を合わせなくなった人。

整列乗車の列に並んでいてふと気がつくと、彼女が以前と同じ場所に並んでいて、以前と同じドアから乗って以前と同じ山側のいちばん端の席に座った。

なんだか見覚えあるような地味なコートを着て、ちょっと神経質そうに目を伏せて座ってる感じは、もうずいぶん長い間見かけなかったことを忘れそうなほど変わってなかったけど、お腹は大きくなかったしバッジもついていなかった。

やっぱり時間は確実に流れている。うむ。
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ライフ [Thoughts]

「適切なワーク・ライフ・バランスの実現について意見を述べよ」と言われても(言われた)、ワーク・ライフ・バランスという言葉自体が適切ではないような気がして仕方がないので、述べたくない。

それじゃまるでワークとライフが対立概念みたいだし。

※※※

この三連休はありがたいことに三日とも休むことができたんだけど、Tomo.さんが風邪のため(ワタシがうつしました)、久々に自分で買い物してごはんつくってという生活。で、
  • ドトールでコーヒーを一杯飲みながらお昼と夜のメニューを考えて買い物リスト作る。
  • ついでに仕事で忘れちゃいけないことを思い出したので、そのメモをつくる。
  • メモをつくりながら明日の朝イチで出すつもりのメールの文面もあらかた書く。
  • 書きながら連絡しておかなきゃならない人のリストもつくる。
  • そのうちお腹がすいてきて、なんだかすごく豆腐が食べたくなったので、夜のメニューを変更して買い物リストも書き換える。
  • 風邪が治ったら鎌倉に行きたいなあと思って忘れないように書いておく。
  • 鎌倉というところでニール・カサール・バンドのライブを思い出し、アコーディオンの良原リエさんの料理本をやっぱり買うことにする(お腹すいてるから料理系のことをいろいろ思いつく)。

なんてことをやってるうちに、連休なのに一度も遊べなかったのは残念だけど、自分の中の崩れていたバランスがずいぶん回復したような気がした。

当たり前だけど、仕事することもごはんをつくることもひとりの人間の生活の中の一要素だ。

ついでにいえば、音楽も運動も勉強も食事も読書も散歩も恋愛もセックスも遊びもブログもすべて「ライフ=生活」の中で並行的に等価に存在している。

不思議なのは、どれかひとつが充実すると他の何かまで充実する感じがすることで、逆にどれかが停滞したり消耗したりすると、別の何かも停滞したり消耗したりする。

不思議と書いたけど、全てが「ライフ=生活」という一体のものだとすれば別に不思議なことじゃない。

バランスが崩れるのは、本来ひとつのものの、一部の要素を「価値の低いもの」「優先度の低いもの」として扱うからだ。

だから必要なのはバランスを取ることじゃなくて、ライフ=生活の中で全てが並立していて、しかも等価だということを認識し、そのように扱うことだ。

というわけで、「ワーク・ライフ・バランス」にかわる適切な用語は「ライフ」だと個人的には思ってます。
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フォーカスマンダラ [マンダラート]

レオ・バボータ「フォーカス」のエッセンスをマンダラにしてみました。
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2012年。 [Diary]

個人的に、2011年ほど「優先順位」とか「生産性」とかいう言葉を空しく感じたことはなかったけど(世の中全体からみても身の回りのことからみても)、相変わらずその手の言葉が飛び交っている。きっと今年も飛び交うだろう。

その中で、レオ・バボータの「フォーカス」を訳したことは自分としてはすごく大きな経験だった。

まず、その内容は「優先順位」とか「生産性」が意味をなさないような時代のガイドラインとして、とても共感できるものだった。

そして私事にはなるけど、月の残業時間がコンスタントに100時間を超える状況で、(さほど長くないとはいえ)本一冊分のテキストを訳しきれたというのは、とても自信になった。ささやかだけど。

レオの主張に対して「非現実的だ」とか「理想主義的だ」という批判もあるみたいだけど(言いたいことはわかる)、この「フォーカス」の訳ができたこと自体がまさに「フォーカス」の考え方の正しさを証明してると思う。

だから「何かしたいけど忙しくて時間がない」と思ってる人(おそらく大多数の人)には、ぜひ「フォーカス」を読んで欲しいと思う。無料だしね。

そんなわけで、2012年もまったく2011年と変わらない方針で。「結果的に」何ができるかは、自分でもまったく予想がつかないけど。

あ、そして決して多くはないけどいつも読んでくださっている方、ありがとうございます。今年もよろしくお願いします。
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