「風を感じろ!」普及運動 [Thoughts]
「空気を読め!」という台詞が嫌いです。
「空気を読む」というとき、表に現れてくる集団の力学のようなものが生理的にイヤ。読めない側に入るまいとして周囲の顔色を伺う、あのびくびくした感じとか。空気を読めないヤツを糾弾するときの、「こっちがわ」にいる人間の感じとか。
かといって、人との関わりの中で生きる以上、そのときの状況、コンテクストを無視してよいことにはならない。
だから個人的に「空気を読め!」の代わりに「風を感じろ!」普及運動を展開しています。
「空気を読む」とき、ぼくらは集団という顔のない他人の顔色をうかがうことになります。「自分、違ってない?」「大丈夫?」って。そして、顔のない他人を相手にしてる限り、人は蝕まれていきます。
「風を感じる」のは違います。
吹いてくる風の向きを感じながら、行きたい方向に行く。風は逆向きのこともある。でも、もし風に逆らって行きたいと思えば、そうすることができる。
向かい風があまりにも強いなら、風を避けて楽な方に行くかもしれない。抵抗がいちばん少ない、でも自分の行きたい方向にいちばん近い方向に。
空気を読みながらは生きられないけど、風を感じながらなら生きられる気がする。
「風を感じろ!」って、よくないですか?
「空気を読む」というとき、表に現れてくる集団の力学のようなものが生理的にイヤ。読めない側に入るまいとして周囲の顔色を伺う、あのびくびくした感じとか。空気を読めないヤツを糾弾するときの、「こっちがわ」にいる人間の感じとか。
かといって、人との関わりの中で生きる以上、そのときの状況、コンテクストを無視してよいことにはならない。
だから個人的に「空気を読め!」の代わりに「風を感じろ!」普及運動を展開しています。
「空気を読む」とき、ぼくらは集団という顔のない他人の顔色をうかがうことになります。「自分、違ってない?」「大丈夫?」って。そして、顔のない他人を相手にしてる限り、人は蝕まれていきます。
「風を感じる」のは違います。
吹いてくる風の向きを感じながら、行きたい方向に行く。風は逆向きのこともある。でも、もし風に逆らって行きたいと思えば、そうすることができる。
向かい風があまりにも強いなら、風を避けて楽な方に行くかもしれない。抵抗がいちばん少ない、でも自分の行きたい方向にいちばん近い方向に。
空気を読みながらは生きられないけど、風を感じながらなら生きられる気がする。
「風を感じろ!」って、よくないですか?