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祈り、呪い、パンケーキ [Diary]

事情があって、ある人生の大先輩と話こむ。ファミレスで、四時間近く。

(20年ぶりくらいに「ジャンバラヤ」というものを食べたさ。それにパンケーキも)

といってもほとんど話を聞いていただけ。いろいろ思うところはあったけど、反論も意見もできる限りせず、ただ聞き続ける。

それでもまだ表面をかすっているようなものだと思う。うわずみみたいなものだ。

その奥に、長年の間体の中に蓄積され凝固したどこかで外に出すべきだった言葉たちの存在を感じる。

どうしてこんなになるまでその言葉は放置されてきたのか。

その責任の一部はたぶん自分自身にもあるのだろうと少し思い、いやそれは誰かに責任があるようなものではないと思い直す。



ここのところずっと考えていること。

祈りについて(宗教的な意味での祈りとは違うと思うけど、祈りという言葉を使わざるを得ない)。

たぶん、生きる姿勢に深く根ざした言葉のうちあるものを祈りといい、あるものを呪いという。

そして言葉とはエネルギーだから、呪いの言葉を相殺するのは同じだけの祈りの言葉だ、と思う。

でもそこにある呪いが個人の力ではどうにもならないくらい強力だったとき、何ができるだろう。

やっぱり呪いの言葉を相殺できるくらいの強力な祈りの言葉をつくることなのだろうか。

わからない。



フリーライティングについて考える。

自分のいちばん奥の深いところをにある言葉を形にしてみること。そして編集してみること。

最初に出てくるものはきっとうわずみだ。でも何度も書き出し、編集を繰り返しているうちに、そこに何が現れてくるか。



祈りとは言葉を形にしてみることからはじまる、と思う。でもそれは呪いだって同じことだ。だとしても、形にしてみることが必要なときもある。



形にされるべきときに形にされず、体のなかに止まり続ける言葉には毒がある。

言葉の毒は、長い時間をかけて人を蝕んでいく。時にそれは呪いと区別がつかない。



でもそこにあるのは決して呪いではないと信じている。呪いとパンケーキはきっと相性が悪いはずだから。

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九歳のフリーライティング [Thoughts]

一年生から五年生の二学期までアメリカに住んでいて、その間平日は現地の公立学校に通い、土曜日だけ日本語学校に通った。日本語学校では日本の教科書を使い、日本から派遣された先生が授業をした(かなり大変な仕事だと思うし、今でも感謝している)。

週に一回だから授業内容を完全に網羅するわけにはいかず、理科の実験なんかは省かれてたけど、かなりきちんとした「日本風」の授業だった。そのおかげで帰国して日本の学校に編入したときのカルチャーショックはかなり少なくてすんだ。

そして国語の授業にはもちろん「作文」もあった。



作文が大の苦手だったのは、「頭に浮かんだことをそのまま書けばいい」と言われて本当に頭に浮かんだことをそのまま書くと、きっと書き直しになるとわかっていたからだ。



「海」(再現)

バスがトンネルをぬけると海が見えてきました。
みんながかんせいをあげました。

(いいね)

ぼくだけかんせいをあげませんでした。
ぼくはいつもそうです。

(あれ)

ぼくは海が好きです。
海が見えてくるのを楽しみにしていました。
いちばん好きなのはさいしょに海が見えるときです。

(よしよし)

みんながかんせいをあげているのを見て
ぼくもかんせいをあげなければいけないと思いました。
ぼくもみんなのようにかんせいをあげたいです。

(あれあれ)

かんせいをあげる人は
海がとても好きなんだなあと思いました。
ぼくはあまり海が好きではありません。

(あれあれあれ)

みんなでうたをうたうこともぼくは好きではありません。
ぼくはうたを聞くことが好きです。

(??)

海は広いなあと思いました。
ぼくは海が好きです。

おわり

(!)



そしてやっぱり書き直しになった。
なるさもちろん。

でも、「順番が」とか「ねじれてる」とか「あれとこれは別の話」とか言われても、そのときはとても困った。思考はまさに一連のものとしてこの順番で進んだのだから。



今なら容易にわかるけど、これはフリーライティングみたいなものなのだ。

一連の思考の中に、いくつかのコアとなるアイデアが現れている。それをひとつひとつ選り分けた上で、どれかにしぼる必要があるのだろう。

当時のぼくにはどうしたらそんなことができるのか想像もつかなかった。「やり方」があるのだということさえ。

その「やり方」の例をはじめて具体的な形で見せてくれたのは、おそらくデボラさんだ。デボラさんについては以前「知的生産と能率の風景」という記事で書いたことがある。



それはそれとして、今考えるとこの作文は、自分という人間が夏休みに海にバス旅行に行ったときの体験と気持ちを実に総合的かつ多面的に表現できている、気がしなくもない。

そして海は好きなのか好きじゃないのか。

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渾然一体となった小さくて名前のない自負 [Thoughts]

以前の職場のちょっとエライ人とのお酒の席で「Tak.君が今まで関わってきた仕事でいちばん誇りに思っているものは?」と問われたので、具体的に名前を出して言えるようなものは特にないと答えた。

「それは自分を卑下しすぎてるんじゃないか。がんばってるんだからもっと自信を持ったほうがいい」と言われた。

またあるとき、新入社員とのお酒の先で「Tak.さんが今まで関わった仕事でいちばん誇りに思っていることは何ですか?」とやっぱり問われたので、具体的に名前を出して言えるようなものは特にないと答えた。

ちょっと困ったような触れちゃいけなかったようなとても微妙な顔をしていた。



でもそれは自負がないわけでもないし、もちろん卑下しているわけでもない。

自分なりに自負していることはもちろんちゃんとある。ただそれは名前をつけて人に提出できるような性質のものではないというだけだ。

たぶん、ほんとうに大変なことや、ほんとうに重要なことには名前がない。

それは、名前のない無数の小さな行動や、名前のない無数の小さな感情や、名前のない無数の小さな障害や、名前のない無数の小さな後悔や、名前のない無数の小さな挫折や、名前のない無数の小さな闘いや、名前のない無数の小さな達成が、渾然一体となったものだ。

つまり日々を乗り切っていくことだ。あるいは生きるということそのものだ。そのことを、十年とか二十年のスパンの中で望んだ六割でもできたなら、それは充分自負に値することだ。

ましてその中にあって、自分自身を見失わずにいられたなら。そして(今のところ)「本当には」負けずに来ているのなら。



というようなことをいうと誤解を招くけど、もちろん仕事だってそこには含まれている。その渾然一体となった小さくて名前のないものの中から「自分の仕事」は立ち上がってくるはずだ。



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