知的生産と日本語とタイプライターと [Writing]
「知的生産の技術」の中で梅棹忠夫は日本語でのタイプライター(ひらかなタイプライター)の使用を提唱した。
パソコンがある今となっては想像もつかないような話だけど、当時多くの人に影響を与え、ひらかなタイプライターを実際に購入した人もいたらしい。
でも個人的には、「知的生産の技術」からインパクトでいえば、京大型カードやこざね法に比べれば今ひとつだった気がする。
もちろんぼくが「知的生産の技術」を読んだときには(1992年頃だと思う)、既にパソコンやワープロが当たり前に存在していたからというのもあるけど、それならカードやこざねだって同じことだ(今日の目から見ればコンピューターで代替できるという点では)。
■
日本語をタイプライターにのせたいと考えるようになった理由について、梅棹は「美学的なアプローチから」と書いている。自分の筆跡を残すことなく、無個性で美しい活字で日本語が書けることへの憧れ。その上で効率性、つまり手書きより早くて楽に書けることの重要性を指摘する。
今思うと、「文章は全身でかいている」というところはすごく印象的だったけど、タイプライターが知的生産に大きな影響を与えるということ自体が、当時のぼくには今ひとつイメージできなかった。カードやこざねほどインパクトを受けなかったのは、おそらくそのせいだろう。
研究者にとっては言わずもがなだったのかもしれないけど、多くの一般読者にとってもそうだったんじゃないだろうか。
■
知的生産、特に文章を書くことにおけるタイプライターの意味を教えられたのは奥出直人の一連の著作(「物書きがコンピュータに出会うとき」と「思考のエンジン」)だった。
タイプライター、特に電動タイプライターを使うと「早く、楽に」書くことができる。「早く、楽に」書けると何がいいかというと、書き直しがたくさんできるのだ。
ファーストドラフト(下書き)をタイプで打つ。ファーストドラフトにはもちろん赤ペンで直しを入れる。それだけでなくハサミとノリを使って構成を入れ替えたりもする。それを見ながらタイプで打ち直す。また赤を入れ、ハサミとノリて入れ替える。また打ち直す。納得いくまで、あるいは時間切れになるまで、これを繰り返す。
通常、ドラフトはダブルスペースといって広めの行間で打つようにする。これは訂正をペンで書き込みやすいということと同時に、切り離しやすいという意味もある(そしてこのハサミで切って糊で貼るという作業のことを「カット&ペースト」とよんだ)。
つまり、欧米語ではタイプライターを使って、今日コンピュータで行っているような「書いては繰り返し修正する」、あるいは「まず書いてから考える」書き方を、ある程度までは行うことができたわけだ。
同じことを手書きでやることは不可能ではないけれど、手書きとタイプではその負担は雲泥の差だ。そしておそらく日本でそういう書き方を意識的に行っていた人はとても少なかったろうと思う(大江健三郎が原稿用紙をハサミで切ってつなぎ替えている様子をテレビで見たことがあるけれど)。
タイプライターで書くということには、そういう意味があった。梅棹先生が日本語をタイプに乗せたいと考えたとき、そういう使い方を念頭に置いていたのかどうかは、「知的生産の技術」からはわからない。
でも、もし自分がパソコン/ワープロ以前の時代に文章を書く必要があったとして、上のようなタイプライターの使い方を知ったとしたら、切実にタイプライターを欲しただろうと思う。
そして、当時カード法やこざね法に飛びついた人々の中にも、そういう人はたくさんいたんじゃないかと。
■
タイプライターの使い方なんて、今となっては意味のない知識のように思えるかもしれないけど、文章を書くということの本質を考える上でとても興味深い内容を含んでいると思う。
※ちなみに梅棹先生は、タイプで日本語を打つことの効用として他に「(同音異義語を意識することで)言葉選びが慎重になったこと」、「分かち書きすることで日本語の構造を意識するようになったこと」などもあげている。これはこれですごく興味深いけど、ちょっと別の話だろうと思うのでここでは触れなかった。
パソコンがある今となっては想像もつかないような話だけど、当時多くの人に影響を与え、ひらかなタイプライターを実際に購入した人もいたらしい。
でも個人的には、「知的生産の技術」からインパクトでいえば、京大型カードやこざね法に比べれば今ひとつだった気がする。
もちろんぼくが「知的生産の技術」を読んだときには(1992年頃だと思う)、既にパソコンやワープロが当たり前に存在していたからというのもあるけど、それならカードやこざねだって同じことだ(今日の目から見ればコンピューターで代替できるという点では)。
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日本語をタイプライターにのせたいと考えるようになった理由について、梅棹は「美学的なアプローチから」と書いている。自分の筆跡を残すことなく、無個性で美しい活字で日本語が書けることへの憧れ。その上で効率性、つまり手書きより早くて楽に書けることの重要性を指摘する。
さきに、タイプライターに対する美学的アプローチということをのべたが、もちろん、能率が問題にならないわけではない。手がきよりはやい、ということもたいせつだが、それとともに、タイプライターがきは、らくだ、ということがある。手がきというのは、じつは手でかいているのではなく、全身でかいているのである。身心ともにひじょうな緊張を必要とする。それにくらべると、タイプライターこそは、ほんとに指先の労働だけで、はるかにらくなのだ。電動タイプライターとなると、いっそうつかれがすくなく、しかもうつくしい。
「知的生産の技術」p.125-126)
今思うと、「文章は全身でかいている」というところはすごく印象的だったけど、タイプライターが知的生産に大きな影響を与えるということ自体が、当時のぼくには今ひとつイメージできなかった。カードやこざねほどインパクトを受けなかったのは、おそらくそのせいだろう。
研究者にとっては言わずもがなだったのかもしれないけど、多くの一般読者にとってもそうだったんじゃないだろうか。
■
知的生産、特に文章を書くことにおけるタイプライターの意味を教えられたのは奥出直人の一連の著作(「物書きがコンピュータに出会うとき」と「思考のエンジン」)だった。
タイプライター、特に電動タイプライターを使うと「早く、楽に」書くことができる。「早く、楽に」書けると何がいいかというと、書き直しがたくさんできるのだ。
ファーストドラフト(下書き)をタイプで打つ。ファーストドラフトにはもちろん赤ペンで直しを入れる。それだけでなくハサミとノリを使って構成を入れ替えたりもする。それを見ながらタイプで打ち直す。また赤を入れ、ハサミとノリて入れ替える。また打ち直す。納得いくまで、あるいは時間切れになるまで、これを繰り返す。
通常、ドラフトはダブルスペースといって広めの行間で打つようにする。これは訂正をペンで書き込みやすいということと同時に、切り離しやすいという意味もある(そしてこのハサミで切って糊で貼るという作業のことを「カット&ペースト」とよんだ)。
つまり、欧米語ではタイプライターを使って、今日コンピュータで行っているような「書いては繰り返し修正する」、あるいは「まず書いてから考える」書き方を、ある程度までは行うことができたわけだ。
同じことを手書きでやることは不可能ではないけれど、手書きとタイプではその負担は雲泥の差だ。そしておそらく日本でそういう書き方を意識的に行っていた人はとても少なかったろうと思う(大江健三郎が原稿用紙をハサミで切ってつなぎ替えている様子をテレビで見たことがあるけれど)。
タイプライターで書くということには、そういう意味があった。梅棹先生が日本語をタイプに乗せたいと考えたとき、そういう使い方を念頭に置いていたのかどうかは、「知的生産の技術」からはわからない。
でも、もし自分がパソコン/ワープロ以前の時代に文章を書く必要があったとして、上のようなタイプライターの使い方を知ったとしたら、切実にタイプライターを欲しただろうと思う。
そして、当時カード法やこざね法に飛びついた人々の中にも、そういう人はたくさんいたんじゃないかと。
■
タイプライターの使い方なんて、今となっては意味のない知識のように思えるかもしれないけど、文章を書くということの本質を考える上でとても興味深い内容を含んでいると思う。
※ちなみに梅棹先生は、タイプで日本語を打つことの効用として他に「(同音異義語を意識することで)言葉選びが慎重になったこと」、「分かち書きすることで日本語の構造を意識するようになったこと」などもあげている。これはこれですごく興味深いけど、ちょっと別の話だろうと思うのでここでは触れなかった。
リズムとメロディしかない文章 [Writing]
でもね、
それはつまりそういうことで、
どうせそういうことなら
さいごには
こういうことになる。
あなたはいつも
どういうことと
いうけれど、
そもそものはじめから
こういうことなんだよ。
なのに
わたしが
ずっとああしてきた
ということは、
わたしも
こういうことだということだ。
あのことも
このことも
そのことも
ぜんぶ。
だからもう
ここまでにしよう。
わたしのあなたへ。
それはつまりそういうことで、
どうせそういうことなら
さいごには
こういうことになる。
あなたはいつも
どういうことと
いうけれど、
そもそものはじめから
こういうことなんだよ。
なのに
わたしが
ずっとああしてきた
ということは、
わたしも
こういうことだということだ。
あのことも
このことも
そのことも
ぜんぶ。
だからもう
ここまでにしよう。
わたしのあなたへ。